こんな「オシゴト」やってます!  雑感  写真 | 映画


『エッセイ・小説コーナー』に戻る。
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★★★ 映画化MI決定! 豪華キャスト大出演! ★★★
抱腹絶倒! 笑いと涙の金字塔! 
笑いに飢えたすべての読者に捧ぐ「夏目椰子」乾坤一擲の勝負作!
「十六団子」をめぐる人間模様を、軽妙な筆致と独特のユーモアで描く、
待望の長編小説『十六団子』を、WEB読者だけに公開します。
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 ●『その死からすべては始まるのだ!』 (第1部〜第1章)
 ●『団子3人衆はツヨイのだ!』(第1部〜第2章)
 ●『愛宕村って?』(第1部〜第3章)
 ●『葬式の朝はこうして始まった』(第2部〜第1章)
 ●『お葬式』(第2部〜第2章)
 ●『そして十六団子は・・・』(第2部〜第3章)
 ●『終わりの始まりの終わり』(第2部〜第4章)最終章

 
 

第1部〜第1章『その死からすべては始まるのだ!』

1『56の顔』

 板橋要三に別れを告げ、重い木戸を開けて薄暗がりの道に出ようとした貴志は、いきなり左の横つらをひっぱたかれた。湿り気を帯びた突風の仕業だった。  
 少し遅れて表に飛び出した小柄な妻の美樹は、足元がスッと浮き上がるような感覚を覚え、とっさに貴志の陰に隠れた。  
 7月16日。入梅中とはいえ、今年は妙な天気が続いている。特にこの4〜5日は、日中かんかん照りの猛暑だったかと思うと夜は決まって豪雨になった。雨は屋根をうがつようにたたき、猛り狂った風と地を揺るがす雷鳴が、ただでさえ寝苦しい夏の夜をいっそう長く疎ましいものにしていた。  
 貴志は、今にも降り出しそうな空を一瞥して慌ただしくクルマに乗り込むと、乱暴な動作でイグニッションキーを回した。やや遅れてやってきた美樹が助手席のドアを開けようとした時、今度は後ろから突風が吹いた。  
 ダーンッ!  
 美樹はドアハンドルを握ったまま前方に激しく押し出され、植え込みの中に頭から転倒した。  
 その音に驚いた貴志が慌てて外に出ようとした時だった。髪を振り乱し口をへの字に結んだ美樹の顔が、ヌーッとヘッドライトに浮かび上がった。
(56の顔だ!)  
 服の汚れを払いながらヨロヨロと近付いてくる美樹の姿を凝視しながら、貴志はフトそんなことを思った。  
 結婚して27年間、美樹はめったに化粧などしない女だったが、周りからは不思議と若く見られた。貴志が若いころからふけ顔だったことや36にして頭髪のほとんどを失ったことも、比較として彼女を若く見せていたのだが、実際には2つ年下でしかない美樹が貴志とひと回りも違う若い奥さんと思われていたのは、彼女の職業からくる先進的な考え方や振る舞いによるところが大きかった。美樹は東京の大学を卒業後、すぐに地元の新聞社に勤務し今では編集局のサブデスクにまで上り詰めていた。  
 大きなため息を吐きながらようやく座席に沈み込んだ美樹に、貴志は掛ける言葉を探した。
(大丈夫か?)  
 幾つかの候補の中で貴志が選んだのは極めて無難なフレーズだったが、彼がそれを口に出そうとした瞬間、美樹はあたかもそのタイミングを狙っていたかのように、しゃがれた低い声でこう言った。
「ねえ、あっちには行かないでしょ」  
 それは問いではなく「行くな」という否定命令形であることを貴志は十分過ぎるほどよく分かっている。だから答えない。ただそれに従うだけだ。貴志はセレクトレバーをリバースに入れクルマを後進させた。要三の寝室の電気がついたのがサイドウインドウ越しに分かった。

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2『要三』

 要三は美樹の父である。85歳になるが1年前に妻が死んでから急に弱々しくなった。長年連れ添ってきた伴侶を老いてから失うことは残された者の寿命を確実に縮める作用がある。もっとも女が残った場合はその限りではないが、男やもめとなって取り残された場合は、残酷と言っていいほど痛々しい姿になる。要三も例外ではなかった。『生活』という極めて現実的で渉外力を必要とする仕事の一切は、大正生まれで税務署勤務一筋の堅物だった要三にとって、例えて言えば帳簿外科目のようなものだった。彼は妻なしではパンツ1枚探せない男だった。  
 そんな要三を気遣った2人は、仕事が退けてから彼の様子を見にいくことにした。しかし、美樹の仕事は不規則で帰りは遅くマンションにはほとんど寝に帰るだけの生活だったので、必然的にその役割は定時に仕事が終わる貴志が担うことになった。スーパーで2人分の弁当を買い、要三と一緒にそれを食べ、雑談をして帰るのが貴志の日課だった。  
 美樹と貴志が連れ立って要三の家を訪れたのは、実に1ヶ月ぶりのことだった。

