こんな「オシゴト」やってます!  雑感  写真 | 映画


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★★★ 映画化MI決定! 豪華キャスト大出演! ★★★
抱腹絶倒! 笑いと涙の金字塔! 
笑いに飢えたすべての読者に捧ぐ「夏目椰子」乾坤一擲の勝負作!
「十六団子」をめぐる人間模様を、軽妙な筆致と独特のユーモアで描く、
待望の長編小説『十六団子』を、WEB読者だけに公開します。
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 ●『その死からすべては始まるのだ!』 (第1部〜第1章)
 ●『団子3人衆はツヨイのだ!』(第1部〜第2章)
 ●『愛宕村って?』(第1部〜第3章)
 ●『葬式の朝はこうして始まった』(第2部〜第1章)
 ●『お葬式』(第2部〜第2章)
 ●『そして十六団子は・・・』(第2部〜第3章)
 ●『終わりの始まりの終わり』(第2部〜第4章)最終章

 
 

ここでは『村八分事件』を取り上げて村の本当の姿をあぶり出しつつ、奇想天外な葬儀風景を描きます。(作者注釈)

第2部〜第2章『お葬式』

1『緊張感みなぎる葬儀会場』

 座敷では本格的に葬儀の準備が行われていた。  
 今日の二所谷は水やお茶を何杯も飲んでは、ひっきりなしにトイレに立った。彼は相当緊張しているようだった。  
 二所谷は、表紙に『しかいしんこう』とミミズの這ったような字で書かれた大学ノートを少しだけ広げて、隠し読みするようにして何度も目を通していた。
「すみません、昨日サインペン折れちゃって、替えありますか?」  
 その二所谷に周平が声を掛けた。不意をつかれた二所谷はビクッとしてノートを閉じた。
「サインペンですか?」
「ええ」
「ちょっと待って下さい」  
 二所谷はそう言って、段ボールの中にあった茶封筒の中からサインペンを探し出すと周平に渡した。
(あっ! 手震えてる)  
 二所谷にペンをもらいながら周平はそう思った。  
 持ち場に戻った周平は、二所谷が用意してきた受付の机を、2尺ほどある玄関の上がりかまちに設置すると、その上に白い布を掛け『受付』と書かれた紙を画鋲で留めた。それから、新しい芳名帳を2冊その上に広げサインペンを2本置いた。次に会葬御礼の準備に取り掛かった。干し椎茸の入った箱に、今日届いた会葬礼状を挟み込み、それを持ち手の付いた白い紙袋に1つずつ入れていく作業だった。  
 相変わらず二所谷は、大学ノートを手に、あっちに行ったりこっちに来たりソワソワと落ち着きがなかった。
「ただいま、ただいまから、コ、コ、故宮下かなめ様の葬儀を執り行いますので、ご着席願いますっと・・・。うんうん。なお、ケータイ電話の電源は・・・」  
 ブツブツと二所谷は、周平の後ろで司会進行のリハーサルをしている。
「ケータイ電話の電源は、お切りくださるように・・・」
(大丈夫だ、ここは坊主のケータイ以外はつながらないから)  
 周平は会葬御礼セットを作りながら思った。
「お切り下さるように、謹んでお願い、じゃない、ご協力をお願いだな。ご協力をお願い申し上げ、じゃない、お願いしますでいいのか。なるほど。もう一回やってみよう」
(この方、この道のプロじゃないのか? 本当に大丈夫だろうか?)  
 周平は小学校の時の学芸会当日、まだ台本の下読みをしていたサル役のボンチンを思い出した。
(あん時のボンチン最悪だったんだよな。鬼退治をして、宝物を持って帰ってきた場面で、桃太郎役の俺が「おじいさん、おばあさん、この宝物は・・・」と言ったところで、いきなり「これは、おらがやっつけだがら、おらがもらう」ってアドリブ言って、勝手に宝物を全部持って舞台から消えてしまって・・・)
「お切り下さるよう、謹んでご協力をお願い・・・」  
 二所谷の声がフェイドアウトしていった。周平が振り向くと、彼はちゃぶ台に置かれたお茶をガブガブ飲んでいた。  
 一方、貴志の元には一三が到着していた。一三は、
「昨日もやっぱり徹夜ですた」  
 と、腫らした目で貴志にあいさつをすると、
「まずは、弔電の整理をすなければなりません」  
 と言って、続々と届く弔電の読み上げ順を貴志と一緒になって検討していた。そこへ長谷川がやってきた。
「あっ、一三先生、こちら今日弔電を読み上げてくれる長谷川さんです」  
 貴志が弔電アンドロイド長谷川を紹介した。
「大変お疲れのところ、ご苦労様でございます」  
 弔電アンドロイド長谷川は極めて折り目正しくあいさつをし、一三に名刺を差し出した。
「あっ、どうも。私、宮下一三と申すます。喪主の本家に当たります。あっ、名刺がなくて失礼すます。今日はどうぞよろすくお願いすます」  
 一三は大変恐縮して頭を下げた。  
 弔電アンドロイド長谷川は、
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」  
 と言って例の45度斜きお辞儀をした。  
 一三は、自分のお辞儀が低いと感じて、さらにもう一段低くお辞儀をした。  
 それに対して、弔電アンドロイド長谷川は、さらにもう一段ギアをシフトさせて65度に体を傾けた。  
 一三は、さすがにそれ以上の斜体は無理だった。彼はあきらめて体を起こした。
「いやあ、あの長谷川さん。なかなか素晴らすい方ですね。日本語も正確ですし立ち居振る舞いも非常に良くできております。しかも感情の起伏がなく『平常心』を身に付けておられます。こんな日本人を見たのは、本当に久すぶりです」  
 弔電アンドロイド長谷川が去った後で、一三はしみじみと貴志にそう語った。
(先生、あの方、実は日本人じゃないんですよ。もっと言えば人間でも・・・)  
 貴志はそう教えたい気持ちを抑えた。  
 弔電アンドロイド長谷川は、祭壇の前の自分の立ち位置を確認していた。そこへ洋がやってきた。洋は弔電アンドロイド長谷川を興味深く見上げて、
「ボット、ボット!」  
 と言った。  
 さらに洋は甘えるように長谷川の足に絡まり付いた。
(取リ乱シテハイケナイ)  
 長谷川は洋を無視して完璧な葬儀屋の態度で弔問客を見やった。洋が執拗に絡まり付いたが長谷川は決して動じなかった。  
 一方、長谷川の出現で気を良くした一三は、貴志を前に座敷のテーブルに座っていた。
「このシンセイ電子部品株式会社、常務取締役の山崎倫太郎さんと、同じく常務取締役の牛越晴彦さんはどちらが上位になりますか?」  
 一三は弔電の束を広げながら貴志に聞いた。
「ああ、上位ですかあ。まあ、年齢的には牛越常務のほうが上ですけどね」
「なるほど、では、牛越晴彦さんを上位にしていいですね」
「ええ、まあ、どちらも今日は来ませんので」
「そうではありません!」  
 一三は貴志の安易な発言に反応してこう言った。
「ご本人が来る、来ないの問題ではありません。それを誰か会社の人が聞いているから怖いのです。もしその方が順位を気にする人だったり、貴志君の腹を探るような意図を持って聞いていたとすたら、会社で大変なごどになってすまいます」
「ああ、なるほど。そうですね」  
 うなずきながら貴志は別のことを考えていた。
(そうは言っても、俺が会社の中でそんな重要人物とも思えないがな)
「ですから、殊に会社関係は気を付けなければなりません!」
「はい、分かりました」
「では、常務取締役の牛越晴彦さんの次に、常務取締役の山崎倫太郎さんということでよろすいですね」
「はい」  
 今日の一三は実に頼もしかった。彼はそれから書道具箱から白いさらしとはさみを取り出して、サトウの切り餅ぐらいの大きさの布切れを何枚も作った。それから葬儀日程が書いて貼ってある梁の所へ行き、紙の曲がりを5度直した。  
 それだけではなかった。一三は新たに弔電や弔花が届くと、それを細かくチェックして変更点を筆で書いたり、弔花の設置位置をあれこれ調整したりと葬祭プロデューサーさながらのめまぐるしい働きをしていた。  
 自分の司会進行のことで頭がいっぱいの本家葬儀屋とは全く対照的だった。  
 源蔵は源蔵で、仮駐車場になった貫太郎の家の前に看板を取り付けたり、玄関周りの掃除をしたりとこちらも多忙を極めている。  
 周平もモンタージュ顔のまなじりをキッとつり上げて、シシとして梱包作業に当たっている。
(葬儀屋に任せておけばと思っていた自分が恥ずかしい!)  
 貴志はそんな彼らを見ていてつくづく思うのだった。  

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2『村八分事件』

 一方、スミたちがいなくなった台所では、かつらと彩が少し時間を持て余していた。
「彩さん、朝早かったんですから疲れたでしょう。私ここにいますから、少し外の空気でも吸っていらっしゃいな」  
 かつらがそう言って彩にほほ笑んだ。
(確かにちょっと疲れたな)  
 彩は思った。
「すみません、じゃあ、ちょっとだけ」  
 彩はそう言って勝手口から表に出た。  
 庭木のカエデからセミ時雨が降ってきた。今日も暑くなりそうだった。  
 外では作之進がダミ若勢を前に何か話していた。
「貫太郎、ご苦労じゃの」  
 作之進が言った。
「ナモナモ、キョダバワギャモイピャイデイ」  
 地べたに座って休んでいた貫太郎が、頭の汗を手拭いで拭きながらいつもの超早口で言った。
「んだな。こんなに若いもんがそろったダミ行列は久しぐながったものな」  
 作之進は貫太郎の5分の1の速度でゆっくりとそう言うと、目を細めて若勢たちを見回した。
「こういう機会でもないと、ながながしゃべられねえがらの」  
 作之進はそう言って近くにあった切り株に腰掛けた。
「まあ、みんなも座れや」  
 作之進に促されて、タワス、メモチョー、チョロQ、ナマス、ゴルゴが地べたに腰を下ろした。やや遅れてボンチンと邦彦が座ると、それを見て若い鉄平と和彦も芝生の上に尻を付いた。
「わしは来月で95じゃ」  
 作之進はそう言って、一番若い槙原鉄平に笑顔を向けると、
「おめえどなんぼ違う?」  
 と聞いた。  
 槙原鉄平はちょっとドギマギしながら、
「ぼくは23だから、ええと、72違いますね」  
 と言った。
「おう! そんたに違うが!」  
 ボンチンが驚いて叫んだ。ボンチンは、年の差に驚いたというよりも、本当は鉄平が瞬時にその引き算ができたことに驚いたのだった。
「ぼくの4倍以上年上ですね」  
 鉄平が言った。
「おう! おめ、なして分がった!」  
 またボンチンが驚いた。今度は割り算に驚いたのだった。
「そうが、4倍も違うかの。わしは4倍も長く生ぎできたというわげじゃの」  
 作之進はしみじみそう言って鉄平を見た。鉄平は黙って大きくうなずいた。
「この村は好きかの?」  
 作之進の問いに鉄平はまた大きくうなずいた。  
 作之進は、隣に座っている蛭川和彦の顔を見た。和彦も「うん」とうなずいた。
「そうか、それは大変ありがだいごどだども」  
 作之進はそう言って目を遠くへ向けた。  
 アブラゼミの声が、青々と抜けるように広がった空に吸い込まれていった。貫太郎が手拭いを広げて長い頭の上に載せた。
「村八分という言葉は知ってるかの?」  
 作之進が聞いた。  
 2人の若者は互いの顔を見合わせてから、小さく「うん」とうなずいた。
「ムラハヅブっつえば、ハツケにすっこどだ、ハツケ」  
 ボンチンが先輩風を吹かせた。
「この村ではの、悲しい村八分の歴史があるんじゃが、貫太郎は分がるべ?」
「チチャジギハナシキダゴアル」  
 振られた貫太郎が、小さい頃に話は聞いたことがあると答えた。
「わしもまだ30そごそごじゃった。おめえはまだ生まれだ頃だな」
「ン、コマケゴダワニャ」  
 貫太郎は、細かいことまでは知らないようだった。
「あれは、60年以上も前のごどになるが、この村で実際に村八分事件という、悲しい事件が起ぎでしまったんじゃよ」  
 作之進はそう言ってまた遠くを見詰めた。作之進の瞳の中に不吉な光りが灯った。
「もともと愛宕村は大きな村でな。地主が6人もおったんじゃ。それが、今の本家と言われている家の祖先なんじゃが、当時、それぞれの本家には小作人がたくさんおって、彼らは本家の農作業はもぢろん、屋敷周りの世話などもやりながら本家を支えておったわげじゃの。本家は本家で、彼らに生活の扶持を与え、彼らの慶弔ごとの世話をし、そうすてお互い助け合って生ぎてきたわけじゃ。村にいる限りは、どごがの本家に属していなげれば生ぎていげながったというごどじゃな」  
 ゆっくりと、かんで含めるように作之進が言った。
「作じい、社会の勉強だばいいがら、早ぐ村八分の話してけねが」  
 劣等生のボンチンが急かした。
「まあまあ、話はしっかり聞ぐもんだ」  
 作之進は、ボンチンを手で制してからまた話を続けた。
「そういう時代は、本家も別家もお互い不満もなぐ、本家同士もちゃんとそれぞれの管轄の中で秩序を守って暮らしておったわげじゃな。それが、終戦後の昭和22年に、GHQの主導で『農地解放』が行われる。地主の土地はただ同然の値段で政府に買われ小作人に分げられたんじゃ」  
 ここで作之進は一旦辺りをゆっくり見回すと、ボンチンに向かって、
「小作人が土地を持づっちゅうごどはどういうごどかの、昭一」  
 突然振られたボンチンは、ドギマギしながらこう答えた。
「そ、そいだば、いいごどだべ」  
 作之進は目尻のしわに力を込めて笑った。
「んだな、お前の言う通りじゃ。それはいいごどだったんじゃ」  
 作之進に褒められたボンチンは頭をポリポリかいている。
「ネゴの額ほどの土地もなぐ生まれだ人間も、大地主の家に生まれだ人間も人間には変わりねえものな。みんな平等に土地があったほうがいいに決まっておるんじゃ。それはいい。それは良がった。じゃが・・・」
「じゃが、なした」  
 ボンチンは社会科の授業に興味を持ったようだった。
「おがしな関係が残ってしまった」
「何だ? おがしな関係って」  
 身を乗り出してボンチンが聞いた。
「ひと言で言えばメンツだべな」
「メンツって何だ? メンツカヅが?」  
 全員が爆笑した。
「ボンチン、おめえ鳥っこ屋だものツキンカヅだべ」  
 タワスが茶々を入れた。みんなが吹き出した。
「メンツってあれだべ。言ってみれば『いいふりこぎ』だべ。こばがくせえプライドだがっつう」  
 メモチョーがちょっと学のあるところを見せた。  
 作之進は白い歯を出して笑って、
「んだな、世間体だな。そもそも、そういうごどが村八分の根っこさあったんだべな」  
 と言った。  
 作之進はそれからナマスのほうを見て、
「益男、村の山あるべ?」  
 と言った。
「ああ、共有林が?」  
 山師のナマスが答えた。
「どのぐらいあるが分がるが?」
「結構あるべ」
「ん、今でも相当あるんじゃが、昔は今の5倍はあったんじゃ」  
 へえー、という顔でナマスが目を丸くした。
「村の共有林というのは昔から村の長が管理しておってな。その村の長は、代々本家の持ち回りになっておった。今から70年以上も前じゃ。その頃、村長をやっていだのが秋塚厳兵衛という男でな。今は秋塚という名字の家はないが、当時は村に十数軒の別家を抱える本家の中でも大きなほうの部類じゃった。秋塚厳兵衛は決して野心家だったわけではないが、さっき十次郎が言ったように『いいふりこぎ』だったんじゃな。とにかぐ自分の別家衆に格好付けたいという気持ちや、他の本家に対する虚栄心が人一倍強かった男でな。自分の別家ばかりに融通を利かすところがあった。秋塚厳兵衛は家にある書画骨董を惜しげもなく別家衆にくれてやったし、慶弔行事でも他の本家がやらないような大枚な香典やご祝儀を包んだものじゃった」
「おらも、秋塚の別家だばいがったなや」  
 ボンチンが言った。
「ばがっこの!」  
 ボンチンの頭をタワスがひっぱたいた。
「ただ、それだけならば良かったんじゃが、秋塚は不正を行ったんじゃ」
「何だ? 不正って」  
 目を輝かせてボンチンが言った。ほかのみんなも興味津々のまなざしで作之進を見詰めている。
「村の山じゃ。秋塚厳兵衛は村の共有林の不動産登記を勝手に変えて、自分や自分の別家衆の名義にしてしまったんじゃな」
「えーっ!」  
 驚きの声が上がった。
「そいで、そいで、そいで」  
 ボンチンがキャッチャーをやった時のように身を乗り出した。
「だども、そんたらごどやったらすぐバレっぺよ」  
 ナマスが言った。
「そう思うべ。とごろが10年以上もそれは発覚しながったんじゃよ。秋塚厳兵衛が村長を辞めてその後村長が3人替わったんじゃが、誰もその不正に気付かなかった」
「なしてなして」  
 ボンチンが聞いた。
「まあ、これは村長やってみでわしも分がったごどじゃが、いぢいぢ登記簿に目を通すようなごどはまあせんもんじゃ。そもそも、そんな不正があるなどとは誰も思ってないがらの」
「んだって、いづがはバレるごどだべ」  
 メモチョーが言った。
「まあ、厳兵衛としたら、仮に発覚するにしてもそれは何代も後になってからじゃろう。その時は時代も変わり人も変わっているがら、昔のごどは誰も分がらなぐなって既成事実だげが残るどでも思ったんじゃろうの」
「頭いいな、ゲンベイ」  
 ボンチンが妙なところで感心した。
「なんも頭いぐねべ。バガだべ、その野郎!」  
 ナマスが言った。
「ダイダ、ダイミチケダ」  
 現自治会長の貫太郎が、誰が不正を見つけたのかと聞いた。
「わしのおやじの肥五右衛門が村長をしていだ時じゃった」
「ナシェ、ナシェワガタ」  
 貫太郎がなぜ分かったのか、と不正摘発の真相に迫った。
「たまたまじゃな。国がら村の山に助成金が出るごどになって、調べでみだら分がったんじゃ」
「して、何となった、何となった」  
 ボンチンが聞いた。
「村の山の大半が秋塚らの個人名義に書き換えられておったわけじゃから、当然村に助成金は下りないということになって大変な問題になったんじゃ」
「当っだりめだべよ。どごにそんたらごどあるもんだ!」  
 ナマスがエキサイトして言った。
「怒ったが? 役員」  
 バリトンボイスのチョロQが初めて口を挟んだ。
「ワダスは体育部長だがら分がるども、それだばカンカンなって怒りますね」  
 タワスがちょっと気取って言った。
「ああ、怒った。怒ったのは役員ばかりではながったな。他の本家やその別家衆もカンカンになって怒って、共有林を村に返せと秋塚に迫った。しかし、秋塚は頑として首を縦に振らなかった。そして、最後には村を挙げての訴訟になったんじゃ」
「ソショー?」  
 ボンチンは首をひねった。
「ああ、裁判になって5年も争うごどになった」
「5年も?」  
 邦彦が言った。
「そうじゃ、その5年は、まさにこの村にとって悲しい歴史と言っていいじゃろうの。あんなに仲の良かった村人同士が秋塚側と他の本家側に分かれて反目し合うようになった。そして、その確執はどんどんエスカレートしていった。秋塚の家に石を投げて窓ガラスを割ったり、夜中に秋塚の田んぼの青田を刈ったり、陰湿な嫌がらせが繰り返されたんじゃ。一番かわいそうだったのは秋塚側の子どもたちじゃったな。学校でも村でも、徹底してハツケにされておった。誰も一緒に遊ばないんじゃよ。ああいうとごろは、子どもというのは残酷じゃの。そういうことを徹底してやられているうちに、秋塚側は経済的にも精神的にも追い込まれていったんじゃな。ついに4年目には全員村を出ていってしまった」
「はーっ」  
 何人かのため息が漏れた。
「これが村八分事件じゃ。この村はそういう暗ーい歴史があるんじゃよ」
「して、山、何となった?」  
 山師のナマスが聞いた。
「山は、裁判では結局、登記が正当な手続きで行われている以上、所有者の権利は守られるという判決でな」
「どっつの権利だ?」  
 ナマスが聞いた。
「秋塚側の権利じゃ」
「へば、その野郎だづのものなったのが!」  
 ナマスの目が獲物を狙うスナイパーの目になった。
「ああ、そうゆうごどじゃ」
「許せねえ!」  
 ナマスは銃を構えるまねをした。
「まあ、益男、そう力むな。そうやって力んだがら、ああいう悲しい事件が起こったんじゃからな」
「んだって、悪いごどした野郎はぶっ叩がねばねえべ。やられっ放しでいいのが?」  
 銃を構えたままナマスが言った。作之進は大きく息を吐いてから、
「やり方があるべ」
「やり方?」
「ああ、村の者がああいうやり方をしたがら、秋塚だぢは折れようがなぐなったんじゃと思う。秋塚が悪いごどをしたのは確かじゃが、それに対する制裁のし方もあるっちゅうごどをわしは言いたいんじゃ」
「ワラスらまでハツケにすっこどはねがったがもな」  
 チョロQが言った。
「村の人間はみんな家族みてえなもんじゃ。その家族の間でののしったり、いじめたり、のけ者にしたりしてどうするんじゃ。あれはやり方が間違っておったんじゃ。秋塚だぢが出ていった後も村人の誰一人として心が晴れ晴れした者はいなかった。今まで長いことそのことに触れたがる者がいなかったのも、のいい証拠じゃ」  
 ナマスの銃口が少し下がった。作之進は続けた。
「この村で生ぎでいぐためには、みんな家族だど思ってお互い仲良ぐ支え合っていぐしかない。しかし、いったんそういうごどが起ごってしまうと、とことん憎しみ合うところまで発展してしまうのもまた村じゃ。そういうごどは、血のつながった本当の家族でもあることじゃが、本当の家族ではない以上、村人一人一人が守らなければならないおきてがあるとわしは思っておる。それは、良くも悪くも人よりも飛び抜けてはいかんということじゃ。周りからひがまれたり後ろ指を指されんように、人に笑われんようにすることじゃ」  
 木陰でずっと話を聞いていた彩は、ふと思い出したことがあった。  