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3『かなめ』

 市街地の郊外に建つ、周りを木立に囲まれた要三の家から貴志たちの暮らす海沿いの高層マンションまでは、クルマで10分ほどの距離だった。結婚して27年になる彼らがそのマンションを購入したのは24年前の秋だ。それまでの3年ほどの間、彼らは市街地から60キロも離れた『愛宕村』という在郷の農村にいた。貴志の父宮下梅松、母かなめと同居していたのである。  
 暮らし始めて3年目の春だった。梅松が心筋梗塞で急死した。56の若さだった。それから間もなく、貴志たちは今のマンションに移り住むことになるのだが、残されたかなめはまだ若く、何より生活力があった。  
 気丈で陽気な性格のかなめは、弱音を吐くどころか梅松以上によく働いた。彼女の働きぶりは、『ひたすらもくもく』というのではなく、『風が歌うようにのびのび』としていた。何がそんなにおかしいのかと村人が訝しがるほど、彼女は全身の力が気負いなく抜け、口元には歯並びのいい白い歯がいつものぞいていた。  
 そんなかなめだったが、80を過ぎた頃から認知症が進み徘徊を繰り返すようになった。  
 貴志たちは、かなめを隣市の老人ホームに入れることにした。それは5年前のことだ。

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4『臨終』

 貴志たちを乗せた白いプリウスがマンションの駐車場に滑り込んだ時、海側の空に稲妻が走った。そして次の瞬間、ものすごい音とともに雨が降り出した。  
「あっ! キャットフード買うの忘れた!」
 美樹が眉根にしわを寄せて言った。
「どうする?」
 貴志は、判断を促すようにチラッと美樹を見やりながら聞いた。稲光がフロントガラスを滝のように流れる雨を照らした。次の稲光までの間、少し沈黙が流れた。
「まあいいや」
 美樹は投げやりな口調でそう言うと、車内用の傘立てに手を伸ばした。
 部屋に入った貴志は、リビングの暗闇に点滅している留守電の青いランプを見た。何となく胸騒ぎを覚えたが、彼はそのまま脱衣場に行き濡れた衣服を脱いでバスローブに着替えた。美樹はいち早くシャワーを浴びていた。
 リビングに戻った貴志が、部屋の電気もつけずに留守電の再生ボタンに手を伸ばしたまさに時だった。
 ルルルルルルルル・・・。
 その電話が鳴った。ビクッとして思わず引っ込めた手をもう一度伸ばして貴志が電話に出ると、いら立ちと安堵の入り交じった声が受話器越しに聞こえてきた。
「宮下かなめさんのご家族の方ですね」
「はい」
 答えながら、貴志は自分の脈が少し早まるのを感じた。
「高浜病院です。かなめさんが危篤状態です。大至急来ていただけますか。何度かお電話してたんですけど・・・」
「はい、分かりました。すぐに伺います」
 貴志が受話器を置いた時、部屋の電気がついた。
「どうしたの?」
 頭にバスタオルを巻いた美樹が後ろから声を掛けた。貴志は、受話器に手を置いたまま振り返らずに言った。
「母さんが・・・」
「えっ?」
「危篤だって!」
 美樹の頭から黄色いバスタオルがスルスルと床に落ちて、飼い猫の上にかぶさった。
 すぐに支度をして2人は家を出た。雨は勢いを増して降り続いていた。高浜病院に2人が到着したのは午後9時48分、電話から1時間以上が経過していた。ナースセンターの看護師に用を告げると、彼女は無言のまま彼らを病室に案内した。かなめの顔には白い布がかぶせられていた。
「先ほど・・・お亡くなりになりました」
 若いナースは、蚊の鳴くような声でそう言った。

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5『悪夢』

 翌7月17日、朝5時20分。  
 美樹は愛宕村の別宅の白い皮のソファーの上で目覚めた。隣の家のニワトリがけたたましく鳴いている。上体を起こして辺りを見回した美樹の目に、ソファーの下で丸くなって寝ている夫の姿が映った。はだけたシャツの襟元から露出している頭は、側部にほんの少し白いものを残して完全にはげ上がっている。ほおの肉は弛緩し、重力に任せて床に垂れ下がっている。生気のない初老の男の寝顔を見詰めながら、美樹は病院で見た『死に顔』を思い出した。
(似ている・・・)  
 そう思ってしばらくボーッとしていた美樹だったが、やがて、よく似た2つの顔が同じ屋根の下に存在していることに思い至ってギョッとなった。  
 ホッゲゴッゴー!  
 ニワトリがまた鳴いた。  
 美樹は再び体をソファーに沈めると、ゆっくりと目を閉じた。
(かなめの死ーーー。そして豪雨の中で夜通しかけて行われた搬送から安置までの一連の出来事。あれはひょっとしたら夢だったのかもしれない。そうだ、きっと悪い夢を見ていたんだ)  
 美樹は思った。
(ここにかなめの遺体などないのかもしれない)  
 フトそんな気がした。 
(じゃあ、どうして私たちはここにいるんだろう?)  
 美樹は妄想を振り払うかのように起き上がるとキッチンの前に立った。シンクに洗いかけの赤いボールとすりこぎ棒があった。葬儀屋に言われて枕団子を作った時の残骸だった。美樹は、観念してコーヒーメーカーをセットした。

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6『頭痛』

 貴志が目を覚ました。起き抜け、彼は頭に重い痛みを感じた。
「頭痛薬あったっけ?」
 返事がなかった。貴志は、ぼんやりした意識の中で真新しい白いサイドボードの引き出しを開けた。上の引き出しの中は空だった。次の引き出しも空だった。一番下の引き出しに入っていたのは、「使用説明書」と書かれた冊子と小さな鍵だけだった。
 トイレから戻った美樹が後ろから声を掛けた。
「何やってんの?」
「あっ、薬箱なかったかな?」
 後ろを振り返りながら貴志が聞いた。
「そんなものないわよ、どうしたの?」
「いや・・・ちょっと頭が・・・痛くてね」
「ひどいの?」
「いや・・・何とかなると思う。取りあえずコーヒーでも飲むか」 
 美樹はキッチンの真新しい白いサイドボードの扉を開け、英国製のコーヒーカップを2つ取り出した。

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7『銭の城』

 かなめが入所して間もなく、彼らはこの家をモダンな別宅に改装した。5年前の春のことだ。2人の高額所得者ぶりを証明するかのように、そこにはエアコンやアルカリイオン整水器はもちろん、愛宕村には数軒しかないウォシュレット付き水洗トイレや、IHシステムキッチンまでそろっていたが、彼らはここに泊まることはおろか、めったに来ることさえなかった。たまに来てもそれは夜遅い時間に限られていたので、夜8時には全員が寝てしまう村人たちが貴志たちを目にする機会はほとんどなかった。村人は、この生活感のない豪邸を、陰で『バブル御殿』とか『銭の城』などと呼んで揶揄していた。
 美樹が、幽霊のようにフワフワした足取りでコーヒーを運んできた。貴志は、
「あっ、サンキュ!」
 と言ってそれを受け取ると、すするようにひと口飲んだ。
「ねえ」
 美樹は、焦点の定まらない目でつぶやくように言った。
「どうすんの?」
 続けて低い声でそう言った美樹は、コーヒーカップを真上から見下ろした。それから、鼻先が付きそうなところまでゆっくりと顔を近付けた。
「あれはもう嫌だから・・・」
 コーヒーの湯気にしゃべりかけるように、美樹はそう言った。

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8『忌まわしい記憶』

 彼女がコーヒーの湯気の中に見ていたのは、24年前に封印したはずの梅松の葬式にまつわる忌まわしい記憶だった。  
 田舎に暮らしたことのない美樹にとって村の葬式は理解不能なことの連続だった。儀式的な慣習そのものは理解できないにしても受け入れることはできた。だが、村社会の相互扶助の名の下に強行される、こちら側のプライバシーを全く無視した問答無用の善意の押し売りと、品のない言動にだけは閉口した。信じられないことに、葬式のどさくさに紛れて新婚3年目の美樹たちの寝室をこっそりのぞく者や、「梅松には生前大変世話になった。三十五日まで毎朝拝みにきてやる」と言って、本当に毎朝欠かさず朝4時きっかりに戸をたたく者もいた。そういった一連のことが重なった末、美樹は一時自律神経をやられた。
「ああいうふうにはしないさ」  
 こめかみを押さえながら貴志が言った。
「葬儀屋に全面的にやってもらうよ。余計なことは一切排除する。3日だけの辛抱さ」  
 自分にも言い聞かせるように貴志はゆっくりとそう言って、美樹の細い肩に手を置いた。  
 それから2人は、遺体が置かれている仏間に行き無言で手を合わせた。
 レースのカーテンから漏れる日差しが、今日も猛暑になることを予感させた。