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3『笑わいる』

「おらのじいちゃん、ボゲでしまってウンチ手でつかんで投げるわ、部屋中さティッシュいっぱい散らがして、それさマッチで火つけるわで、ホントにおら殺してやるがど思った」  
 疲れ切った顔で咲子が言った。咲子は、長い義父の介護疲れで自律神経をやられ、病院に通っている65になる女だった。彼女の頭には10円はげが3個もあった。
「そうですかあ、それは、本当に、大変ですね」  
 彩はそう言って、慰めともつかない言葉を言うしかなかった。  
 咲子は、ひとしきり義父への不満とぐちを彩に話すと、最後にこう言うのだった。
「あいい、ダメだ、ダメだ。人かって笑わいる」  
 咲子に限らず、あるいは介護のぐちに限らず、村人は身内の不祥事や家の中でのトラブルを話すとき、最後には必ず『人かって笑わいねえように』という言葉で締めくくった。  
 それとは逆に、『人に妬まれる』ということを、村人は極度に恐れることも彩は知っていた。家の建て替えはもちろん、ちょっとした改築や小屋の普請ですら、秘密裏と言っていいほど、なるべく目立たないように行うのだ。
「わあ、立派なおうちですねえ。おめでとうございます!」  
 家を新築したと聞いて、彩はそれを見に行ったことがあった。それは畠山宏典という町役場を退職したばかりの男やもめの家だった。  
 宏典は喜ぶどころか顔をしかめ、
「息子帰ってくるっつうがら。あの野郎、水洗便所でねばねって言うし。おら、じぇんじぇんやりたぐねがったんだどもな。まあ仕方ねえ、なあに、みんな借金、借金。息子返すべ。おら知らね」  
 と言った。彼は謙遜というのとも違う、ばつの悪さみたいなものを表情に浮かべていた。  
 彩はその後でこんな村人の会話を聞いた。
「宏典んどご、たいした立派な御殿建てたべ。あれみーんな役場の退職金さ。さぞ、がっぽりもらったんだびょん」
「何でも、2000万ももらったっつうど」
「バガッ! なんもほでにゃ。2000万でねえ。3000万だど、3000万」
「ほう、役人ばりいいごどなあ」
「ああ、役人天国だなあ。税金で食ってる人間はリッツだなや」  
 彩はいい気持ちがしなかった。  
 リン子にもこんな話を聞いたことがある。
「道の駅さもの出してる仲間にもいろんな人いるんだよ。やつら、おらのが売れたりすっとおもしろぐねえんだべな。陰でいろいろ言ってるらしいよ。『リン子の出してるセリは、田んぼの用水路のどごさ生える汚い農薬まみれのセリだ』どがな。おらがたまにキノコを出したりすっと、『ほう、リン子。おめえ山さも行くのが? 随分頑張るなあ』って嫌み言われたりさ。まあ、そういうのは慣れてるし、気にしねえごどにしてるんだ。いっつものごどだもの。おらは野菜や漬け物作るのは大好きだし、人に食べてもらって、喜んでもらうのはもっと好きだ。だがらやってるだげさ。だども内輪のそういう人間関係は大嫌いだな。もっとみんなで、いいものはいい、うまいものはうまいって認め合って、道の駅を盛り上げていがねばダメなんでねえが? 仲間同士で足引っ張ってどうすんだよ。それだがら、こごの道の駅はどんどん客が減るんだ。出品する人もな」  
 彩はその頃こう思っていた。
(リン子さんのようにサッパリした性格の人ならいいが、『人に笑われないように』とか『人に妬まれないように』ということは、それだけ人の目を気にしているということだ。人の目を気にし過ぎる生き方ってどうなんだろう)  
 しかし、作之進の今の話を聞いているうちに彩はこうも考えた。
(善し悪しは別にして、この村では突出しない生き方がベターだったのではないだろうか。あいつよりもよくなろうと思えば角が立つ社会。だからおのずと目立たぬように調和して生きる以外にながった。誰かが蔵を建てると隣の人は腹立て、それがもっと嵩じればその蔵に火をつけにいくような村社会。だから、そういうことで村の秩序が維持され、家族の秩序が維持されてきた側面も確かになくはないだろう。『人に笑われないように』や『人に妬まれないように』というのは、複雑で厄介な人間関係の調整機能を果たしてきたのではないだろうか。そして、いろいろな意味で『平和の維持』に貢献してきた教えなのかもしれない)  

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4『村の閉鎖性』

「その秋塚って野郎、まだ生ぎでるのが!」  
 作之進の話に納得がいかないナマスが、また銃口を上げた。
「益男、いいがらそう熱ぐなるなって」  
 作之進は、両手を大きく広げてナマスを制すると、
「とうに亡くなったさ。孫がお前ぐらいの年だろうよ」  
 と言った。
「ただじゃおがねえ!」  
 ナマスがまた銃を構えた。
「なあ、益男、その孫に罪があるど思うが?」
「あるべ」
「そう思うが?」
「一族だもの、あるべ」
「そうゆうどごろが、村の悪いどごろじゃ」
「なんも悪ぐねべ。その野郎、村の敵だべ。バンッ! だべ」  
 ナマスの強硬論に何人かがうなずいた。
「わしはそれではいかんと思う」
「なしてだ? 作じい」  
 ボンチンが言った。
「春山伸三どご、知っとるか?」
「ああ、アイツ県だがどごだががら来た男だべ?」  
 メモチョーが言った。
「新聞も取ってねえ野郎だ。不届ぎ者だ、あいづは!」  
 新聞配達のタワスが言った。  
 春山伸三は、妻、貴理子と子ども2人を連れて、7年前に愛知県からこの村に移り住んできた。ぜんそく持ちの子どもの環境を考えての引っ越しだった。彼らは廃屋になっていた家を普請して、畑仕事と土方のアルバイトなどをしながら、つましい生活を送っていた。
「貫太郎、村の自治会費はなんぼだ?」
「年3000円だべ」  
 事業家のボンチンが代わって即座に答えた。
「春山の自治会費、なんぼが知ってるが? 昭一」
「なんぼって? 3000円でねえのが?」
「違う。なあ貫太郎」  
 作之進は現自治会長の貫太郎に振った。
「ンダ、アイダロッシェン、バイダバイ」
「6000円だってが! おら知らねがった!」  
 ボンチンが驚いて叫んだ。
「ンダテ、ヨソモハバイテヅトミャガソキマテペ」  
 よそ者は倍ってずっと前からそう決まっている、と彼は言いたかったようだ。
「そうゆうどごろがこの村の悪いどごろじゃ。春山伸三は、子どもも小さいがらまだ村にいてくれでるが、決して住み心地がいいどは思えん。谷崎和正、佐々木四郎、松井信吾、この10年でもいっぱいいるのう。せっかく村に来てくれだのに出で行った家族が」
(確かに・・・)  
 彩は思った。  
 以前彩は、春山伸三の妻、貴理子と道ばたで立ち話をしたことがあった。貴理子は押し殺した声で彩にこう言った。
「おみゃあさん、この村、しんどくにゃあか?」  
 貴理子は彩と同年代だった。彼女はそういう気安さも手伝ってか、村に来てから感じているさまざまな村人への不満を述べた。彼女はひと言しゃべるたびに、キョロキョロと周りを気にするような仕草をした。
「ええ、でも、うちは夫がこの村出身なんで、結構みんなに良くしてもらってますよ」
「おみゃあさんはええなあ。こっちゃあどえりゃあ住みにくくていかんわ」  
 彩は、貴理子との環境の違いを痛感した。
(これが村社会の閉鎖性なんだな。よそ者を受け入れないとか、マイノリティに徹底して冷たい風土。島国根性と言われるように、日本という国自体がそういう風土の中で、この村社会は特にそういう色が濃く残っている)  
 彩は、貴理子たち家族は早晩この村を出ていくのではないかとその時直感した。  
 排他的とか閉鎖性という意味では、もう一つ彩は感じていることがあった。かつて彩が、高合町の観光名物である『朝市』というものに行ったときのことだ。500年も続く伝統的な町の風物詩だと聞いて、期待に胸を膨らませて行った彩だった。  

 朝市通りという500メートルくらいの通りに、ほおっかぶりをしたおばあちゃんたちが50人ほど店を出し、家で作った野菜や山で採れた山菜などを並べていた。それ自体はとても風情のある光景だった。しかし、彩はそこにどことなく近寄りがたいものを感じた。観光パンフレットに出ているような、しわの深いえびす顔からこぼれるような笑顔を返してくれるおばあちゃんはほとんどいなかったからだ。むしろ、狡猾な商人(あきんど)の目をした老婆が圧倒的に多かった。
「これお幾らですか?」  
 おいしそうなカボチャを指さして尋ねた彩に、老婆は下からのぞき込むようにその目を向けた。
「600円だ。買っていってけれ」  
 その老婆は言った。
「はあ・・・」  
 彩は思った。
(ちょっと高いな。スーパーだったら500円もしないもんな)  
 そんな彩の一瞬の逡巡を目ざとく見てとった老婆は、
「ほが見できてもいいど」  
 と、あっちを向いて言った。  
 疑うならほかを見てきたらいいじゃないかという意図を彩はそこに感じた。
「ええ、すいません。じゃあ」  
 彩はそこを立ち去って向かいの店をのぞいていた。その時、こんな会話が後ろから聞こえてきた。
「よう、毎度さん。カボチャ食わねえが?」
「おう、うまそうだな。なんぼだ?」
「・・・」
「300円が?」  
 あの老婆はこの客に指を3本出したようだった。
「シッ! 黙ってれ、黙ってれ!」  
 老婆の押し殺したような声が聞こえてきた。  
 彩は一瞬にして朝市が嫌いになった。  
 商品の値段が明示されていないこと。人の顔色や足元を見て値段を決めること。この2つは、正義感の強い彩には最も許せないことだった。さらにスーパーなどの市場価格よりも一様に値段が高いということも彩には不満だった。さらに言えば、接客態度が非常に悪いということだった。特に一等地に店を構える老婆は、押し売りのような品の悪い売り方をした。
(これじゃ、いろんな意味で競争力なさ過ぎ)  
 彩はそう思って朝市通りを眺めているうちに、何となくではあるが出店者同士の縄張り意識のようなものを肌で感じた。長年ここで番を張ってきたであろう大物格の老婆たちは一種の既得権のようなものを持っていて、いつも一等地に店を出している。新参者は端っこのほうで小さく店を出さざるを得ない。彩はあくまでも想像だったが、そんな気がしてならなかった。
(何だかテキヤチック。怖ーい!)  
 彩はそれ以来朝市に行かなくなった。  
 その夜、彩は恒例の寝しゃべりの中でそのことを周平に話した。
「それってさ、やっぱり社会の狭さなんだろうね」  
 周平が言った。
「社会の狭さ?」
「うん、この土地でしか生きてこなかったからさ、社会を知らないっていうか」
「なるほどね。井の中の蛙ってことね」
「うん、だからそうやってお山の大将で商売してられるんだろう」
「そうね」  
 彩は「うんうん」とうなずいた。
「あ、そうだ。昔こんなことがあった」
「えっ?」
「誰だっけ? 浜田・・・」  
 周平はそう言って眉根を寄せて少し考えてから、
「そうそう、浜田伊万里って名前の子だった」
「うんうん」
「小学3年くらいの時に転校してきたんだ」
「へえ、どこから?」
「東京。みんなびっくりしてさ。だって言葉も着ているものも都会的だし、髪型とかもかわいくてさ」  
 周平は思い出しニヤニヤをした。
「あっ、こいつ惚れてたな?」  
 彩が布団から腕を出して周平の顔をツンツンした。
「伊万里ちゃんの水着・・・クックック」  
 周平はめげずにまた嫌らしい思い出しニヤニヤをしている。
「水着がどうしたのよ!」  
 彩はわざとふくれてみせた。
「えっ? あっ、うん。普通女子ってスクール水着じゃない? 当時」
「あっ、古ーい。スクール水着もだけど、その『ジョシ』って・・・」  
 彩がクスクス笑った。
「そうだね。『ダンシ』『ジョシ』って最近使わないね。何でだろう?」
「うーん、『男女共同参画』とかと関係ある?」
「男子校、女子校ってのも最近なくなってきたしね」
「うん、私の高校もそうね」
「うちの高校も最近共学校になった。でも、ちょっと待てよ。『草食男子』ってのあるね」
「あ、そっか。対義語で『肉食女子』もね」
「ウマの交尾ってすごいぜ!」
「何だ突然!」  
 彩が驚いて周平を見た。
「ちっちゃい頃、作じいんちでウマ飼っててさ。その交尾の時の残像が今でも目に焼き付いてるんだ」  
 周平は天井に残像を見ている。
「シュッ、シュッて蒸気機関車みたいに鼻から煙が出ててさ」
「ミウラのボイラー?」  
 彩が笑った。島田紳介のテレビコマーシャルのことだった。
「そう、あんな感じ。で、でかいの。めっちゃ長くて」
「・・・」
「やつ、目むいて挑んでんの。すごい迫力」  
 周平は興奮してきたようだった。
「やるな、草食男子!」  
 彩が言った。
「うん。この前テレビで見たけど、ライオンの交尾って案外淡白だったりするよね」
「あらそう、そんなのいつやってた? あんたも好っきねえ」  
 彩がカトちゃんのまねをして『あんたも好っきねえ目』で周平を見た。
「だから、肉食と肉欲がイコールかどうかはちょっと謎だな」
「あっ! 『草食男子』の定義に異議を唱えているわけね」
「まあ、イメージは分かるんだけどね。あっ、それはいいんだけど。その・・・」
「浜田伊万里ちゃんの水着?」  
 彩がまた『あんたも好っきねえ目』をした。
「そうそう、これが画期的でさ。ハイレグなわけよ」
「えっ! 小学生で?」
「うん、もろハイレグ」
「マジで?」
「うん、すんげえの」  
 周平はふがいないフニャフニャ顔になった。
「あのう、鼻血出ませんでした?」
「出ました、出ました」
「プールで?」
「うん、何人も。プール真っ赤っか」  
 彩は「バカじゃないの?」という視線を横目で周平に送った。
「で、まあ、言いたかったのはそう言うことじゃなくて」
「その映像得したな、こいつ!」
「ハハッ、ええと、その伊万里ちゃんの家には水洗トイレがあったのね」
「すごいね、この村で?」
「ううん、彼女この村じゃなくて隣の隣の真田門村ってとこに住んでてね。で、その水洗トイレっていうのも画期的だったし、大きな黒塗りの自動車なんかもあってさ。とにかく、もう何もかもすごいんだ」
「お金持ちのお嬢ちゃんなのね」
「うん。俺は伊万里ちゃんによって『都会』というものを知ったようなものだな」
「へえ、でもまた何でこっちに?」
「そう、そこなんだよ。俺たちもそれが謎だったんだけど、村の人もそこんとこを訝しんでというか怪しんでいたんだ、陰でね」
「うんうん」
「本人たちは、こういう自然に恵まれたところで暮らしたかった、都会の喧噪はこりごりだ、みたいなことを言ってたんだけどね」
「最近はやりの『田舎でセカンドライフ』みたいなやつね」
「そうそう。だけど、そういう価値観というかライフスタイルって、最近の『グリーンツーリズム』や『スローライフ』みたいな思想からであってさ、当時の人たちに分かるはずがないよね」
「そうだろうねえ」
「で、分からないから分かろうとする。でもサッパリ分からない。そうすると、今度は自分たちが分かりたいように納得できるようにしようと思うわけだな」
「勝手にいろんな話を作っちゃうわけね」
「そう。『都市伝説』ならぬ『田舎伝説』を作っちゃう」
「ファストフード店のハンバーガーにはミミズの肉が使われている・・・みたいな」
「そうそう。それが『田舎伝説』では、ミミズの大好物はハンバーガーである、みたいになる」
「プッ! それ、ないない」  
 2人は同時に吹き出した。
「でね、勝手に作っちゃったわけよ。浜田一家の田舎伝説を」
「うん、どういうの?」  
 彩が瞳を輝かせた。
「浜田賢司は怪しい化学兵器を作っている」
「ええーっ!」
「なぜなら、あそこの家から沢の目川まで怪しい1本の黄色いホースが伸びているだろう? あれが化学兵器の廃棄物を流すためのパイプなのだって」
「ええーっ! マジで伸びてんの?」
「うん、確かにね。でも、あれは今考えたら水洗トイレの浄化槽からの排水パイプだったと思うよ」
「なるほど。でも、みんなはそう信じていたのね」
「うん、事実無根の風説をね」
「で、どうなったの? ハイレグの子たちは」
「引っ越しちゃったよ、半年でね。クスン・・・。ああ、俺の初恋も夢と消え・・・」
「よしよし、泣くな、泣くな。私がここにいるじゃあないか」  
 彩は周平の頭をよしよししながら、
(狭い地域の全員が信じ切る分、それって『都市伝説』よりも怖いかも)  
 と思った。そして、あらためて狭い社会が持つ閉鎖性の弊害の大きさを感じた。  