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9『二所谷登場』

 8時ちょうどに、葬儀屋の二所谷が白いハンカチで顔の汗をふきながら現れた。二所谷はかなりの長身で、マッチョな体つきや仕草はどことなく映画『ターミネーター』のシュワちゃんを彷彿させた。しかし残念なことにというか、幸いなことにというか、顔と声だけはどう見ても『みのもんた』にウリふたつだった。  
 二所谷はあいさつもそこそこに仏間に行くと、まず遺体のドライアイスをアンドロイドのような動きで確認した。それから枕飾りを1点1点きちょうめんに点検した。  
 ロボットのような二所谷の動きを見ているうちに、美樹は昨日の深夜の出来事を思い出した。あれからまだ数時間しか経っていないことが嘘のようだった。  
 かなめの遺体は、雷鳴とどろく豪雨の中、病院から二所谷が運転する葬儀屋の寝台車に移され、貴志たちに先導されてここに運ばれてきたのだ。遺体が部屋に収まった時、二所谷はもちろん貴志も美樹もずぶ濡れだった。美樹は乾いたタオルを二所谷に渡した。
「ありがとうございます」  
 二所谷はタオルを受け取ると、遺体の枕元に行って自分ではなくかなめの顔をていねいに拭き清めた。それから、髪、手先、足下を丹念に拭き、ここでタオルを1回裏返しにして、最後に濡れた浴衣をポンポンと押さえるようにして拭いた。その行動を予期していなかった美樹は、慌てて自分のタオルを二所谷に差し出したが、二所谷は、
「私は結構です」  
 と言って傘もささずに表へ飛び出すと、段ボールを載せた小さな机を軽々と持って戻ってきた。二所谷は段ボールの中から布にくるんだドライアイスを取り出し、掛け布団を上げて大きめのを胸に、小さめの2つを腹と下腹部に置いた。そして、掛け布団を掛け直し布団の乱れを直した。

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10『枕飾り』

 立ち上がって姿勢を正した二所谷は、2人に向かっていんぎんに話し掛けた。
「ええ・・・これからこの机の上に枕飾りを作ります。いいですか? よーく聞いておいてください。もし、メモを取るようなら取っても構いません」  
 貴志は慌ててノートを取りに居間に走った。美樹もハンドバッグから小さな手帳を取り出した。
「その前に・・・」  
 二所谷は言った。  
 貴志と美樹は、ペンを持って真剣に二所谷の顔を見詰めている。
「なぜ、このように、ご遺体を北枕にするのでしょーか?」
(さあ、ファイナルアンサー!)  
 あまりにも場違いなことだったが、なぜだろう、美樹は一瞬、二所谷の口からそういう言葉が飛び出しそうな気がした。彼の声と顔が「みのもんた」そっくりだったからかもしれなかったし、異常に高ぶっている神経のせいかもしれなかったが、美樹は不謹慎にも吹き出しそうになった。隣の貴志は真剣に考えている。貴志は答えた。
「はい、それはお釈迦さまがそうやって、死んだっていうか、入滅したんじゃなかったでしょうか?」
(正解!)  
 美樹は、「やばい、やばい、やばい」と思いながらも、思えば思うほど笑いのツボに深く入っていってしまう自分を押さえられなくなっていた。美樹は何かを考えるフリをして、ペンの頭を額に痛いほど押し付け、無理やり眉間にしわを寄せた。  
 のど元まで来ていた『笑い玉』は、かろうじて胸の奥に引っ込んだ。
「よく言われるのはそうです。涅槃経に『その時世尊は右脇を下にして、頭を北方にして枕し、足は南方を指す。面は西方に向かい』とあるんですね。この『頭北面西右脇臥』の故事からきているという説が有力です」
(じゃあ正解じゃん!)  
 『笑い玉』は急速にしぼんでしまった。

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11『頭北面西右脇臥』

 二所谷は、2人がメモを取らないのを見てちょっと不本意な色を顔に浮かべ、
「字、分かります? ズホクメンサイウキョウガ」  
 と言った。
(言わせろ! 言わせろ!)  
 はじけたがってムズムズしている『笑い玉』が美樹に叫んでいる。
「頭が北、面が西、右脇、ガは臥せるとか横臥するのガじゃないの? こんな感じ」  
 美樹は、身振りを交えながら的確に答えた。  
 二所谷は持っていたクリアファイルを見た。そしてゆっくりと顔を上げた。
(さあ言え! 正解!)  
 美樹は、身構えながら二所谷の口の動きを凝視した。笑い玉も息を殺してその言葉を待っている。  
 二所谷は少し間を置いた。
「でもご遺体は仰向けに寝かせますから、本当は右脇臥ではないんですね」
(何それ、ズルウ! 話摺り替えたあ・・・)  
 美樹はムッとして二所谷をにらんだ。はじけ損ねた笑い玉もブーブー言いながら引っ込んでしまった。
「このように北枕にして寝かせることを『枕直し』と言います」  
 貴志は、何となく二所谷に悪いような気がしてノートに「北枕=枕直し」と書いたが、ばかばかしくなった美樹は書かなかった。  
 二所谷は次に段ボールから白い布を出して小机の上に掛け、次々にいろいろな道具を出しながら説明していった。
「ええ、それではこれから枕飾りをやります。これは燭台です。燈明とも言いいます。それからこれが香炉、これは一本花を飾る花立てです。これらを『三具足』と言います。ミツグソクです。サングソクではありません」
「グソクのグは、道具の具ですか?」  
 貴志はいたってまじめな優等生になっている。
「ええと・・・グソクのグは・・・こうです。ソクは・・・こうです」  
 二所谷はクリアファイルを開いて、その漢字を指し示した。  
 貴志は「うんうん」とうなずいた。

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12『四華花』

「ええ、それ以外には、この鈴」  
 と言って二所谷はチーンッ! と鈴を鳴らした。それから、横にたくさん切れ目の入った白い紙が巻かれた棒を取り出した。
「はい、これは『四華花』というものです。娑羅双樹の花をかたどった白い花です。この花で釈尊のご遺体を覆い尽くしたそうです」
(シカ? バナ?)  
 貴志は漢字のイメージがわかなかった。
「シカは、こう角の生えた、あれですか?」  
 優等生がちょっとトンチンカンな質問をした。
「違います! シカはこう書きます」  
 二所谷は、またクリアファイルを開いてその漢字を指し示した。
(あっ、なるほど。うんうん、四つの華の花か。ハナがだぶってるんだな。えっ? 何でだろう)  
 貴志は書きながらそう思ったが先生には手を挙げなかった。  
 二所谷は、それらのものを全部小机の上に並べてから線香とロウソクに火をつけた。それからひとつ大きくうなずいて振り返ると、美樹の顔を見て言った。

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13『枕団子』

「ここからが大事です。奥さん、よーく聞いておいてください!」  
 今までほとんど何も聞いていなかった劣等生の美樹は、奥さんと言われてビクッとして背筋を伸ばした。
「最も大事なのは『枕団子』です。大般涅槃経にこうあります。釈尊が涅槃に入られる時、無辺菩薩が香飯を献上しても釈尊はそれを食べなかったんです。そこで、この『死に団子』を供えたんだそうです」
「腹がいっぱいだったのかなあ、その人」
「えっ?」
「誰だっけ? あっ、シャクソン、シャクソン」
「・・・」
「ねえ、食べればよかったのにねえ。あとで作る人大変だもの」
「・・・」
「私だったら食べるな」
「・・・」  
 少し間があった。  
 二所谷は、この予想もしなかった劣等生の発言に少し慌てた。彼は、動揺を隠すようにコホンと一つ咳払いをしてこう言った。
「釈尊さんは遠慮されたのではないでしょうか?」
「田舎くさいな、その人」
「えっ?!」
「田舎くさい。シャクソン」
「田舎? くさい?」  
 二所谷のこめかみがピクッと動いた。
「うん、そういうのってかえって田舎くさいんだよね。『田舎者の一つ残し』ってやつみたいで」
「・・・」
「・・・で?」  
 調子が狂った二所谷は、また一つ咳払いをして態勢を整えると、
「ええ、この枕団子を今から奥さんに作っていただきます。いいですか? よーく聞いておいてください。はい、ここに上新粉があります。これをぬるま湯で硬めによーく練ります。いいですか?」
「今から作るの?」
「はい」
「明日じゃダメ?」
「ダメです!」  
 二所谷はきっぱりとそう言うとさらに話を続けた。
「いいですか、奥さん。大きさは直径3センチです。それを6つ作ります。そしたらこの白い皿に5つ並べてその上に1つ置きます。そして蒸し器で5分くらい蒸してください。なぜ6つかというと、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天井の6世界ですね。これを六道と言いますが、そこを巡る・・・」
「うち蒸し器ないんだけど」  
 美樹が割り込んだ。  
 二所谷は待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「電子レンジで結構ですよ。ラップをして1分半でオーケー!」
(じゃあ、初めからそう言えよな!)  
 美樹は膨れっ面で二所谷をにらんだ。  
 二所谷は一本取った勢いで話を続けた。