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5『亜種』

「これだげ年寄りばかりの過疎の村になっても、まーだそうやってよそ者だ何者だって人を差別して、排除して、それがいいごどだど思うが? なあ、貫太郎」  
 作之進は現職の自治会長に話を振った。
「ソイダソダ、ソイダソダタテ・・・」  
 それはそうだ、それはそうだがというようなことを言いながら、貫太郎は手拭いで首の汗を拭いた。
「なあ、そうじゃろう。人口が減れば税金も減る。財政も何も立ち行かなくなる。実際にこごはもう『限界集落』ってもんになっとるそうじゃ。しかし、それより恐ろしいのは、近い血だけで命が引き継がれていぐってごどじゃ」
「限界集落って何だ?」
「何だ? 近い血って?」  
 ボンチンとメモチョーの質問が重なった。
「限界集落というのは、人口の半分が65歳以上のズンズバンバになった集落のごどですね」  
 タワスが的確に答えた。さすがは報道関係者だった。
「血のごどはどんぞ」  
 タワスは作之進にマイクを渡した。
「よその血を入れないで近い者だげで結婚してワラシを作っていぐごどは恐ろしいもんじゃ」
「なして?」  
 メモチョーが聞いた。
「古今東西、変わり者、少しおがしいのが必ず出でくる」
「ああなるへそ。んだばおらは大丈夫だ。おらのかあちゃんフリピン人だおん。んだども、タルだタル」  
 ボンチンはそう言って、『今いくよくるよ』のくるよのまねをして、おなかをパンパン叩いた。全員ドッと笑った。
「そうが、昭一の嫁はフィリピン人だったなあ」  
 作之進が言った。
「んだ、飲み屋で知り合ったんだ」
「フィリピン人一番! アミーゴ一番!」  
 ナマスが太い小指を突き上げて相づちを打った。
「そうゆうわげで・・・」  
 作之進はまた大きく一息つくと、
「よそがら来た者には、村を挙げでむしろ優しぐしねばダメじゃ。村人以上に応援してやらねばならねえもんじゃて。いいが、貫太郎、そういうおがしな会費は撤廃しろ。分がったな」  
 と言った。  
 貫太郎は少し困った顔をしていたが、
「ワッタワッタ、ソカイサカゲデヤテミル」  
 と、総会にかけて善処する方向性を表明した。作之進は「うん」と大きくうなずいて、
「今年は桜が咲がなかったべ」  
 と話題を変えた。
「ありゃあ、ウソのせいだ」  
 メモチョーが言った。
「んだ。あの野郎、全部桜の芽っこ食いやがって、今年ふとっつも咲がねがったべ」  
 いまいましげにタワスが言った。
「だども、あのウソは、こごら辺りさいるウソどは違うつうでねえが?」  
 メモチョーが言った。
「あれはウソの亜種だど。朝鮮半島のほうがら来た種類だど」  
 野鳥に詳しいチョロQが、バリトンボイスで学のあるところを見せた。
「あの鳥、なしてウソって言うんだ?」  
 ボンチンがチョロQに聞いた。
「もどもどは『災い転じでウソとなる』っつって、吉兆の鳥らすいな」  
 チョロQがまた学のあるところを見せた。
「キッチョウって何だ? 蚊取り線香が?」  
 ボンチンがトンチンカンなことを言った。
「バガッ! それは金鳥だべ!」  
 タワスがあきれたように言った。
「縁起がいいっつうごどだ」  
 チョロQが言った。
「なんもキッチョウでねえべ、あの鳥」  
 花見が好きなボンチンは、恨みをこめた顔で言った。
「桜の芽を食い荒らすのはいただげないが・・・」  
 作之進はそう前置きしてから、
「ああいう亜種は強い。そういう亜種も受け入れて、全体のバランスを取りながら強い遺伝子を残していぐ。それが自然っつうもんじゃ」  
 と言った。
「したら、おら一生花見でぎねえべや、作じい」  
 ボンチンは不満そうだ。
「そうゆうごどはないんじゃ。ちゃーんと増え過ぎれば淘汰されるのが自然界の摂理っつうもんじゃで」  
 作之進はゆっくりとそう言ってまた視線を遠くへ投げた。視線の先には五反山があり、その先に遠く連なる奥羽山脈の尾根があった。尾根の稜線に沿って微かに黒い雲が掛かっているのが分かった。
(あれっ? あの人誰だろう?)  
 彩は、自分の反対側の木の梢に腰掛けている老人に目をやった。  
 喪服を着た白髪の生真面目そうな男だった。年は80代と思われるが、作之進と比べて全体に生気がなく疲れた感じだった。
「そうゆうわげで・・・」  
 作之進はそう言って若者2人に笑顔を向けた。  

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6『若者』

「若いもんが村に戻ってきてくれるごどは大変ありがたいごどじゃ。なあ、貫太郎」
「ンダ、タスタタッカル」  
 貫太郎も、たいした助かると言って、無垢のほほ笑みを浮かべて若者を見やった。
「どれ、今度は若いもんの話を聞こうかの。わしの4分の1しか生きてない・・・」  
 そう言って作之進は鉄平を指さした。
「鉄平、しゃべれ、しゃべれ!」  
 ボンチンが促した。  
 鉄平は頭をかきながら、
「あ、鉄平です。槙原鉄平、耕作の息子です」  
 と言った。
「それだばみんな分がる、分がる」  
 とボンチン。
「オトスは?」  
 タワスが聞いた。
「あ、23です。えっと、高校出て東京で勤めてたんですけど、最近流行のあれに遭って・・・」
「ああ、ハケンギリが?」  
 ボンチンが言った。
「ええ、そうです。まあ、そんなとこですね。はい」  
 鉄平は、照れくさそうにそう言って隣の和彦を見た。自分の自己紹介は終わったという仕草だった。
「作じい、鉄平のリュックさ10キロの石入ってるんだど!」  
 邦彦が言った。
「はあ」  
 作之進は驚いたときに発する、『は』にアクセントを置いたいつもの感嘆詞をはいた。
「ああ、これですか。これは訓練っちゅうか、鍛えてるんです」  
 鉄平は、肩に背負ったリュックサックに目をやった。
「はあ」
「あ、いや、あのう、アドベンチャーレースって・・・知りませんよね」
「はあ」
「あのう、何て言うか、ひと言で言えば『動力を使わないスポーツ全般を複合的に入れた耐久レース』なんですけど。あ、全然ひと言じゃないっすね」
「はあ」  
 作之進は全くわけが分からない。  
 邦彦が助け舟を出した。
「おらもさっき聞いだんだども、例えば分がりやすぐ、こごら辺のごどで言えば、ヨーイ、ドンッ! で、まずあの五反山の頂上まで全力で走るべ、なあ、作じい」
「はあ」
「そごで何がさはんこ押してもらって、それがら今度戻ってきて猿股橋まで走っていぐべ」
「はあ」
「それがら今度は、そっからカヌーさ乗って・・・」
「はあ、カヌー?」
「ああ、手漕ぎ舟だ。それがら、その手漕ぎ舟を全力でこいでネコバリ岩まで行って、はんこ押して」
「はあ」
「それがら今度は、真橋村のがげをロープ1本でよじ上って・・・」
「はあ、真橋村のあのがげを?」
「ああ、例えばだ、例えば。で、そっから今度は自転車さ乗って全力で走って、馬さ乗ったりやぶの中かき分げで進んだりしながら、そうやって何日もかげでやるレースなんだど。それも世界の秘境みでえなどごで。なっ、分がったが、作じい」
「はあ、へばマンマは何とす?」
「走りながら食うんだど」
「はあ、へば、寝るどぎは?」
「寝ねんだど!」
「寝ねえ・・・はあー」  
 作之進が感嘆詞の語尾を長く伸ばした。あまりにも驚いたという表現だった。
「まあ、そういうレースがあって、その世界大会に出ようと思ってるんです」  
 鉄平が瞳を輝かせて言った。
「去年はポルトガルで大会があって日本チームは15位に入ったんですよ。俺も2〜3年後には世界大会に出たいと思ってるんです」
「はあ」
「陸ものはもちろん、ここには川もあって水ものの練習にもなるからもってこいなんです。それに、以前マダガスカルで大会があった時、世界中の選手がヒルにやられて、中には目や尿道の中に入られたりする選手もいて大変だったんですが、ここには山ヒルとかもたくさんいるんで環境としては最高っすね。山ヒルも克服できるかもしれません」
「おめえ、山ヒルって・・・」  
 と言って、ボンチンが絶句した。
「はい、毎日10匹ずつ吸わせてます」
「マズが?」  
 ボンチンが驚愕の声を上げた。
「最近は血が止まるようになってきました。免疫ができたんでしょうね」
「マズだが? いいごど聞いだ。そういうやり方もあったが」  
 ボンチンは職業柄山に入ることが多かったが完全な克服法を知らなかった。長靴の口をガムテープで留めたり、ピッチリした服を着ていっても、ちょっとした衣類のすき間から山ヒルが入り込んでくるのだった。
「そうが、免疫作ればいいんだな!」  
 事業家ボンチンの目が輝いた。
「鉄平はな、作じい。10キロの石背負って、毎日30キロも走ってんだど」  
 邦彦が言った。
「はあー」  
 作之進はいよいよ目を丸くした。
「だども鉄平、そんたごどやってでメス食えるのが?」  
 事業家ボンチンが経済的な面を心配した。
「いや、それはあまり期待できないけど、夢っていうか、とにかくやってみたいんで・・・」
「はあー」  
 キラキラした若者の目を、ドギマギした老人の目が見詰めていた。
「作じい、和彦もすげえんだど」  
 邦彦はそう言って、今度は蛭川和彦に話を振った。
「何にも、すごくないっすよ。鉄平みたいに俺、体丈夫でもないし」  
 和彦は照れて体をよじった。
「ミューズシャンだ、作じい」
「はあ」  
 作之進がポカンとした表情を作ったので、邦彦は言葉を言い換えた。
「歌手になるんだど」
「はあ」
「いやあ、まだそんな・・・」  
 和彦は照れて下を向いた。
「そういえば、おめえは鎌之助の孫じゃったの」  
 作之進が聞いた。
「ええ」
(ああ、この子がカマジイ自慢のお孫さん? そういえばどことなく顔がサルっぽいかも)  
 彩は、「カマジイ」と呼んでいる炭焼きのおじいさんのことを思い出した。  

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7『カマジー』

 カマジイというのは、本名の鎌之助からの命名でもあったが、職業が炭焼きで冬の間は炭焼き窯で炭を焼いているからでもあった。カマジイの顔は、ノーメイクで『猿の惑星』に出演できそうな猿顔で、彩の大好きな鹿賀丈史そっくりだった。  
 彩がこっちに来たばかりの頃、周平と彩はカマジイに案内されて村の山を歩いたことがある。山が紅葉を始める少し前の10月だった。
「ほれっ、カッコの実だ」  
 カマジイはそう言って、クワの実を取って彩の手に握らせた。カッコとは、『クワっこ』からきた方言のようだった。
「わあっ! 奇麗なドドメ色!」  
 彩が言った。
「そもそもドドメってクワの実のことらしいよ。養蚕が盛んだった地方にそういう呼び名があるんだって」  
 山菜や木の芽に詳しい周平が解説した。
「へえーっ、そうなんだ。それにしても奇麗な色ね」
「若い時は赤くて、熟すとこういう色になっておいしくなるらしい。うんうん」  
 周平は意味深なことを言った。
「ほれっ、食ってみろ」  
 彩がドドメ色の小さな実を口に含むと、甘酸っぱい味が口の中一杯に広がった。
「わあっ! ブルーベリーのようなラズベリーのような、それより甘い味ですね!」
「この葉っぱはな」  
 カマジイは、そうやってクワの葉を1枚むしって見せながら言った。
「昔はカイコさ食わせだもんだで」
「カイコって、あのマユを作る虫ですよね」  
 彩が聞いた。
「んだ、絹の糸んなる、あれだ」
「この辺でもやってたのかい?」  
 クワの実で口元を紫色にした周平が聞いた。
「ああ、やってだ家もあった」
「へえーっ!」
「絹っつえば高級品だったがらな」
 カマジイはそう言って、ナタで雑木を払いながら山の中へズンズン入っていった。  
 山の中を5キロほど歩いて彼らは炭焼き小屋に着いた。そこは、近くに奇麗な小川が流れている場所だった。カマジイはそこに荷物を置くと、
「ついでこい!」  
 と言って、さらに深い山の中にズンズン分け入っていった。
「ほれっ、コグアの実だ」  
 カマジイは、今度はしわしわの小さな実を取って彩の手に置いた。グミくらいの大きさだった。
「えっ? 何ですか、これ」
「食ってみろ、うめえど」  
 緑がかったしわしわの実を口に含んだ彩が叫んだ。
「うわあ!」  
 感動的な味だった。キウイフルーツをギューッと10分の1に濃縮して甘くしたような味。よく見ると、割った切り口の感じもキウイそっくりの実だった。
「これ、コクワの実っていうんだ。名前は似てるけどクワとは違う種類でマタタビの仲間なんだって。キウイの原種って何かに書いてあったよ」  
 周平が言った。
「へえ、コクワの実って、『ひらり』の主題歌に出てくるね」
「そうそう、昔見てた見てた」
「カマジイ、知ってる? この歌」  
 彩はそう言って突然大きな声で歌い出した。
「一緒に行こうよ〜! コクワの実また採ってね〜!」
「おめえ!」
「えっ?」
「死ぬほど下手くそだなあ」  
 カマジイはそう言ってサルのような顔で笑った。
「ひっどーい!」  
 彩はふくれてドングリを拾うと、
「えいっ!」  
 と、カマジイに向かって放り投げた。