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14『枕飯』

「まだありますよ、奥さん。枕飯という一膳飯を作ってもらいます。故人が使っていたご飯茶碗に、すり切り1杯分の米を計って別釜で炊いてください。炊いたご飯は残さず山盛りに盛っててっぺんにはしをつき立ててください。それから、その脇には水も用意してください。いいですか?」
「あのう、すいません。故人の茶碗がないんですけど。ずっと施設に入っていたもので・・・」  
 今度は熱心にメモを取っていた貴志が言った。
「じゃあ、何か別のものでいいです」  
「別のものって言われても、ここには自分たちの茶碗かどんぶりぐらいしかないんですが。なあ、美樹」
「うん、それに別釜って言われても炊飯器1個だもんねえ」  
 美樹が口をそろえた。  
 それに対し二所谷は、我が意を得たりとばかりに『よくあるQ&Aリスト』を開くようにしてよどみなくこう回答した。
「あくまでもこれは理想というか形式です。できれば、という意味です。ですから、その辺は臨機応変にやってください」
(だったら、初めからそう言えよ!)  
 美樹はだんだんあほらしくなってきた。
「あと、この花立てには何かきれいな花を1本立ててください」
(この雨の中、どうやって摘めってえのよ!)
「線香とロウソクは一晩中消えないように、遺族の方が交代で見守っていてください」
(うそっ! 寝るなってか!)
「明日は8時に伺います。それから申し遅れましたが私は『フタドコロタニ』と申します。この度の葬儀全般を担当させていただきます。よろしくお願いします」  
 二所谷はそう言って名刺を渡すと、空になった段ボールを持って帰っていったのだった。

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15『翌朝』

 翌朝、枕飾りの花立てにはドクダミの花が1本飾られていた。美樹が玄関脇に咲いていたものを寝る前に摘んできたものだった。その花をチラッと見た二所谷は、
「これは雑草ですね」  
 と言った。
(文句あっか!)  
 それから二所谷は、場にそぐわないほどでかいどんぶりに30センチ以上もうず高く盛られた一膳飯を見た。山の頂上には割りばしがギュッと突き立てられていた。
「かなり大きいようですね」
(どんぶり一杯の米炊いたらこうなるのよ!)  
 今度は、美樹が作った枕団子を点検して二所谷は言った。
「数が違うようですね。何個作りました?」
(えっ?)  
 美樹は、思い出そうとしてすぐにあきらめた。
「何個って・・・もらった粉で適当に・・・」  
 二所谷の顔がちょっと曇った。それを察した貴志は、場を繕うように笑顔を向けて、
「まあまあ、ニショヤさん、あっちでコーヒーでもいかがですか?」  
 と言って居間のほうを指さした。  
 二所谷の顔がさらに曇った。
「私はニショヤではなく、フタドコロタニです!」

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16『作之進』

 ちょうどその時、玄関のほうから声がした。
「ごーめーん!」  
 低くスローな声の主は宮下作之進だった。作之進は94になる村の長老で、彼の家は代々貴志の家の本家になっていた。村にはこうした本家が5つあり、それぞれ10軒ほどの分家を持っていた。昔の地主と小作の関係下では、分家は本家に農作業の労働力を提供し、本家は別家の冠婚葬祭時に便宜を計らうものという不文律があった。  
 しかし、今ではそういった助け合いの関係はすっかり形骸化してしまい、本家の仕事は葬式における葬儀委員長的な役割が残るだけだったし、それとて法要膳の席順を決めるとか、野辺送りの際の持ち手の人選をどうするかぐらいの、ごく限られたものになっていた。  
 貴志が少し前に作之進に電話をしたのは、2人が決めた葬式の方針をまずは彼に理解してもらい、彼の口から他の分家や村人たちに説明してもらいたかったからだ。  
 訃報を聞いて飛んできたのだろう作之進は、息を切らし大汗をかいていた。そして竹の杖に寄り掛かるように立っていた。
「この度は・・・」  
 彼は貴志たちに丁重に頭を下げると、「よっこらしょ」と敷居をまたぎフラフラした足取りで仏間に行き、倒れ込むようにかなめの遺体の前にひざまずいた。それから、震える指でゆっくりと白い布を取り、まじまじと仏の顔を見て言った。
「おうおう・・・」  
 作之進の肩が震え、目から涙が溢れ出した。  
 貴志たちにとって、明るいところでかなめの死に顔を見るのは初めてだった。陽のせいかうっすらと赤みを帯びて、ほほ笑んでいるようにさえ思えるかなめの顔と、作之進の震える背中を見詰めているうちに、貴志は初めて自分の母の死を実感した。そして、込み上げてくるものにあらがえなくなった。 

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17『打ち合わせ』

 居間に場所を移して葬儀屋の二所谷を中心にした打ち合わせが始まった。大手部品メーカーの総務部長である貴志は、ここで大いに才覚を振るうことになった。打ち合わせは実に手際良く進んだ。火葬からお逮夜、本葬、法要までの日程、会葬御礼や香典返しの選定、会食の場所やお膳のランクなど、あらゆることが瞬時に決まっていった。貴志は、その流れで寺にも連絡をした。枕経は今日の午後5時と決まった。  
 作之進が緩慢な動作で便所から戻ってきた時には、既にあらかたの打ち合わせが終わっていた。
「じゃ、そういうことで」  
 と貴志が言い、
「分かりました。では早速」  
 と二所谷が立ち上がった時、作之進はキョトンとした顔で、
「はあ」  
 と言った。「は」にアクセントを置いた、ゆっくりした言い方だった。  
 貴志はすかさず、
「あのう・・・作之進さんには、今から詳しく説明しますから」  
 と言って、二所谷が置いていった葬儀日程の紙を広げた。
「出棺は明日18日の午後1時、葬儀はあさって19日の午前11時です」  
 聞き終えても反応のない作之進に、貴志はさらに続けて言った。
「あっ、法要の後の会食は1時半から割烹中川・・・」
「はあ」  
 貴志の言葉を制するように、右手を少し挙げながら作之進が言った。
「そーゆーごども大事だと思うが・・・」  
 ここで、作之進はゆっくりと一つ咳払いをして、
「念仏を忘れておる」  
 と言った。
「あっ、念仏はやりません」  
 間髪入れずに言い切った貴志は、キッチンに立つ美樹に視線を送った。美樹は「うん」とうなずいた。
「はあ」  
 作之進は首を傾げた。
「ええ、やりません」
「やらない? はあ」
「今回は村の人たちには一切ご迷惑を掛けないように、全部葬儀屋にお願いしてあるんですよ。手伝いの方も必要ありません」  
 貴志の言うことに全く合点のいかない作之進は、「はあ」とまた言ってから、
「手伝っ人頼まねえってごとは、『十六団子』はどうするんじゃ?」  
 と言った。
「ジュウロクダンゴ?」
「ああ、十六団子さ」
「もしかして祭壇に上げる団子のことですか? それなら美樹が・・・」
「ほんでねえ」  
 作之進はそう言って、貴志と美樹の顔を見比べた。
「墓さ持っていぐ、串さ刺した団子のごどじゃ」  
 貴志はそういう村のしきたりがあったことすら忘れていたが、美樹の顔をチラッと見やってからキッパリとこう言った。
「それもやりません!」  
 作之進は、口を半開きにした顔にいよいよ混迷の色を浮かべて、
「はあー」  
 と、今度は肩で長いため息をついた。
「分家衆への触れは電話でいいですね?」  
 作之進の反応をわざとやり過ごすように、貴志は慌ただしく電話帳を広げながら言った。  
 作之進は今度ばかりは「はあ」とは言わず、まなじりを決してこう言った。
「それはいかん!」
「えっ?」
「わしが行く」
「で、でも、こんな暑い時に」
「暑い、寒いの問題ではない。分家衆への触れは、どんなことがあってもじかに回らねばならないもんじゃ」  
 作之進は、葬儀日程を書いた紙を持って立ち上がった。