 

 カマジイは、『ミッコ』という竹で編んだかごにコクワの実をたくさん入れた。それからアケビの実も何個か入れて、
「あどで分げっからな」  
 と言った。  
 彩は、手当たり次第コクワの実を採って食べた。口の中がビリビリ痛くなるほどだった。
「食い過ぎるとケツがかゆくなるんだってよ」  
 周平が脅かした。
「うそっ! そう言えば・・・ねえ、それ早く言ってよ!」  
 彩は、お尻をポリポリ掻きながら周平をにらんだ。  
 しばらくそうやって木の実を採ってから、彼らは炭焼き小屋に引き返した。
「周平、ちょっと来い!」  
 カマジイはそう言ってミッコを下ろすと、靴を脱ぎズボンをたくし上げて小川の中に入っていった。
「えっ? あっ、ちょっと・・・」  
 周平は慌ててカマジイの後を追った。  
 カマジイは、直径1メートルもある大きな石の前で周平を手招きしている。
「うわっ、冷てっ!」  
 山から流れてくる清冽な沢の水が、周平の裸の足を切るようにして流れていった。
「おらこっちがら手入れるがら、おめえそっちがら手入れろ」  
 周平はカマジイに言われたように、川下から石の下に手を入れた。石は底のほうがくぼんでいて、くぼみは細い水路のようになって川上につながっているようだった。
「少しずづぼってこい!」  
 カマジイが、少しずつ追ってくるように指示を出した。周平は腕を徐々に中のほうに入れていった。  
 ブルブルッ!
「おっ!」  
 周平の手に、いきなり高圧電流が流れたような衝撃が走った。
「逃がすな!」  
 カマジイが声を掛けた。周平はしっかりと両手で穴をふさいだ。  
 ブルッ! ブルブルブルッ!  
 ものすごい圧力が周平の手のひらに掛かった。そして、間もなくその動きが止まった。
「オッシ、獲った、獲った」  
 カマジイは、そう言って水から腕を上げた。  
 カマジイのごつい手につかまれていたのは40センチもある大きなイワナだった。
「わあーっ!」  
 川岸から彩が拍手を送った。  
 手づかみで獲ったイワナを串に刺して塩を振ったカマジイは、焚き木を集めてきて火をおこした。3人は焚き火の周りに腰を下ろした。
「オーマズロー知ってるが?」  
 イワナの串を火にあぶりながら、いきなりカマジイが言った。
 えっ?」  
 周平と彩は顔を見合わせた。
「オフコースのだ」
「えっ?」  
 2人は驚いてまた顔を見合わせた。それは、オフコースについての驚きではもちろんなく、カマジイの口から『オフコース』という言葉が出たことへの驚きだった。
「ああ、オフコースならもぢろん」  
 ジョークではなく、いたってまじめに周平が答えた。
「あのバンドでドラム叩いでだ男だ」  
 オフコースといい、バンドといい、ドラムといい、およそカマジイの口から飛び出しそうもない言葉ばかりだった。
「ああ、そのオオマジロウって人だすか?」
「んでね、オーマズローだ」
(Oーマズローさん? 外人?)  
 彩は、以前心理学で勉強した『欲求段階説』を思い出した。
(でも、あの人はアブラハム・マズローだったはずよね、確か)
「今エフエムでデンジェーやってる」  
 さらにナウい横文字が、炭焼き老人の口から飛び出した。
「へえ、カマジイ、詳しいな」
「うん、すごーい! 私たちより詳しいわ」  
 2人は感心してカマジイを見た。
「あの番組のテーマソング作ったんだ。『響きの森』っつう曲だ」
(何、何、何、何? ちょっと・・・あなたが?)  
 彩は、目の前のイワナが突然フランス料理になってしまったぐらいに驚いた。
「カマジイが?」  
 周平はカマジイをチラッと見て、
「まさが、なあ」  
 と言った。  
 カマジイはまじめな顔で、
「おら作った」  
 と言った。
「うっそーっ!」  
 2人は驚いてカマジイを見た。  
 カマジイは今度はニヤッと笑って、
「なんも、なんも、おらでね。おらの孫だ。アコスチギターで歌作ってるんだ。アーツストっつうんだど」  
 と言った。
「なあんだ」  
 拍子抜けした彩だったが、カマジイの口から飛び出したハイカラな言葉にまた耳を疑った。
「この炭焼き小屋さもギター持ってきて、よぐ曲作ってるみでえだな」  
 カマジイは目を細めている。
「ああ、そういう自然系の音楽なんですね?」  
 彩が言った。
「何でもナッツラサンドっつうもんだそうだ」  
 ジューッ!  
 イワナから垂れた汁が焚き火の上にこぼれ、香ばしい匂いが辺りに広がった。
「シガスカオ知ってるが?」  
 カマジイが言った。  
 2人はまた顔を見合わせることになった。  
 周平も彩も、最近のミュージシャンのことはほとんど知らない。
「シガスカオですか? 最近の?」  
 彩が聞いた。
「んだ。おら、シガスカオのプロレスっつう歌好きだ。エヌエッツケでやってっぺ」  
 イワナがいい感じで焼けていた。カマジイはそれを彩の手に握らせた。
「わっ! 重い!」  
 串はずっしりと重かった。
「ガブッとかずれ!」  
 カマジイは目尻に深いしわを作って笑った。
「うわっ! あちっ! うわっ! うまっ! あちっ!」  
 彩は涙を流さんばかりにうまがり、そして熱がった。  
 それを見て周平も笑った。  
 家に帰った2人は、早速インターネットで『シガスカオ』なる人物を検索してみた。検索画面には、『もしかして、スガシカオではありませんか?』と表示された。
「あれっ? もしかしてこっちが正解かなあ」  
 彩が言った。
「そうかもね」  
 彩がリンクをクリックした。
「あっ、やっぱこっちだ。シガスカオじゃ何か変だもんね」
「うん、まるでマサカリクサオみたいだもんね」
「それに曲名はプロレスじゃなくて『プログレス』だったみたい」
「やっぱりな。NHKでプロレスは変だと思ったんだよな」  
 2人はYOUーTUBEでその歌を聞いてみた。
「へえ、いい歌じゃん!」
「うん。ボクが歩いてきた日々と道のりを本当は『ジブン』っていうらしいってとこ、いいね」
「誰も知らない世界へ向かっていく勇気を『ミライ』っていうらしいってのもいい」
「でもカマジイが好きっていうのは、意外・・・」  
 彩は、そこのところだけちょっと引っ掛かった。
「カマジイの誇りなんだろうな、そのお孫さん」
「そうね、本当にうれしそうだったもんね、カマジイ」

 

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8『己の敵』

「はあ、そうが、和彦は歌手になるっつうごどだな。さすれば紅白歌合戦さも出る気かの?」  
 作之進が聞いた。
「いえいえ、そういう歌手じゃないんです。自然をテーマにした曲を作ってギターで演奏するみたいな・・・」
「はあ」
「こっち来る前にも、横浜でストリートミュージシャンやってたんです。『ゆず』とかみたいな感じで」
「はあ」  
 作之進は言ってることがサッパリ分からなかった。
「食えないから人材派遣会社に登録して、イベント会社の契約社員で使ってもらってたんですけど、そこクビになっちゃって」
「はあ」
「だけどこっち来てよかったです。自然の中にいると降ってくるんですよね。こう、下りてくる感じで。インスピレーションっつうか、ひらめきっつうか、ゆらぎっつうか」  
 和彦はそう言って何かを確認するように目を閉じた。
「だども和彦、そんたごどやってでメス食えるんが?」  
 事業家ボンチンが、また経済的な面を心配した。
「それなんですよね。今のところ全然。この間FMで曲が採用されたんですけど、まだまだこれからです」  
 和彦はそう言って上空にキラキラした視線を向けた。
「そうが」  
 作之進は満足したように大きくうなずいた。
(理性や理屈ではないんだ)  
 2人の若者の話を聞いていて彩は思った。
(無意識の本能や命の衝動がより高次に昇華し覚醒した状態。さやかが言ってた『エス』ってこういう状態なのかも)  
 その時、聞き慣れない声がした。
「それは若いからできることさ」  
 ゴルゴだった。ゴルゴは吐き捨てるようにそう言って足元の草を乱暴にむしった。  
 ゴルゴは、大阪の機械メーカーに就職していたのだが、50を前にして突然リストラに遭った。彼は理不尽なリストラをした会社をのろい、会社の不祥事を匿名で告発するようになった。しかし、そういう陰湿な努力も空しく、彼が去った後の会社は逆に業績を伸ばし過去最高の利益を計上した。  
 その頃から、彼の恨みの矛先は家族と自分に向かっていく。酒に溺れるようになり、泥酔の果てに妻に暴力を振るうようになった。妻が弁護士を連れてアパートにやってきたのは、リストラから半年もたっていない冬の夜だった。  
 妻からも子どもたちからも逃げられた優一は、1人寝台特急『日本海』に乗った。7年前の3月、愛宕村にはまだ雪が残っていた。家には73になる母親が独りで暮らしていた。  
 優一は、幾ばくかの退職金の残りを資金にインターネットで株取引を始めた。初めの頃はビギナーズラックもあって多少儲かった。しかし、その後は『ITバブルの崩壊』、最近では『リーマンショック』などで、手持ち資金は底をつくほどになっていた。
「どんなに頑張ったってダメなものはダメさ」  
 ゴルゴが、猜疑心に満ちた目を宙に泳がせた。
「はあ」  
 作之進はそう言ってゴルゴに視線を向けた。
「おめえの敵は何かの?」  
 作之進はボツリとそう切り出した。
「分がるが?」  
 ゴルゴは黙っていた。作之進はグルリ周囲を見回した。
「おらの敵は、何といっても鳥インフルど山ヒルだべな」  
 ボンチンが言った。
「秋塚の孫1番! 金蔵2番!」  
 ナマスはなかなかしつこかった。  
 作之進はうっすら笑うとチョロQに聞いた。
「なあ、健吾、百姓のおめえにとっての敵は何かの?」
「やっぱす冷害どが台風どがだべな。このめえの大雨もおっかねがったなあ」  
 チョロQがバリトンボイスで答えた。
「その通りじゃな。自然っちゅうもんは昔も今も変わらん恐ろしい敵じゃの。人間はその敵を相手にダムを作り堤防を築いてきた。それは、ある意味自然に対する人間の『挑み』じゃ。じゃが、人間は自然に勝ったかっちゅうと、どうじゃ、いまだに豪雨ひとつ防げん。しかも、そのためにどれだけの金を使い尊い自然を破壊してきたごどか。今、そのツケが回ってきておる。自然がら逆襲を受げておる」  
 作之進はそこで一息ついて、首の汗をハンカチで拭った。
「人間はどこまでも挑んでいかねばならん。じゃが、大事なのは何に挑むかじゃ。これは百姓とて同じ。百姓は何に向がって挑んでるど思う? 自然に向かって挑んでるが? 自然さ挑む百姓などいねえべ。なあ、健吾」
「ああ、その逆だなあ。おらあ、毎朝お天道様さ『ありがどう』って拝んでるぐれえだ」  
 チョロQが言った。
「その通りじゃ。自然は敵どころか百姓にとっては味方以外の何ものでもない。お天道様に感謝、雨に感謝、大地に感謝してみんな生きておる。じゃあ、百姓が何に挑んでるかといえば・・・」  
 作之進はそう言って少し間を置いて、
「それは自分の中にある弱い心じゃ」  
 と言った。
「弱い心?」  
 ボンチンが聞いた。
「ああ、春になれば田畑耕して、種植えて、秋になれば収穫して、ガッコ漬けで、薪割って、冬はジーッと寒さに耐える。百姓というのは、綿々として尽きない地味な暮らしの繰り返しなんじゃ。そういうおんなじごどを、うまずたゆまずやっていくごどに萎えでしまえば百姓は一巻の終わりなんじゃ。じゃがら、くじけそうになったり、放り出したぐなったりするおのれの弱さに挑んでるんじゃ。これは百姓に限らん。稼ぎ人でも何でも、人間みーんなに言えるごどじゃ」  
 作之進は、ここで一息つくとゴルゴに視線を向けた。
「なあ、優一、おまえの敵はハケンギリした会社や社会か? 別れだ家族が? それを恨んでこれがらも生ぎでいぐつもりか?」  
 優一はジッと地面を見ている。  
 作之進は一気にそこまで話してしたたる顔の汗を拭いた。それから、目尻に深いしわを刻んでニッと笑うと、
「ようげしゃべったようじゃな」  
 と言って、竹の杖を持って「ヨッコラショッ」と立ち上がった。  
 作之進は杖をついて3歩歩いて立ち止まると、ゆっくりと後ろを振り向いてこう言った。
「わしはな、おまえたちがこの村さ帰ってきてくれで心底うれしいど思っておる。じゃが、本音の本音を言えば、こんなちーっちゃな村ば飛び出して、もっとおーっきなとごろで思いっきり羽ばたいてもらいたいんじゃ。和彦の何とが競走も、鉄平の紅白歌合戦もテレビで見でみたいもんじゃのう。見せでくれよ。わしが生ぎでいるうちになあ」  
 作之進は、そう言って2人の若者を誇らしげに見て笑った。それから大きく2回うなずくと、前に向き直って歩き出した。  
 作之進の話は、ウインスキー教授の元でマンモス発掘に挑んでいた頃の記憶を彩によみがえらせた。  

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9『マンモス発掘調査隊』

 あれは6年前の冬だった。彩は、シベリアのベルホヤンスクというロシアでも最も極寒の地で、モスクワ大学の『マンモス発掘調査隊』の一員として発掘活動に当たっていた。氷漬けのままでマンモスを発掘することが目的のプロジェクトにとって、氷が融け始める春までが勝負だった。しかし、マイナス40度を超える寒さの中での作業は、さすがのロシア人たちでさえ過酷極まりないものだった。海外からの参加メンバーの多くは凍傷にかかったり、心の病のために脱落し帰国していった。彩は、挫折しそうになる自分を励ましてくれる日本の仲間のメールを支えに頑張っていた。

 ー先輩、お元気ですか? そちらはさぞかし寒いことと思います。こちらもめっきり冷えてきました。  
 クリスマスイブには、東京にも雪が降ったんです。えっ? 由佳里ちゃんが冷えているのは、恋人がいなくて寂しいからじゃないかって? 残念でした! へへっ、今年はカレシ出来たんですよーだ。イブだって一緒でした。でも、まだどうなるか分からないですけどね。  
 ところで、先輩は巨大なカレシに出会えましたか? 新聞に写真入りで、先輩の顔と八重歯のかわいいカレシ君の顔が並んで載る日を楽しみにしてます。  
 ベルホヤンスクって、想像を絶するほど寒いところみたいだから、風邪なんかひかないように。あっ、そういう次元じゃないか。  
 それから、田名部はあれから茨城営業所に左遷されました。しかも、そこで地元の業者さんとトラブッちゃって結局会社クビでーす! やったあ! ざまあみろってカンジです。きっとバチが当たったのよね。  
 それじゃあ、元気で頑張ってください。おやすみなさい。(由佳里)ー

 ー周平です。この2週間バタバタしていてメールできなくてごめん。  
 今日は悲報と朗報があるんだ。  
 まず悲報だけど、一緒に頑張ってきた下町の工場が倒産したこと。うちの会社が、突然取引をストップしたことが原因なんだ。加えて、仲間の派遣社員が50人も一斉に契約解除になった。会社は不景気対策だと言うけれど俺はおかしいと思う。経営陣の報酬や待遇は何一つ変わってなんだから。  
 ここからが朗報。このことがあっていろいろ考えて、善は急げ、会社に辞表出してアパートも引き払った。  
 もう一度原点に戻って、これからの人生をどう生きたらいいのか、生きるべきなのかを真剣に考えてみようと思ったんだ。  
 東京でアルバイトしながらとも思ったけど、何だか中途半端になりそうで。そんなことしたって、今までトップに入れて走っていたギアをセカンドかローに落として走るようなもんだし、いっそのことそんなギアなんか壊してしまえ、そんなクルマなんか廃車にしちまえ! って思ってさ。  
 いい歳をしてゼロからの出発なんてバカじゃねえのって周りからは言われたけど、こんな理不尽なところでぬるま湯に浸かって生きて、そして死んでいく自分を想像すると何だか涙が出てきてさ。  
 こんなことを考えたのも、きっとシベリアでマンモス掘ってる彩の影響が大きいと思うんだ。  
 そのためのベストな場所はどこかって考えているうちにひらめいたんだ。ここぞまさに俺の原点ってとこ。  
 5日前にこっちに来て、15年間廃屋になっていた家を今改修している。雨漏りはするし、クモの巣が張ったほとんどお化け屋敷のようなひどい家だけど、大工仕事は得意なんで何とか住めるようにはなると思う。  
 現金収入のある仕事は期待できないけど、お金を極力出さない生活がここでは可能だ。サステイナブルライフってやつだね。畑やったり、薪割ったり、川で魚獲ったり、自然の恩恵を利用させてもらうことで何とか食ってはいけそうだ。  
 もう一つ朗報がある。こっちに来て気付いたんだけど、愛宕村には彩が言ってた『温故知新』があるってこと。小さい頃は全然興味なかったんだけど、年寄りの昔話だったりおかしな風習だったり。それが、ずっと昔から(氷河期とは言わないけど)継承されて残っているんだ。そうそう、裏山の崖にはアンモナイトの化石だってあるんだぜ。ここは考古学を学ぶ上でもいいところかもよ。  
 それから、実はここに来て一番感じていることは、彩に会いたいってことなんだ。彩がそばにいないことが、こんなにもつまらなくて淋しいことだって思わなかった。  
 彩に会いたい! あの頃みたいに声が枯れるほどしゃべりたい! 腹の皮がよじれるほど笑いたい!  
 彩とならどんな時も一緒にいて、どんな時も励まし合って、人生のゴールまで二人三脚で歩いていけると思う。彩! 俺の伴走者になってくれないか!  
 今ごろこんなことに気付くなんて、本当に俺バカみたいだよな。(周平)ー          

 彩は周平への返信メールにこう書いた。

 ーしばらくぶりのメールありがとう!  
 ここへ来て半年、相変わらず一日一日ほんのちょっとの積み重ねの連続です。特に硬い氷をピックハンマーで削っていくのは大変です。1日頑張ってもほんの数センチの氷が削れるだけ。今日はすごいブリザードがあって、せっかく削ったところが埋まって、また1からやり直しでした。あーあって感じです。  
 心の中で口ずさむ歌は、いつも『365歩のマーチ』と『氷の世界』。  
 でも、昨日の周平さんのメールで、今日は1日中ポカポカしてました。外は氷点下40度だけど私の体はプラス40度。熱があるくらいです。  
 今日、堅い氷を削っていて思ったことがあるの。  
 もしかしたら、私が発掘したかったのはマンモスじゃなくて、本当は『自分』だったんじゃないかって。  
 自分って何だろう? 思えば、私はずーっとそれを探して生きてきたような気がします。そして、いまだにその答えは見つかっていません。これからもずーっとこうやって迷っていくのかな?  
 でも、今日すごい発見があったんだ。これはマンモス以上のすごい発見!  
 それはね。1人では見つけられなくてもパートナーがいれば見つかるかもしれないってこと。1人よりも2人で見つける旅のほうが、同じ迷うでももしかしたらずっと楽しいんじゃないかなって思ったんです。  
 夏目漱石の小説『行人』の中に「和して納まるべき特性を、どこか相互に分担して前に進める人」っていう言葉があって、人生のパートナーは、ただ仲がいいだけじゃなくて、本当はそういうものなんじゃないかなって気がしていました。そして、そういう人を今までずっと探していたような気がします。  
 今まで近過ぎて分からなかったけど、私、実はもう掘り当てていたんですね。  
 驚きです! そんな発見をしただけでもこっちに来て本当によかった。  
 ありがとう! 私も早く周平さんに会いたい! (彩)ー

 氷漬けのマンモスの歴史的発掘はかなわなかったが、彩は極寒のベルホヤンスクの冬を乗り切り、最後まで調査隊の一員として頑張った。海外からの女性派遣メンバーの中で残ったのは彩だけだった。彩は、10か月の調査を終え4月に帰国した。成田空港に出迎えたのは由佳里と周平だった。
「先輩、おかえりなさい。わあっ! それ氷焼けですかあ? なんかたくましくって見違えちゃいましたよ!」  
 由佳里は彩を眩しそうに見ている。
「エスキモーみたいでしょ?」  
 氷焼けのために特に白く見える歯を出して彩は笑った。  
 周平はブスッとした顔で彩の重いバッグを背負った。
「八重歯のマンモス君発掘できなくて残念でしたね」  
 由佳里が言った。
「ところがね・・・」
「えっ?」
「もっとすごいものを発掘したの」
「えっ? どういうことですか? 先輩」
「ふふっ」
(先輩、何だかうれしそう)  
 含み笑いを浮かべる彩を見ながら由佳里はそう思った。  
 由佳里は周平に視線を送った。
(あれ?)  
 周平はムスッとしながら黙々と歩いている。
(周平さん、どうして怒ってるんだろう?)  
 由佳里は首を傾げた。
「ねっ!」  
 飛び上がるようにそう言って彩が周平の顔を見上げた。  
 周平の顔は彩にしか分からない『よろこび』を表していた。  
 2人は並んでズンズン歩き出した。
(???)  
 ロビーに立ち尽くしている由佳里を残して、2人はどんどん小さくなっていく。
「ねえ、センパーイ! ちょっと、どういうことですかあ?」  
 そう叫びながら慌てて駆け出した由佳里は、背の高い外国人にぶつかってこけた。
「ダイジョブデスカ?」  
 差し出された大きな手につかまりながら起き上がった由佳里の視界には、もう2人の姿はなかった。  

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10『まっすぐな視線』

 作之進の後ろ姿を、キッとした目でゴルゴが正視していた。  
 鉄平も和彦も、キラキラしたまっすぐな視線を作之進に送っていた。
「なーんだい、帰ってこいって言ってみだり、あっちゃ行げって言ってみだり、おらサッパリ分がらね」  
 チンプンカンプンなボンチンが、トンチンカンなことを言った。
「オッチュ、サッサ、ハガミッサスオマデコニャニャガタ、アイイ、サッサ、オッチュ」  
 貫太郎が長い頭を小鼓のようにピチャピチャ叩いた。何か失態をしたようだった。
「おらだぢ行ってくるが?」  
 邦彦は、そう言って鉄平と和彦に目で合図を送った。
「えっ? 今何て言ったんですか?」  
 鉄平が聞いた。
「墓の道さ塩まいでくんの忘れだんだど」
「えっ? どうして塩まくんですか?」
「ああ、山ヒル対策だ。塩が一番効ぐんだ」  
 彩は「塩」と聞いてふとマチを思い出した。
(マチとスミはどうしただろう? そしてムスタキさんは・・・)
「あっ! 彩ちゃん、塩あるが?」  
 彩を見つけたボンチンが叫んだ。
「はい、少しなら・・・」
「ミシェシャッテスオミツモカテイピャマガニャバダメダタ、ジェコヤルティニカテゲ」  
 貫太郎はそう言って1000円札を1枚邦彦に渡した。  
 3人は墓に向かって歩き出した。  
 途中、和彦が聞いた。
「あのう、今何て?」
「店さ行って塩3つも買っていげって。いっぺえまがねばダメなんだど」
「すげえ!」  

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11『死支度』

「あのう・・・」  
 玄関に向かって歩いていた作之進の後ろから声を掛けた者があった。振り返った作之進にその男はこう言った。
「私、美樹の父親でございます。要三と申します」
「ああ、美樹さんの・・・」  
 作之進はマジマジと要三の顔を見た。
「これはこれは、たしか一度結婚式でお会いしたごどがありますな」
「あれ以来ですね。よく覚えていてくださいました」  
 要三は深く頭を下げた。
「いやいや、遠ぐがらどうもご苦労さまで」  
 作之進も杖に寄り掛かりながらお辞儀をした。
「今、そこで勝手にお話を伺っておりました。いやあ、感動的なお話でした。私も妻に他界されて1年、弱い心でふぬけのような生活を送っておりましたが、今のお話で勇気をいただいたような気がいたします」
「いやいや、年寄りは説教好ぎで困ったもんですなあ」  
 作之進は頭をかいた。
「とんでもない。心が震えるようなお話でした」
「なんとも汗顔の至りですの。とごろで、要三さん、体調が悪いと息子に聞いておりましたが?」
「・・・」  
 要三は下を向いた。
「美樹さんも随分と力を落とされておりましたから、みんな心配しておりましたが、見たところ・・・」
「それが・・・」  
 要三は顔を上げて作之進を見た。
「それが、あれは娘のうそで・・・」
「はあ」
「お恥ずかしい話なんですが、急病だったのは私ではなく飼い猫のことで・・・」
「・・・」
「その飼い猫が昨日死にまして・・・」  
 要三は、そう言ってすがるような目で作之進を見詰めると、
「申し訳ございませんでした!」  
 と言って深々とまた頭を下げた。
「かなめさんのこんな時に、貴志君を助けてあげなければならない大事な時に、全く・・・」
「・・・」
「私は、親として恥ずかしくて、何でこんな娘に育てたのかと・・・」
「・・・」
「ひとり娘で甘やかして育てた親の責任です。本当に申し訳ありません。本当に情けない」  
 要三はそこで絶句した。
「優しいんじゃな、美樹さんは」  
 作之進は言った。
「飼い猫をそれだけ思いやる優しさがあるんじゃもの。優しい心を持った人なんじゃよ」
「し、しかし・・・」
「いやあ、人間それまで付き合ってきた時間の長さと深さで、偲ぶ気持ちに違いがあるのは当然のことじゃて。美樹さんがかなめを思う気持ちと、飼い猫を思う気持ちが違ってもしょうがないことなんじゃないのかの。人間の死もネゴの死も死には変わりがないとわしは思うがの」
「しかし・・・」
「美樹さんはかなめを思ってないわげでは決してない。今は、少しだげネゴのほうに気持ちがいってしまってるだけじゃ」
「そうでしょうか。そう言っていただくと・・・」
「わしが一番悲しいど思うのは、そういう気持ちをすっかりなぐしてしまった連中じゃな。平気で親を殺したり、老いぼれた親の面倒を放棄したり、最近はそういう心ない輩も増えておるようじゃなあ。悲しいことじゃ」
「本当に・・・何と言いますか・・・本当に面目ないことで・・・」
「ええんじゃ、ええんじゃ。わしは美樹さんのようなふた腹のない性格は大好ぎじゃよ。真っすぐで飾りがなくてスコーンとしておる。まあその分いろいろ摩擦も起こすがの」  
 作之進はそう言ってニカッと笑った。
「特にこの村ではウケが悪い」
「はあ」
「こごでしゃべったごどは誰にも言わんほうがいい。これ以上の摩擦は避げたいがらの」  
 作之進は口に人差し指を当てた。
「あ、ありがとうございます!」  
 要三は作之進の目を見詰めながら言った。
「要三さんは幾つになるかの?」
「はっ、85です」
「そうですか。いやあ、我々も上手な死支度をする時期にきましたなあ」
「死支度?」
「ん、最近は遺品整理業っちゅう仕事が大流行りらしいが・・・」
「遺品・・・整理業ですか?」
「そうじゃ。死んだ年寄りの部屋から山のような荷物が出てくるそうじゃ。服、本、書画骨董、何から何までガラクタを残して死んでいく年寄りがたくさんいるそうじゃのう」
「へえー!」
「無責任な物欲の塊じゃの」  
 作之進は杖でトントンと地面をつついた。
「格好悪いとは思わんか? 自分のケツも拭かないで『おら知らねえ』で『はい、さようなら』っちゅうのは」
「え、ええ」
「さっきの若者のキラキラした目を見たじゃろ?」
「ええ」
「ああいう前途ある若者に将来のツケをぜーんぶ残して、生きてる間に自分だけがいい思いをして、自分はあの世へ逃げ切るごどしか考えておらん。無責任で自己中心的な年寄りがいかに多いことか」
「・・・」
「年金でも介護でも今の年寄りは幸せじゃが、そのお金はどうじゃ? みーんな孫子らの借金で賄われておる。借金を返すのは自分ではない」
「・・・」
「自分の逃げ支度ばーっかり考えておるなんて、嘆かわしいと思わんか?」
「え、ええ・・・」
「ボケてしまわないうちに、せめて死支度ぐらいは自分でせねばならんのう」
「そうですね」
「それは、残すことと捨てることじゃ」
「残すことと・・・捨てること?」
「そうじゃ、何を残し何を捨てるかじゃ」  
 作之進は大きくうなずいた。
「これからが、お互い最後の最後の大仕事ですなあ」  
 作之進はそう言って再び杖をついて歩き出した。  
 ゆっくりと要三はその後に続いた。  

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12『サイタ、サイタ』

 葬儀を30分後に控え、会場となった座敷は多忙を極めていた。
「君、ねえ、これ分かる? この香典の名前ですよ、ねえ。村林安正って書いてあるでしょう、ねえ。ムラバヤシヤスマサ。これは君、あれですよ。元町長ですよ。ムラバヤシヤスマサって言えば、泣く子も黙るムラバヤシヤスマサ先生だ。元町長だ、ねえ。この人は偉い人なんだよう、ねえ。君、知ってるでしょう? ベイリーインポタン中のベイリーインポタンな人なんだ。だってあれだよ。この村の農地改良事業だってやった人だよ。立派な人なんだ。知らないとは言わせないよ。ねえ君、知ってるでしょ? 知らなきゃモグリだ。ねえ君・・・」
「いやあ、ちょっと分かりませんねえ」  
 周平は後ろを見ずに答えた。  
 次々に訪れる会葬者への対応に四苦八苦している周平の後ろで、さっきから一方的に話し掛けているのは「あの人」だった。
「ええーっ! ねえ、ちょっと照子、この人モグリだ、モグリ。村林安正知らないって。ねえ、ちょっと照子。信じられないよ、この人。誰? あんた」
「星野周平です!」  
 会葬御礼を会葬者に手渡しながら、周平はムッとして答えた。
「星野? 知らないねえ。でもねえ、私があんたを知らないのはねえ、あんたが有名じゃないからだ。ノットベイリーインポタンだからだ。何も村に貢献してないしねえ。貢献してる? ねえ、そうでしょ。でもねえ、村林安正を知らないのはどうだろう。ねえ、まずいねえ、それは。それはあんたを私が知らないのと、あんたが村林・・・いでっ!」
「ちょっとあなた、いつまでそんなとこでバカみたいに」  
 照子が言った。
「でもねえ、村林安正先生を知らないって言うんだよ、こいつ、どう考えたってモグリじゃ・・・いででっ!」  
 道秋は照子に腕をつかまれたまま座敷のほうに連行されていった。彼は連行されながらも、周平の背中に向かってまだブツブツ言っていた。
「あのねえ、君。その人の、その人って軽々しく呼んじゃいけないな、恐れ多くも元町長、村林安正先生のだねえ。会葬御礼ですけどねえ。それは私がもらって、いやいやいただいて、ちゃんとお届けしなきゃならないんだから。ねえ、君。ちゃんと分かるように名札付けておいてよ、名札・・・いでででっ!」
(こういうタイプはどこまでいってもこういうタイプなんだろうな。救いようがないっていうか・・・)  
 周平は心の底から閉口した。
「貴志君、今届いたこの三枝範美さんなんですが、この方はどういうご関係でしょうか?」  
 弔電を見ながら一三が聞いた。
「えっ? 三枝さんですか? いやあ、ちょっと分かりませんね。あっ、住所は?」
「ええと、千葉県木更津市とありますねえ」
(千葉? 木更津?)  
 貴志には全く覚えのない住所だった。  
 貴志は、寝室で喪服に着替えているはずの美樹を思った。
「あっ、ちょっと待ってください。今聞いてきます」  
 そう言って貴志が寝室に行こうとして向きを変えた時だった。
「貴志君、貴志君! ちょっと、君、あの、あれのことだけどねえ、昨日届いたでしょ。キムラヤキタロウ商店の小僧に頼んだやつ。ご仏前にって、ねえ」
「ええ、ちゃんと供えてありますが・・・」
「あれはねえ、君、最高級品の粉なんだよ、ねえ。店で一番グレードの高い、アンポピューラな粉なの。分かってますか? これ以上ないっていう逸品だってこと。それを言いたかったんだ。ねえ、照子」
「まあ、それなりにいたしましたわね。普通のお米の10倍とか言ってましたから」  
 照子はすました顔でそう言った。
「ああ、そうですか」  
 貴志は憮然とした表情で言った。
「ああそうですかって君、そういう言い方は失礼でしょ、ねえ、照子。私たちがどれだけ苦労してあの粉を・・・」  
 道秋はそこまで言って絶句した。昨日のことを思い出しているようだった。道秋は涙声になった。
「あの粉はねえ、それはそれはねえ、大変な苦労をしてだねえ・・・」  
 道秋はまた絶句してハンカチで鼻をかんだ。
「・・・」  
 貴志はチラッと腕時計を見た。『忙しいのだ!』という意思表示だった。
「あのババアとジジイはどちらです!」  
 照子が貴志に詰め寄るように聞いた。
「みんな忙しく働いていますよ!」  
 貴志にしてはちょっと険のある言葉がとっさに出た。  
 照子は一瞬あっけにとられたようだったが、すぐに声のトーンを1つ上げてこう言った。
「あら、そうですか。腰曲がりババアとチッチチッチジジイに見せてやりたかったですわね。あの粉、腰を抜かすほど、さぞビックリしたんじゃありませんこと」  
 道秋は、よくぞ言ったと言わんばかりに大きく首を振ると、ハンカチを持ったまま照子の肩に手を置いた。照子の喪服にナメクジが這ったような跡が付いた。
「さあさあ、照子、行きましょう、行きましょう。ねえ、全く人の気も知らないでねえ。どれだけ私たちが苦労したか、何も分かっちゃいないんだ。まあしかし、そんなもんでしょう。世の中はね。世の中っていうか世間はねえ。自分のことしか考えてないんだ。心の問題だこれは。心っていうか懐だな。懐が狭いねえ。自分たちだけが苦労してるとでも思ってるんでしょうねえ。陰で一生懸命頑張ってる人の気持ちなんか、これーっぽっちも分かっちゃいないんだ。ああ、本当に情けないねえ。私たちはそういう人間にだけはなりたくないもんだねえ、照子」
(それ、そのまんまお前らだろう)  
 貴志はムカムカと腹が立った。
「あっ、すいません。ちょっと用があるものですから」  
 貴志はそう言って、道秋と照子の間をすり抜けるようにして寝室に向かった。  
 寝室に美樹はいなかった。ベッドの上には、下着だけになったフランス人形が転がっていた。  
 貴志はきびすを返した。  

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13『処理速度』

「・・・そんなわけで、私も初めて見せていただいたんですけど、とにかく芸術的っていいますかホントすごかったですよう。もう手が違うのね。私なんか熱くて熱くて触れないようなお団子の塊を、こうやってこうやって平気でこねていくんですよう。驚きましたねえ、あれには。人間国宝ものだわあ。あっ、これこれ。これが完成した写真よう」  
 かつらは、そう言ってデジタルカメラの画像を美樹に見せた。  
 美樹は、黙ってチラッと一瞥しただけだった。
「あれ? これはあれですねえ、あいさつができた方だわ。そうそう、目の細い方。これもすごかったのよう。スミさんがね、教育的指導をしたら彼あいさつができるようになったの。これも見せたかったわあ。『ど、ど、どんも』なんて言っちゃって。もう、それはそれは・・・」  
 美樹はコーヒーを飲みながらかつらのはしゃいだ話を面倒くさそう聞いていたが、長々と続きそうなのんきな話をばっさりと遮断するように言った。
「彩さんは?」  
 ドスの利いた声だった。
「あっ、ええ、さっきちょっと外の空気を吸いに出ましたけど、その辺にいるはずですけどねえ。まあ本当に彩さんも朝早くからよく頑張ってらっしゃるのよう。感心なお嬢さんねえ」  
 かつらはそう言って窓の外を見た。黒い服を着た一団がこっちに向かって歩いてくるのが分かった。
(うちの連中だ)  
 美樹の目にもそれが映った。
「こういう時は、いろいろお互い様ですものねえ。喪主夫婦を助けるのが私たちの役割。何でも気兼ねせずに言ってくださいな。お力に・・・」  
 かつらはそう言いながら台所を振り返った。
(???)  

 座敷に現れた美樹を見つけた貴志が小走りで駆け寄ってきた。
「美樹! 一三先生が聞きたいことがあるって」  
 美樹は、受付の前で記帳を待っている部下たちを横目で見ながら一三の所へ行った。
「あっ、美樹さん、これはこれは。早速ですがこの三枝範美さんという方なんですが・・・」  
 美樹に苦手意識を持つ一三が恐縮しながら聞いた。
「・・・」  
 美樹の視線は玄関のほうに向いている。
「あっ、美樹さん、この・・・」
「ちょっと待って!」  
 美樹はそう言って立ち上がると、一三の前を横切って玄関に向かった。
「来てない人の分が27個ですので、会葬御礼は全部で33個です」  
 分厚い香典の束を周平に差し出しながら、美樹の部下が周平に告げていた。
「33個ですか!」  
 周平は、振り返って箱の残りを確認しながら狼狽した。
(ちょっと足りないなあ。もう少しセットしとけばよかった)  
 彼らの後ろには、何人かの会葬者が記帳を待って並んでいた。
「すみません、ちょっとお待ち下さい」  
 周平は焦りながら、まだセットしてない段ボールに目をやった。
「あっ! 吉村の分もあったんじゃない?」  
 部下の1人が言った。
「そうだそうだ、あいつもさっきよこしたんだったよなあ。そう言えば」
「うん、あいつも入れなきゃ」
「そっか、あっ、すいません、33じゃなくって34にしてもらえ・・・あっ! サブデスク!」
「何やってんの!」  
 肩を揺らしながら美樹が言った。
「あっ、会葬御礼の・・・」
「あんたたち、後にしな!」  
 美樹は部下にそう言って、目とあごで中に入るように促した。  
 部下たちは皆従順にその指示に従った。
「ジン!」  
 美樹が部下の一人を呼び止めた。
「あっ、はい!」
「曲がってる!」  
 部下は頭をかきながらネクタイを直した。
(美樹さんて、会社では頼りになる上司なのかもしれないな。人気もありそうだ)  
 周平は、部下たちが美樹の指示に従順だったからではなく、美樹を目にした時の彼らの表情からそんなことを思った。それは、かつて周平が下町の工場に出向して働いていた頃に若い職工たちが見せていた、頼りになる親方を見るときの顔の輝きと同じだったからである。  
 美樹は一三の元に戻った。そして一三の目を見てキッパリとこう言った。
「叔母! 父の妹!」  
 それはさっきの質問への回答だった。  
 てっきり美樹が聞いていなかったと思っていた一三は逆に慌てた。
「えっ? 誰ですだでしょうか?」
「三枝範美!」
「あっ、そうですた、そうですた。美樹さんの叔母に当たるわけですね。ええと、住所はこのチ、チ、千葉・・・」
「木更津!」
「はあ・・・」
「以上!」  
 この2人は、CPUの処理速度があまりにも違い過ぎるようだった。  

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14『緊張感』

 葬儀開始を目前に控え、会場はピリピリした緊張感がみなぎっていた。  
 次から次とやってくる会葬者の対応に周平も四苦八苦していたが、外では源蔵が駐車場となった貫太郎の家の前に立って腕章を巻いてクルマの誘導に当たっていた。     
 ピーッ、ピーッ、ピーッ!  
 彼は昔の乗り合いバスの車掌さんのように、首から長いひもの付いた笛をぶら下げ、それを吹きながら1台1台クルマをバックで駐車場に誘導すると、出てきた会葬者に、
「チッ、これどんぞ!」  
 と言って、下足札のような木の板を手渡した。板には1枚1枚『イの壱』とか『ヘの参』という具合に、墨で番号が書き込まれていた。  

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15『苦戦! FBI捜査官』

「この度は白ヤギ黒ヤギ!」  
 大きな明瞭な声でそう言って受付に現れたのは野々村高太だった。  
 FBI捜査官の目がキラッと光った。
(来たな!)  
 周平は高太の一挙手一投足に細心の注意を払った。  
 ボギッ!
(あっ!)  
 高太は何食わぬ顔でもう1本のペンを握った。
(おい! もう折るなよ! 在庫ないんだからな)  
 周平は高太をにらみながらそう祈った。  
 彼は、恐ろしく斜め文字の巨大文字で『野々村高太』と書いて香典を机に置いてから、チラッと会葬御礼の袋を見た。
「昨日も渡しましたよね」
「いや、もらってないっす!」  
 高太はケロッとした顔でそう言って香典袋をスッと周平の前にずらした。
(やっぱりこいつは『大うそつき』だ。絶対渡してなるものか!)  
 周平はそう思ったが、今ここでやったやらないを議論しているわけにもいかないだろうとも思った。後ろに並んでいる会葬者が気になった。
(仕方ない)  
 周平は渋々会葬御礼を渡した。  
 高太はそれを受け取る時、微かに右頬に笑みを浮かべた。「してやったり」という顔だった。  
 周平は苦々しい思いで高太を見送った。  
 それから3人おいて今度は野々村昭介が現れた。彼ははっきりと、
「この度は白たび黒たび!」  
 と言ってペンを取った。
(折るなよ! 頼むから折るなよ!)  
 ボギッ!  
 折れた。
(折れたタバコの吸い殻で、あなたのうそが分かるのよ〜)  
 そんな歌が周平の頭をよぎった。  
 昭介は折れたペンを持ったまま周平の顔を見た。替えを催促しているボラ顔だった。周平は仕方なく二所谷を探した。  
 二所谷は座敷の隅に突っ立ったまま片手に水の入ったコップを持ち、片手に大学ノートを広げ持ったまま、司会進行の練習に余念がないようだった。
「少しお待ち下さい」  
 周平はそう言って香典袋の入ったバッグを抱えて席を立った。
「あのう・・・サインペンありますか? また折れてしまって・・・」  
 二所谷は慌ててノートを閉じると、
「えっ? またですか? いやあ、在庫あったかなあ」  
 と言って座敷を見回した。
「おーい、長谷川くーん!」  
 若原一郎の節回しだった。  
 長谷川はその声に反応してこっちを見ると素早く近寄ってきた。足元にいた洋がゴロンとひっくり返ったが、彼女は全く感知していないかのようだった。
「何か?」  
 二所谷に向けてそう言った長谷川の声は、ついさっきまでのそれではなかった。とても攻撃的な響きを含んでいた。表情も北風のように冷たく尖っていた。
「ああ、サインペンあったかなあ。こっちもう在庫なくて。この方に・・・」
(あっ!)  
 北風顔が一瞬にして太陽顔になっていた。
「サインペンですか?」  
 長谷川は微笑みを浮かべながらそう言った。
「え、ええ・・・」
「こちらでよろしいでしょうか?」  
 長谷川は胸ポケットからサインペンを1本取り出すと、キャップを外して周平に差し出した。
「どうぞ、お使い下さい」  
 そう言った長谷川の顔は、完璧な営業スマイルをたたえていた。
「あっ! は、はい! ありがとうございます」  
 どぎまぎしながらペンを受け取った周平は、持ち場に戻る途中でフト立ち止まり後ろを振り返った。
(あっ!)  
 大学ノートを穴の開くほど眺めている二所谷の顔を、侮蔑するような恐ろしく冷たい目がにらみつけていた。  
 彼らの職場での人間関係をあれこれ想像したくなった周平だったが、今はそれどころではなかった。彼は忙しかった。  
 受付に戻った周平は、そこに野々村昭介の姿がないことに気が付いた。
「すみません、お待たせしました。あのう、さっきの人は・・・」  
 周平が会葬者に聞いた。
「その人なら、自分のボールペンを出して署名してたみたいですけど」
「えっ? じゃあ・・・」  
 周平は後ろを振り返って会葬御礼の袋を見た。
「それも持っていきましたよ」
(やられた! やつら一味は、これで5つの干し椎茸をゲットしたことになる)  
 FBI捜査官は深い慚愧の念に駆られた。
(これでダシをとれば、茶碗蒸し何個分になるだろうか? 500個分は下らない。うかつだった!)  
 茶碗蒸しが大好物の周平は、悔しさで畳をかきむしりたい衝動に駆られた。
(よしっ! 最後の1人にだけは絶対に渡してなるものか!)  
 周平は、FBI捜査官のメンツに掛けて堅く心に誓った。  
 最後の女はそれから5分後にやってきた。
「この度はしろたびくろたびもじゃもじゃもじゃもじゃ・・・」  
 彼女は語尾をもじゃもじゃにして挨拶をすると、ごく普通の筆力で署名をした。そして、ごく普通のお辞儀をし、ごく普通の渡し方で香典を差し出した。周平の堅い誓いは、この『ごく普通』の前にあっさりと敗れ去った。周平は、ごく普通に会葬御礼を差し出すしかなかった。
(一体、やつらは幾らの投資で、会葬御礼を6個も手中に収めたのだろう?)  
 周平はハタと気になって香典袋の中身を調べてみた。  
 野々村高太が1000円、野々村やえも1000円だった。
(干し椎茸が1個2000円として6個で1万2000円。やつらが出した金は昨日と合わせて3000円。こんなパフォーマンスのいいヘッジファンドがあるだろうか!)  
 周平は、野々村一味の巧妙な悪知恵に舌を巻いた。その一方でこうも思った。
(それにしても・・・、切ないほどに・・・せこい!)  

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16『ガイコツ和尚』

 時刻は11時5分前になった。  
 玄関には源蔵に先導される形で坊主が到着した。源蔵は右手に黒い大きなかばんを持ち、左の小脇に卒塔婆を抱えていた。  
 最初に敷居をまたいだのは荘道の兄だった。完道という名のこの坊主は、うわさによるとしょっちゅうパチンコ屋で油を売っているなまくら坊主だということだった。  
 弟の荘道は、知性はなさそうだがごく普通の顔立ちと、なで肩だがごく普通の体格をしていたが、完道のほうは、柔道の山下泰裕並みの巨躯と、いかにも性格の悪そうな面構えをしていた。  
 完道は、源蔵に持たせたかばんを礼も言わずにひったくると、それを持ってふんずり返ったまま祭壇のほうに進んでいった。  
 次にやや遅れて、いつものようにケータイを片手に持った荘道がやってきた。彼は体をフワフワさせながら、『ひみつのアッコちゃん』に出てくる「・・・でゲス」のガンモのような歩き方で兄の後に続いた。
(今日は2人なのかな?)  
 周平がそう思っているところに、ガイコツのような顔をした老人がよろめくようにしてやってきた。ガイコツ老人は、上がりかまちに上がろうとして傘立てに手を掛けた。100本以上の傘が、ザザザザザーッと雪崩を打って老人の足元に倒れた。老人はその下敷きになって玄関に転がった。
(あっ!)  
 周平は慌てて老人の元に駆け寄ると、傘を払いのけて老人を抱きかかえた。よく見るとガイコツ老人は黒い法衣を着ていた。法衣から微かに線香の匂いがした。
「大丈夫ですか?」  
 ガイコツ老人は「カッ!」と白い歯を出して笑った。  
 立ち上がったガイコツ老人は、上がりかまちに左足を「ヨッコラショッ」と乗せたところでピタと動きが止まった。そして、また周平に例の笑みを向けた。周平はガイコツ老人の腰に手を掛けて、後ろから持ち上げるように押してあげた。  
 こうして何とか座敷に上がることができたガイコツ老人は、3歩歩いてまた周平を振り返った。
(えっ? また何か?)  
 そう思って身構えた周平に、ガイコツ老人は満面の「カッ!」の笑みを向けてヨタヨタと祭壇のほうに向かった。  
 坊主の到着で、会葬者もそれぞれに居ずまいを正し、静粛な空気が作られていった。  
 3人の坊主は、祭壇の前でめいめいに彼らの舞台衣装ともいえる『本ちゃん用の法衣』に着替えている。左側の完道の着替え方は、柔道部員が柔道着に着替えるときのようにがさつで大胆だった。  
 右側の荘道は、小料理屋の仲居さんが気ぜわしく着物に着替えるときのようにサクサクと手際が良かった。  
 中央のガイコツ和尚が、ガサガサと衣擦れの音をたてながら時間をかけて身にまとった法衣は、金糸で織られた仰々しいものだった。彼は、そのピカピカの法衣に着られるような格好で祭壇の中央に鎮座した。  
 小さなマッチ棒のようなはげ頭が、法衣の上にポコッと飛び出ていた。『黄金バットの奴だこ』。そういう形容がピッタリだった。黄金バットの奴だこは、法衣と合布でできた烏帽子帽をかぶり、白い短冊が付いた魔除け棒のようなものを手に持った。  
 左側の柔道部は、おさるのシンバルのようなものを脇に置いてドッカと座布団に座った。右側の仲居さんは、木魚と鉦とチンドン屋の太鼓のようなものを脇に置いてフワリと座布団に座ると、フッと力を抜いた表情を作った。「やれやれ、どうにかこれでお酌の用意が整ったわ」という安心顔だった。  
 こうした坊主たちの一連の行動を、誰よりも真剣に、誰よりも興奮を持って見詰めている者がいた。洋だった。  
 郁子によって長谷川から引き離された洋は、今はおとなしく親族の席に座っていたが、彼の関心は当然ながら、見たこともないパーカッション類に集中していた。彼は、伸び上がってそれらの楽器を見詰めながら、それらが出す音を聞こうと今か今かと待ちわびていた。  

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17『スタンバイ』

 一方、二所谷は緊張した面持ちで受付の前の、つまり周平の直前の位置にスタンバイすると、
「ああ、ただいま、ただいま、ただいまから、コ、コ、コ・・・」  
 などと出だしの部分を何度も復唱しながら、眉間にしわを寄せたり首を傾げたりしていた。直近に座っている周平には、二所谷の荒い息遣いはもちろん、バグバグした心臓の音まで聞こえてくるようだった。  
 それに引き換え長谷川は異常に落ち着き払っていた。彼女は、祭壇のやや手前の角に会葬者を見渡す形で平然と立っていた。一分の隙もない完璧な立ち居振る舞いだった。  
 そんな中、一三にはまだ仕事が残っていた。彼は、親族が並んで座っている狭い通路を腰を曲げて後ずさりしながら、小さな白い布を配っていた。
「この布は、喪服の後ろ襟に挟んでおいてくださーい。葬儀が終わりますたらすぐに法要になりますので、この布が付いている人は残ってくださーい!」  
 彼は一人一人にそう言って声を掛けながら、相撲の呼出のようにサクサクと任務を遂行していた。呼出が最前列の貴志に白い布を渡していた時だった。
「葬儀屋さん、そろそろ始めましょうよ」  
 荘道が一三に向かって言った。完道も邪魔くさそうに一三をにらんだ。一三の動きが一瞬止まり、こめかみがピクピク動くのが分かった。
(あっ!)  
 貴志は焦った。
(先生切れないでくれ!)  
 その時だった。
「この方は葬儀屋ではありません。宮下一三さんと申します。喪主様の本家の方です」  
 長谷川が一三の脇に立っていた。  
 一三は、その声にハッとなって長谷川を見た。砂漠で女神に出遭ったような目をしていた。
「私が葬儀屋です。ではそろそろ始めてよろしいでしょうか?」  
 長谷川が場を取り仕切るような毅然とした態度で言った。
(よかった)  
 貴志は胸を撫で下ろした。
「じゃ、葬儀屋さん。お願いします」  
 荘道が、長谷川の頭上30センチの所を見ながら言った。  
 長谷川はゆっくりと自分の立ち位置に戻った。  
 一方、二所谷の緊張はクライマックスに達していた。周平が座っている下方斜め45度に二所谷のちょうどひざがあった。そのひざは明らかにガクガクと震えていた。  
 長谷川が入り口にいる二所谷に事務的な視線を送った。  
 二所谷は長谷川に向かって「うん」と大きくうなずくと、いよいよ腹を決めてガクガクひざを半歩前に出した。  
 その時、二所谷の黒い薄手のソックスが、畳に止まっていた大きな『ウマアブ』を踏みつけた。
(あっ!)  
 周平は焦った。  
 ウマアブは、その名の通りウマをターゲットにしている体長3〜4センチもある大型のアブで、これにかまれると結構な痛手を負うことを知っていたからだ。この地域では『ウマアブ』というが、正式和名は『アカウシアブ』という大変攻撃的な吸血のアブである。  

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18『坊主虐待』

「ええ、ただまからあ!」  
 第一声が裏返った。しかも『ただまから』と『い』抜けだった。
(あがってるな。それにつけても、どうかかまれませんように!)  
 周平は二所谷の足を見詰めた。
「ええ、ただまからあ、こ、こ、故宮下かなめ様の葬儀を執り行いますので、皆様ご着席願います!」  
 二所谷は、最初こそつまずいたものの何とか後半は調子を取り戻したようだった。ただ、ちょっとアナウンスがチグハグになってしまったのは、自分と長谷川以外に、もともと立っている人が誰もいなかったことだった。
「ええ、なお、ケータイ電話の電源はお切りになるように、謹んでご協力をいたします」  
 ちょっと述語がおかしかったが、まず何とかここも乗り切ったようだった。  
 二所谷はそう言って半歩下がった。
(おーっ!)  
 ぶっつぶれていると思われたウマアブは、なんと二所谷に踏まれながらもまだ生きていた。彼はなかなかしぶとかった。しかし、さすがにかなりのダメージはあったらしく、ひっくり返って弱々しく足をばたつかせるだけで、飛び立って逃げることはできないようだった。彼はリハビリによる機能回復を試みていた。  
 ジャリーンッ!  
 いきなり柔道部がおさるのシンバルを叩いた。それは読経の始まりを知らせる合図のようだった。洋はいきなり度肝を抜かれてビクッとなった。  
 『黄金バットの奴だこ和尚』がヨロヨロと立ち上がり、祭壇の前で魔除け棒を振って何やらブツブツとやっていた。もし、このジェスチャーを壇ふみが解説したとしたらこんな感じになるだろう。
「ええと、まずこの祭壇を全体的に清めまーす、かな。その次に、個別にお骨かな、お骨を清めます。チョンチョン、そうね。それから位牌もね。チョンチョンっと。えっと、あとは、あとは何となくゼーンブ。この辺りの空気のようなものを、バホッ、バホッと清める感じかな。うんうん。ザックリ言うとそんな感じでーす!」  
 お清めのようなものが終わったガイコツ和尚は再び鎮座すると、絞るようなしわがれ声で何かを唱え始めた。ゴッドファーザーのマーロン・ブランドの声に少し似ていた。
「・・・故かなめ・・・梅室妙要大姉・・・」  
 会葬者にかろうじて聞こえたのはそこだけだった。  
 ジャリーンッ!  
 柔道部があれを鳴らした。洋が身を乗り出した。  
 ここから、まん中のガイコツ和尚と両脇の柔道部、仲居さんによる読経のコラボレーションが始まった。コラボ読経にはいろいろなバージョンがあり、ガイコツ読経に柔道部読経が続く場合もあれば、仲居さん読経に柔道部読経が続く場合、あるいは、ガイコツ読経の後に柔道部と仲居さんが同時にハモって続くパターンもあった。いずれにしても、ガイコツのマーロン・ブランドの声はほとんど聞こえなかったので、結果的にはドスの利いた柔道部の声とテキパキした仲居さんの声の二重唱という感じだった。  
 読経に関してはそういうことだが、これに洋が注目していた鳴りものが加わった。柔道部はおさるのシンバルを、仲居さんはチンドン屋の太鼓と鉦と木魚を器用に使い分けながら、読経に合わせて音を奏でた。  
 ドーン、ジャーン、ドーン、ジャーン・・・ドン、ジャン、ドン、ジャン・・・ド、ジャ、ド、ジャ・・・ドジャドジャドジャ・・・ジャーンッ!  
 読経の区切りはこういう感じで、太鼓とシンバルが交互に、そして徐々に早くなって最後にジャーンッ! だった。洋は、生まれて初めて聞く『奏楽』に心を躍らせ興奮していた。  
 仲居さんが長谷川に泳いだ視線を投げた。それは「そろそろ芸者さん入ってくださいな」という意味ではもちろんなく、「そろそろ焼香を始めてください」という合図だった。  
 長谷川はその意味を敏感にキャッチし、素早く焼香台を喪主の前に置いた。それからもう一つの焼香台を中程の会葬者の所に持っていった。  
 二所谷がそれを見て半歩前に出た。
(残念だが、いよいよこれで終わりだな)  
 周平は、予想通りウマアブを踏み付けた二所谷の足を見ながら思った。
「ご会葬の皆様、順次ご焼香をお願い致します」  
 ウマアブとは反対に、二所谷はどんどん勢い付いているようだった。
(あれっ? 洋)  
 郁子は隣に洋がいないことに気付いた。  
 ガシャクショゾーショアクゴーカイユームシトンジンチジューシンクイシショショーヒジサンキタカイフケンホーザイカイフシンイカイフホーサンボーカイ・・・。  
 読経が続いていた。焼香の煙が、座敷の中空を白く漂いながら玄関のほうに流れていった。  
 ドーン、ジャーン、ドーン、ジャーン・・・ドン、ジャン、ドン、ジャン・・・ド、ジャ、ド、ジャ・・・ドジャドジャドジャ・・・ジャーンッ!  
 ガイコツをリーダーとする読経トリオは、クライマックスに向かって新たな芸を繰り出していた。それは、全員座って読経や奏楽をしていた今までとは違い、今度は立ち上がったり座ったりといった屈伸運動を全面的に混ぜ込んだ新手のバージョンだった。  
 ニューバージョンは、ガイコツが立つと両脇が座る、両脇が立つとガイコツが座るといった単純な動きではあったが、ただでさえ立ち上がるのが大変なガイコツにとって、このバージョンはかなり酷な感があった。彼らは、それを何度も何度も繰り返した。
(どうだ! 『坊主丸儲け』って言われるけど、俺たちだってちゃんとこうして体にむち打って頑張ってるんですからねえだ!)  
 そんなデモンストレーションにも見えなくはなかった。しかし、柔道部や仲居さんならまだしも、ガイコツ和尚にとっては、これはもう『坊主虐待』以外の何ものでもなかった。  

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19『カラカサ小僧』

 持ち場に戻った長谷川のスカートが大きくめくれていた。めくれたスカートの中には、忍者ハットリくんのポーズで執拗にニンニンを繰り返す洋の姿があった。  
 郁子も大地も、焼香に気を奪われ洋のいたずらに気が付いていない。  
 洋は、鉄のアワビのように股間を絞って防御している長谷川に根負けして頭をスカートから出すと、今度は屈伸運動をしている柔道部のデカいケツ目がけて思い切り指を突き上げた。
「・・・トンジンチジュー、あんっ!」  
 柔道部は、よがり声を発しながら身をよじった。  
 洋は満足したようにニッと笑うと、今度は仲居さんのほうに向かって歩き出した。洋は仲居さんの脇にあった木魚の棒を手に取った。  
 ポンポンポンポン・・・。  
 仲居さんの頭が木魚になった。奏楽は一気に厚みを増した。  
 仲居さんはムッとして洋から棒を取り上げようしたが、洋は巧みにその手をかいくぐった。30回ほど洋に叩かれたところで、仲居さんは「この野郎、黙っていればいい気になりやがって!」といった、およそ仲居さんらしくない怖い顔で、立ち上がり様に洋から乱暴に棒を奪い取った。  
 それでも読経は続いていた。洋はガイコツの所へ行った。  
 ガイコツが座った時だった。洋はガイコツのかぶっていた烏帽子帽をバッと外すとそれを自分の頭にかぶった。いや、かぶったにはかぶったのだが、それはサイズの合わない鉛筆サックのようなもので、スッと下にずり落ちた。洋は『カラカサ小僧』になった。『カラカサ小僧』は、読経バンドの専属ダンサーのように、奏楽に合わせてピョンピョン飛び跳ねていた。洋が踊る陽気な『カラカサダンス』は、どうしても湿っぽくなりがちな会場に、「オーッ!」という明るい歓声を巻き起こした。  
 その声でようやく洋に気が付いた郁子は、顔面蒼白になって祭壇に向かった。
「す、す、すみません!」  
 洋から烏帽子帽を抜き取り、恐縮してそれを差し出した郁子に向かって、ガイコツ和尚は例の「カッ!」という笑いを返した。  
 正体を暴かれた専属ダンサーは、郁子に引きずられる形でステージから退場した。  
 周平の位置からは、残念ながら『カラカサダンス』を見ることはできなかったが、彼はもっと感動的な光景を目にしていた。それは、死んだと思っていたウマアブが生きていたということばかりではなかった。なんと彼は飛んだのである! しかも、飛ぶ前にかんだのである! 足を。  
 かまれた二所谷は、足の指をモゾモゾさせて痛がりながら盛んに首をひねっていた。
(俺って痛風?)  

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20『都会の花屋さん』

 パチッ、パチッ・・・。  
 焼香の煙が流れていく方向から音がした。外に置かれた弔花の前で、エプロンをした2人の女性がテキパキと立ち働いていた。年配の女性はかつらだった。かつらはロマンスグレーの髪を後ろで束ね、しゃれた白いブラウスに黒いエプロンを掛けていた。イキイキした都会の花屋の店長さん・・・そんな感じだった。  
 その隣に、黒髪をやはり後ろに束ねた彩が、黒いエプロンをしてキビキビと動いていた。みずみずしい都会の花屋の店員さんという感じだった。2人とも「キッ」としたものと「フッ」としたものを同時に表情や動作に宿していた。
(なんかいいなあ、絵になるなあ)  
 目の前の二所谷とは対照的に、周平は2人を見ていてそう思った。  
 パチッ、パチッ・・・。  
 彼女たちは花ばさみを器用に使って長さを切りそろえながら、一つ一つそれを白い包装紙に包んでいる。かつらが家から持ってきたガーデニング用のおしゃれなウッドテーブルの上に、会葬者に配る花束が少しずつ増えていった。  

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21『二所谷上等兵』

 会場に目を戻すと、読経と鳴りものの音は止み、目の前には負傷した痛々しい足があった。二所谷は足をモゾモゾさせながらこう言った。
「ええ、それでは、お別れの言葉をお願い致します。かなめ様の妹、奥田みよし様のお孫さまで奥田・・・」  
 ここで二所谷は言葉に詰まった。名前をど忘れしたようだった。二所谷は慌ててズボンの後ろに挟んである大学ノートに手を回した。その時、手が滑って大学ノートが畳の上に落ちた。周平はそれを拾って素早く二所谷に渡した。
「ええ、あ、あ、だ、だ、大地様です。お、お願い致します!」  
 二所谷は額の大汗をハンカチで拭うと、真剣な顔つきでまた大学ノートをにらんだ。  
 今まではウマアブのほうに心を砕いてきた周平だったが、被害者と加害者の関係が逆転した今、今度は二所谷のほうに同情が移っていた。
(それにしても・・・)  
 周平は1分前に目にした信じられない光景を思い出していた。それは、衝撃的といえばあまりにも衝撃的なものだった。
(漢字が1つもない!)  
 二所谷が落とした大学ノートに書かれていた文字はオールひらがなだったのだ。周平は思った。
(切ない・・・)  
 周平は二所谷がいとおしくなった。  
 奥田大地が遺影写真を前にお別れの言葉を言っていた。  
 何人かの女性のすすり泣きの声が聞こえ、白いハンカチで目頭を押さえる人も見えたが、周平の位置からはその内容までは聞き取れなかった。
(こういう肝心なところはマイクが欲しいよな)  
 周平はちょっと不満だった。  
 大地が焼香をして席に戻った。  
 二所谷はもう一度足を半歩前に出した。腫れが広がり始めていた。
「次に、弔電を奉読させていただきます。奉読は、当『葬祭センタービューティフルセレモニー』の長谷川です」  
 さすがにこのくだりは二所谷の舌はよく回った。
(しかし・・・)  
 周平は思った。
(果たしてこの場面で、会社名を宣伝する必要があるのか?)  
 二所谷は今度は満足したような表情を浮かべ、また半歩後ろに下がった。心持ちまた腫れが広がった感じだった。  
 ここは弔電アンドロイドの本領発揮の場面だった。長谷川は、折り目正しい動きで立ったまま会葬者に一礼するとすり足で祭壇の前に進み出た。完璧だった。ただ、残念だったのは、彼女のスカートが大きくめくれたままだったことだ。もっとも、残念どころかむしろ鼻の下を伸ばして喜んでいた輩も相当数いたことも事実だった。そういう意味では、これは洋のお手柄といってよかった。しかし、これは断じてけしからんことだった。  
 長谷川は遺影写真の前に座って一礼した。それから焼香をしていよいよ弔電の奉読が始まった。
「弔電を奉読させていただきます。ご母堂様のご逝去の報に接し、謹しんでお悔やみ申し上げますとともに心からご冥福をお祈り致します。シンセイ電子部品株式会社代表取締役社長・・・」  
 弔電アンドロイド長谷川は、よどみなくスラスラと弔電を読み上げていた。
(さすがだ。完璧だ。一点のミスも一分の狂いもない。しかも、正しい発音、正しい日本語。素晴らしい!)  
 朱色の筆でハナマルを描きたい衝動にあらがえなくなった一三は、畳の上になぞるように大きくハナマルを描いた。
「ほかに48通頂戴しておりますが、時間の関係上省略させていただきまして、御霊前へのお供えとさせていただきます」  
 長谷川は最後にそう締めくくると、弔電の束を祭壇の脇に供え焼香した。それから後ずさりして坊主に礼をした。今度は向き直って遺族にも礼をした。
「続きまして、喪主より皆様に挨拶がございます」  
 二所谷がそう言って、半歩前に出した足を見て周平は驚いた。
(おーっ!)  
 足は、ギブスをはめたようにパンパンに腫れていた。  
 貴志の挨拶はさすが総務部長といった感じで、可もなく不可もなく、情緒的でも情熱的でも感動的でもなかった。いわば『ないない尽くし』だった。  
 一度足を引っ込めていた傷痍兵の二所谷が、再び棒のように硬直した足を前に出した。麻痺はひざの関節にまで及んでいるようだった。
「以上をもちまして、故宮下かなめ様の葬儀を滞りなく終了致しました。なお、引き続き法要を行いますので、ご案内差し上げました方は、お残り下さいますようお願い致します」  
 二所谷はそう言ってゆっくりと会場を見回すと、感慨無量の顔でこう言った。
「本日は長時間のご会葬に出席いただき・・・」  
 二所谷はそこで絶句した。  
 周平は二所谷を見た。
「誠に・・・、誠に・・・」  
 二所谷はまた絶句した。会場の何人かが振り返って二所谷を見た。長谷川はあくまでも平常心のままで立っている。  
 顔中汗だらけにしながら、二所谷は最後の力を振り絞った。
「ありがとうございました!」
(おおーっ! やったぞ、やり切ったぞ!)  
 周平は思わず拍手を送りたい衝動に駆られた。  
 一礼をして二所谷が後ろに下がった時だった。麻痺した右足がカクンとなって折れた。  
 バッダーンッ!  
 彼は、受付の机の上に右手から倒れ込んだ。そして、そのまま上がりかまちの上にゴロンと横になった。  
 周平が驚いて立ち上がった。
「二所谷上等兵、大丈夫でありますか!」   
 差し出した周平の手を上等兵は振り払った。
「俺のことは構うな! いいから、お前だけでも逃げろ!」  
 もちろんそんな会話があったわけではない。しかし、その時少なくとも周平の心の中に、二所谷に対するそこはかとない惻穏の情が芽生えていたことだけは確かだった。
「皆様、どうぞこちらから」  
 その時、周平の頭上で声がした。すかさずフォローに入った長谷川だった。長谷川は周平の手につかまりながらもなかなか立ち上がれない二所谷を、
(この役立たずが!)  
 と言わんばかりの顔でにらみ付けてから、それとは正反対の笑顔を退場する会葬者に向けた。  
 転がったままの傷痍兵の脇を、首を傾げながら会葬者が通り過ぎていった。  

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22『怒り玉』

 ジャリーンッ!  
 会葬者が退場し終わらないうちに、柔道部がおさるのシンバルを叩いた。  
 柔道部の頭の中は、『パチスロスーパー海物語』の金髪ビキニの女の子のことでいっぱいのようだった。彼はそういう不純な目的のために事を急いでいるようだった。実にけしからん、僧職にあるまじきことだった。  
 ジャリーンッ!  
 エキシビションはあっという間に終わった。  
 柔道部はそそくさと着替えを始めた。ガイコツ和尚もガサガサと奴だこを外しに掛かった。どうやら最年少の仲居さんが、押し付けられる形で残業を命じられたようだった。仲居さんは、「いいですよーだ!」というふうにふてくされながら、泳いだ目をケータイに向けていた。彼がチェックしていたのは『モテモテ僧職系男子』というブログだった。
「皆さーん、全員外に出てくださーい!」  
 一三が叫んだ。今日もここからが彼の本領発揮の場面だった。一三は、祭壇の前に立って会場を見渡しながらテキパキと指示を出していた。  
 彼の視線が、右手3メートルの位置に立っている長谷川の姿をとらえた。
(おっ! 長谷川さんだ!)  
 一三は、ウーパールーパー顔を少し赤らめながらカニ歩きで長谷川の元に来ると、持っていた半紙で口を隠しながら、ボブカットの耳元にささやいた。
「素晴らすい奉読ですた」  
 長谷川は黙っていた。バッテリー切れのようだった。  
 無視されて格好のつかなくなった一三は、まだ残っている人たちに向かって、
「さあ、急いでくださーい!」  
 と、少し怒気を含んだ声で叫んだ。  
 タタタータータータタターターター、タタタータータータタターターター。  
 一三の左耳で荘道のケータイが鳴った。
「あいっ! うん、エーッ! マジー? マジこいて? うそでしょー・・・」  
 一三の左こめかみがピクッと動いた。
「ねえ、葬儀屋ちゃん、早くしたら? 遅くなっちゃうよ」  
 今度は一三の右耳で声がした。声の主は柔道部の完道だった。着替え終わった完道は一三の耳元でおちょくるような口調でそう言うと、長谷川にいやらしい視線を送りながら帰っていった。  
 一三の右こめかみがブルブルッと動き目がつり上がった。  
 目の前を見ると、一三の指示をまるで無視してガムをクチャクチャやっている者がいる。一三の中の『怒り玉』がゴロゴロと騒ぎ出した。
(ダメだ、ダメだ、ダメだ、長谷川さんの平常心を見習わなければ!)  
 錯綜する様々な悪感情を振り払おうと彼は『書』を探した。こういうときの精神安定には書を見ることが一番だと思ったからだ。  
 あった! それは、祭壇の脇に置かれていた。彼は卒塔婆の文字に救いを求めた。  
 一三は目を疑った。
(こ、これも・・・)  
 一三は愕然となってうなだれた。  
 3秒後に顔を上げた一三は、真正面にいる高太を指さし青鬼のような顔で絶叫した。
「おい! ガム! そ、そ、外へ・・・出ろーっ!」  
 高太は「何だ何だ何だ」という顔で一三をにらみつけた。そして、一三にガンを飛ばしながら肩を揺らして近付いてきた。
「何だと!」  
 高太が一三の胸ぐらをつかんだ。  
 ウーパールーパーと子ボラがにらみ合った。  
 その時だった。
「チッ、チッ、チッ、この野郎! ちゃっちゃど表さ出ろっこのっ!」  
 源蔵だった。
「何だとお!」  
 高太はそう言って源蔵に向きを変えて近付いてきた。  
 今度は子ボラとスイッチョンのにらみ合いになった。  
 高太がグイッと源蔵の胸ぐらをつかんだ。  
 その時、高太の目に源蔵のすぐ後ろにいる男の顔が飛び込んだ。FBI捜査官の周平だった。
「チェッ! 覚えてろ!」  
 高太は源蔵の胸ぐらから手を離すと、チンピラの捨ぜりふを残して表に出ていった。  
 周平は、『怒り』モードにしていた目元のパーツを『笑い』モードに切り替えると、いつものモンタージュ顔で一三にほほ笑んだ。  
 一三は、ネクタイの乱れを直しながら周平に向かってホッとした表情を作った。  
 高太の背中を「チッ、チッ、チッ」と舌打ちして見送った源蔵は、
「チッ、先生、たいすた大難儀掛げます」  
 と言って一三をねぎらった。  
 一三は少しずつ冷静さを取り戻しつつあるようだった。
「チッ、ダミ行列の順番なんだすが・・・」  
 源蔵はかしこまってそう切り出した。
「はい、何か?」
「チッ、いやあ、先生のお考えもあるどは思いますが、チッ、これはあぐまでもわだすの考えなんですが・・・」
「何でしょう?」
「はあ、チッ、傘持っていぎでえんです」
「傘?」
「チッ、ええ、もすもっつうごどもあるがど思って・・・」  
 一三は少しかがんで玄関の外を見た。青空が広がっているようだった。彼はニッコリ笑って源蔵に向き直った。彼の表情は完全に平常心を取り戻していた。
「まあ、雨は大丈夫でしょうが、備えあれば何とがって言いますし、用心に越すたごどはありません。源蔵さんのいいようにすてください」
「チッ、勝手言って申すわげねっす。んだば、チッ、わだすど周平さんは『傘持ぢ』どいうごどで一番後ろさ回らせでもらいます」  
 一三は「うんうん」とうなずくと、半紙を広げて修正箇所を確認した。  
 そして書道具箱を開けて筆を持つと、スラスラと美しい文字をそこに書いた。彼はその半紙を持って玄関に向かった。  

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23『ボラの大ボラ』

 表では、斎田道秋が野々村昭介たちに向かって熱弁をふるっていた。
「いやあいやあ、昭介さん、お久しぶりだねえ。本当にねえ。もしかして君、高太ちゃん? いやあ、もう高太ちゃんじゃないねえ。高太君だ、ねえ。いやいや、高太さんって呼んだほうがいいのかな、高太さん。いやあ、大きくなって、立派になって、ねえ。高太様って呼んだほうがいいくらいだ、ねえ。照子見てよ。この方、高太様。ねえ。本当にねえ。立派になったもんだねえ」  
 道秋はそう言って高太の手を堅く握った。
「高太、斎田おじさんよ」  
 やえが言った。
「あっ、こんちは、おじさん、バッキシすか?」
(バッキシ?)  
 道秋は言葉の意味が分からなかったが、
「バッキシも何も、ねえ、バッキバッキだ! ねえ」  
 と、わけの分からないことを言ってから、昭介に向き直って、
「昭介さん、どう? 仕事上手くいってる? うーん、ボクが見たところ、あれだな、こいつ、ひと山当てたって顔だ。そうでしょう。図星だねえ。当たったな、こいつ、あっ! その顔、当たったって顔だ! ここにほらっ、書いてある、書いてある。このこのう、こいつう」  
 と言って、昭介の腕に「コノコノー」のひじ打ちした。
「まあ、おかげさまで事業は順調ですな。この間も社員を100人ばかり採用しました」
「えーっ! 100人採用! ねえねえ、照子、聞いた? この大不況に100人採用したんだって、昭介さん。ねえ、すごいねえ!」  
 道秋の大声に近くにいた人たちが振り向いた。
「来月は200人採用します」
「ええーっ!」  
 道秋はいよいよ目を丸くしてひっくり返りそうになっている。
「再来月は300人・・・」  
 昭介の大ボラはまだまだ続く勢いだった。  

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24『なんかいい感じ』

 その時、玄関の上がりかまちに立った一三が大きな声を張り上げた。
「皆さーん! それでは、ダミ行列の順番を発表すまーす。よーぐ聞いでくださーい!」
(いよいよね)  
 花売り娘のようにテキパキと会葬者に花束を配っていた彩たちは、その役目もようやく終わってホッと一息ついたところだった。
「このために2日も徹夜したんですよ、うちの人」  
 隣にいたかつらが、そう言ってプッと吹き出した。
「えーっ!」  
 彩は驚いてかつらを見た。
(でも、何かいい感じ)  
 彩は思った。

 この村に来て感じたことの一つに、『夫婦仲の良さ』ということがある。一見夫を尻に敷いているように見える妻が実はこの上ない夫思いだったり、一見亭主関白を気取っている夫が実はとっても愛妻家だったりといった、「このこのー!」とツンツンしたく場面が何度もあったのだ。
「おらのとうちゃんのはげ頭はなあ、メモ帳代わり使えるんだ」と言っていた貞子もそうだった。
「おらのとうちゃん、ネギ大っ好ぎでな。んだがら毎年こうやっていっぺえ植えるんだ」    
 貞子は彩にそう言ってネギだらけの畑を指さした。
(なんだかんだ言っても、貞子さんは「とうちゃん大好き人間」なんだなあ)  
 さやかを除けば彩の学生時代の友人たちのほとんどは、会話の中で夫の悪口を言ったり、子どもの愚痴をこぼしたりといったことばかりだった。彩はそういうことを聞くのが正直嫌だった。
「独身の彩には分からないと思うけど」とか「これ、子ども産んだことない人には分からないけど」などといった前置きも嫌いだった。もっとも実際は案外仲が良かったりしているのかもしれないが、そういう話題を耳にタコができるくらい聞かされてきた彩にとって、貞子のような単純明快な愛情表現は、ほんのりと心を暖かくしてくれるものだった。
「おら、おとうさんにほめられでさ。おめえ賢しぐなったなって」  
 そう言ったのは、義父の介護疲れで自律神経をやられ、頭に十円はげまでこしらえて悩んでいた咲子だった。
「おら、ようぐ考えで悩まねえごどにしたっつったら、おとうさん、そう言ってほめでくれでさ」  
 彼女の口からはいつも、義父への愚痴を上回る『おとうさん』という言葉が出てくるのだった。そして、その言葉を発する時の顔は、必ずと言っていいほど無邪気な笑顔だった。
(何かいいなあ・・・)  
 彩はいつもそう思った。  
 あの『いらっしゃーい』も例外ではなかった。彼女は一人っ子だったので当然婿をもらったのだが、表面上は尻に敷いているように見えて実は夫への愛は並々ならぬものがあった。
「おら、今しがた殴り込んできたんだ!」  
 鼻息を荒くして『いらっしゃーい』はそう言って彩を見た。1年前のクリスマスイブの日、彩がお酒を買いにサカサマ商店に向かう途中だった。
「えっ? どこにですか?」
「益男の家」
(ええっ! あのナマスさんに!)
「どうしてですか?」
「あん? あの野郎、おらの淳次どごバガにしたがらや」
「だんなさんをですか?」
「ああ、おらの家のクリスマスツリーあっぺ?」  
 いらっしゃーいの家には、例年クリスマスの頃になると、庭の糸ヒバの木に電飾を施した大きなクリスマスツリーが飾られていた。
「あの野郎、おらの淳次いっしょけんめ作った飾りっこ、『田舎くせえ』って言ったんだ!」  
 確かに頑張って作ったことは分かるのだが、ツリーはどことなくケバケバして軽薄で、センス的にいまいちだった。彩は問題になっているツリーを見ながらそう思った。
「おらどごバガにするんだばいい。んだども淳次どごバガにするんだば絶対許さいね!」  
 いらっしゃーいはそう言って興奮した目を彩に向けた。
「おめえ、どう思う?」
「えっ?」
「あのツリー、なんとだ? 田舎くせえが?」  
 ええ、少し・・・、などと言える雰囲気では絶対になかった。
「と、と、とんでもないです。すっごくしゃれてます。ディズニーランドみたいです、はい」  
 心にもないことを言うのは苦手だし嫌いな彩だったが、この場合はどうしても自己防衛本能のほうが勝った。
「デンズニーランドが・・・。淳次ど5回も行ったごどあるなあ。あっこは何回行ってもおもしれえなあ。デンズニーランド・・・」  
 夢見る夢子ちゃんの目でいらしゃーいが言った。
「淳次、どごどなぐ覚えでだんだべな。デンズニーランドの飾りっこ」
「そうですね。そうだと思いますよ。でないとなかなかこんなふうにはねえ・・・」  
 彩は電飾を見ながらそう言った。苦しい答弁だった。
「んだな。おもしれがったもんな・・・」  
 いらっしゃーいはそう言って目に星を浮かべた。  
 今から始まるクリスマスイブの晩餐が幸せなものになることは確実だった。  
 夫婦仲がいいということは、それだけでもう十分幸せなことなんだ。逆に夫婦仲が悪いということは、それだけで幸せの多くを失っていることなんだ。そして、夫婦仲良しの秘訣は身近なところにある相手へのちょっとした思いやりを、単純明快な形で表現することに尽きるのだということを、村の夫婦を見ていて彩はつくづく思うのだった。  

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25『本領発揮』

 一三は全体を見渡しながら、修学旅行の引率の先生のように声を張り上げた。
「先頭は、田中貫太郎さーん! 東山益男さーん! 『ジャンボン』をお願いすまーす!」
(何? ジャンボンって?)  
 村人以外の者は「何のこっちゃ」という顔で一三を見た。
「ジャンドチダ、オイボンダガジャンダガ?」  
 貫太郎が一三に聞いた。
「『ジャン』は貫太郎さーん、『ボン』は益男さんでーす!」  
 スナイパーのナマスが『ボン』というのは何となくイメージ的に分かりやすかったが、もし仮に『ジャン』であっても、それはそれで彼の好きな肉のイメージを連想させたかもしれない。いずれにしても村人以外の者にはチンプンカンプンだった。  
 彼らは寺から借りてきた『ダミ行列アイテム箱』の中からそれを手に取った。
(ああ、なるほど。『ジャン』は鉦で『ボン』は太鼓だったのか)  
 何のこっちゃだった者たちは一様に納得した。『ジャンボン』は、あまりにも分かりやすいネーミングだった。
「松明(タイマツ)を小玉昭一さーん! 提灯を本山優一さーん! お願いすまーす!」
「次に宮下作之進さーん! 墓印をお願いすまーす!」  
 作之進は『ハカジルシ』と呼んでいる白木の板を手に取った。
「次に龍頭を斎田道秋さーん、照子さーん! それから野々村昭介さーん、やえさーん! 4人の方、お願いすまーす!」  
 彼らは一三の指示で『タツガシラ』と呼ばれる先端に龍の頭が彫刻された長い杖を1本ずつ持たせられた。これは魔除け効果のあるアイテムらしかった。
「ああ、照子、これタツだ、タツ。ねえ、タツノオトシゴだねえ」  
 道秋はわけの分からないことを言って杖を1本手に取った。
「燭台は、野々村高太さーん!」  
 ガムをクチャクチャかみながら不良の高太が一三の前に現れた。一三の顔がこわばった。
「シュクダイって何だ?」  
 高太は一三にガンをつけた。
「宿題ではない!」  
 一三が青い顔で叫んだ。  
 全員がビックリして一三を見た。
「ロウソクを立てる燭台です! それっ! それっ! それっ!」  
 一三が燭台を指さしてまた叫んだ。  
 高太はチッと言いながらそれを1つ手に取った。
「もう一つ! あなた、もう一つ持ちなさーい!」  
 高太は一三をにらみながら両手に燭台を持った。
「続いて、金蔵さーん! 花籠(ハナカゴ)をお願いすまーす!」  
 返事がなかった。
「金蔵さーん!」  
 一三は、首を傾げながら周囲を見回したが金蔵の姿はない。  
 村人たちも訝しげに辺りを見回した。
「ええ、では・・・」  
 一三はあごに左手を、半紙に右手人差し指を当てて少し考えるポーズをした。
「高橋武信さーん! 花籠をお願いすまーす!」  
 こんなふうにして、香炉、四華花、十六団子、お膳など、ダミ行列における先陣部隊の持ち手が発表されていった。  
 発表は血縁で構成される中衛部隊に移っていった。
「位牌は喪主、宮下貴志さーん!」  
 貴志が白装束に身を包んで登場した。白装束といっても、それは葬儀社によって用意された喪服の上に羽織る程度のあくまでも簡易な安っぽいものだったし、足はわら草履ではなく普通の靴だった。
(かえって陳腐かもな)  
 誰もが思った。
「骨箱は宮下美樹さーん!」  
 美樹は骨箱を持って陳腐の脇に進み出た。  
 一三はそれから、花や花立て、卒塔婆などの後衛部隊を次々に発表すると、
「田崎十次郎さーん、花山幸男さーん、大宮健吾さーん! 『ログジンジョ』をお願いすまーす!」  
 と言った。  
 『ログジンジョ』の担当は、前もって道の角角の付けておいた道標を回収していく係だった。これは、火葬の時に同じ道を通らないのと同じで、霊魂が家に戻ってくるのを防ぐためのものらしかった。この役には『歯欠け3人衆』がそろって抜擢された。
「最後に『傘持ち』を坂下源蔵さーん。星野周平さーん。お願いすまーす!」
(何だ? 傘持ちって?)  
 何人かの者がキョトンとした顔で一三を見ていた。
「以上でーす!」  
 そう言い終わると一三は、ホッとした表情で持っていた半紙を几帳面にたたんでポケットにしまった。  
 かつらは終始笑顔で一三を見ていたが、安心した夫の顔を見届けてから小さな声で彩に言った。
「何だかバカみたいでしょ、うちの人」  
 彩はビックリしながらも即座に答えた。
「いえいえ、とんでもありません。本当に頭が下がるというか・・・」
「でも、これでやっと寝られるわ」  
 かつらはそう言ってプッと吹き出した。
「全部で2〜30本くらいですかね?」  
 行列の参加者を目で確認した周平が源蔵に聞いた。
「チッ、何もだ。7〜80本は必要だべ」
「えっ!」
「チッ、村の人の分も要るべ」
「村の人ですか?」
「チッ、ああ、ダミ行列さ後がら加わる人もいるがらな」  
 源蔵は予備も含めてだと言って、20本ずつの傘の束を4つ作りそれをビニールひもで結わえた。そして、自分が2束、周平にも2束渡した。  
 両脇に抱えた傘の束は意外にずっしりと重かった。  
 一三は荘道の元に行った。
「では、準備が整いますた。よろすぐお願いすます」
「えっ? ああ、墓は何時?」  
 ケータイを見ながら荘道が言った。
「ダミ行列は1時間半ほどでしょうが・・・」
「えーっ、マジー? じゃあその頃行くから」
「いや、しかす、導師に先導すてもらわないごどには・・・」
「それ無理」
「・・・」  
 一三のこめかみが震え出した。
「昔からそういうごどになっております」  
 一三の語気が強まった。
「昔は昔、今は今」  
 荘道はそう言ってケータイのボタンを押した。
「あっ、ケータイあります? こっちの番号送るから」  
 荘道はケータイ同士のナンバー転送を考えているようだった。
「ありません、そんなもの!」
「えーっ! マジー。じゃ、これメモしてもらえる?」  
 荘道はそう言って一三の面前に自分のケータイを掲げた。
「何ですか、これは」
「だーかーらー、ケータイバンゴ。ちょっと町に行ってるから30分前に呼んでくれれば、バッチグー!」
(・・・)  
 一三はこのなまくら坊主を思い切り罵倒してやりたい衝動に駆られた。しかし、彼自身がそうであるように、教師のサガともいうべき『権威主義的パーソナリティ』が、彼をしてその行動に移らせることを抑制させた。一三は唇をかみしめながら黙って書道具箱を開けるしかなかった。『第2部第2章』完(まだまだ続きます!)  

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