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18『モンタージュ』

 貴志は真剣に止めたが、作之進は頑として聞かなかった。
「それじゃあ、自分が行きます」  
 玄関先で貴志が言うと、作之進はキッパリと、
「喪主が行ってどうする。喪主は動いてはいかん。これはわしの仕事じゃ」  
 と言って靴を履き竹の杖を持った。  
 作之進は出がけにこう言った。
「周平ば分がるか?」
「周平?」
「ああ、晋平の息子さ」
「晋平さんって、分家の方ですよね。確か大工さんだった」
「ああ、晋平は15年も前に亡くなったが、その息子じゃ」
「そうなんですか」
「ああ、周平とおめえ、そんなに年違わねえはずじゃが」
(誰だっけ?)  
 そう言えば、小学校の集団登校のメンバーの中に、確かそういう名前の子がいたなあと貴志は思った。ランドセルに背負われるほどきゃしゃで、へらのように平らな頭、どんな場面でも、鼻から上は怒っているのに鼻から下は笑っているという妙な顔立ちがおかしくて、『モンタージュ』とか『モンタ』とあだ名されていたんだっけ。そんなことまで思い出して、貴志は思わず笑みがこぼれた。
「ああ、思い出しました。周平君ですよね。彼が?」
「東京におったんじゃが、5年前に帰ってきておる」
「そうですか」
「周平に手伝ってもらおうと思ってな。分家衆への触れというのは、必ず2人1組で回らねばならんことになっておるんじゃ」
「ああ、そうなんですか。じゃあ周平君によろしく伝えてください。本当にご面倒掛けます」  
 作之進は、「分かった」というふうに紙を持った手をゆっくりと上に挙げると、杖をつきながらのったりのったりと出掛けていった。  
 ジージージージージージー・・・。  
 庭木立のおびただしい数のセミが、作之進の頭上に降り注ぐように一斉に鳴いた。

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19『スギナ』

「こいつは本当に・・・」  
 周平は、根が土中深く張ったスギナを引っ張っていた。  
 ブヂッ!
「やっかいだな」
「うん、常吉じいさんも言ってたね。スギナは髪の毛1本残してもダメだって」  
 彩も鎌を持って雑草を取っている。
「残った根っこがまた伸びてくるから、取っても取っても・・・」  
 ブヂッ!
「生えてくるんだよな・・・ったく!」  
 麦わら帽子をかぶった周平が、タオルで首筋の汗を拭った。
「常吉じいさんからこの間聞いたんだけどさ」
「えっ?」
「3年掛かって畑のスギナを根こそぎ取ったんだって」
「へえー!」
「その間、何にも植えないでよ。本当に髪の毛1本残らず取ったらしいのね」  
 彩が、バケツにいっぱいになった雑草を一輪車に開けながら言った。
「常じいらしいな」
「でしょ? でもダメだったんだって」
「そりゃあ、少しは・・・」  
 ブヂッ!
「残っちゃうだろうよ」
「それが完璧だったらしいのよ。1本も残ってなかったんだって」
「ホントかよ」
「うん。彼、あの通りの潔癖性だから、きっとやり遂げたんだと思うわ」
「じゃあ、何で生えてきたのさ」  
 周平が手を止めて彩を見た。
「ホウシ」
「えっ?」
「風で胞子が飛んできたらしいんだな、これが」
「ああ、なるほど」
「フワフワーッと」
「そっか、これツクシだもんな」
「常吉じいさん、もう何もかも嫌になったらしいよ」  
 ブチッ!
「その気持ち分かるなあ」
「おら、人生投げ出したくなったって言ってた」  
 彩はそう言ってクスッと笑った。
「おい、それ笑っちゃかわいそうだろう」  
 彩はスギナを1本引き抜くと、それに向かってまじめな顔で、
「スギナさま、スギナさま、私たち人間はちっぽけでございます。太古の昔から生き抜いてきたあなたさまには到底かないません」
 と、しみじみ語り掛けた。  
 ブチッ!
「ほんと、ほんと、かないません、かないません」  
 トンボをくわえたツバメが1羽、超低空飛行で頭の上を横切っていった。  
 ツバメが飛んで行った方角から声がした。
「周平、ちょっといいかの」  
 2人が目をやると、竹の杖をついた作之進が肩で息をしながら立っていた。

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20『作之進の用件』

「ああ、作じい、こんちは!」  
 周平が言った。
「こんにちはー、暑いですね」  
 彩が笑顔を向けた。  
 周平がタオルで汗を拭きながら傍に行くと、作之進はまじめな顔で、
「不幸があってな」  
 と言った。
「不幸?」
「ああ、宮下貴志は知っておるかの?」
「ええ、貴志さんなら・・・えっ? まさか!」  
 周平はギョッとして作之進を見た。
「いやいや、貴志の母親が亡くなったんじゃ」
「えっ! かなめばあちゃんが!」
「昨日の夜だったそうじゃ」
「そうですか」
「そうゆうわけじゃがら、周平、いろいろ手伝ってやってくれんか」
「ええ、もちろんです。彩も何か役に立つことがあれば・・・」  
 周平は彩のほうを振り返った。彩は心配そうにこっちを見ている。
「ああ、できればそうしてもらえるかの」
「はい、まず何を?」
「ん、まずはわしと一緒に触れに回ってもらえんかの」
「分かりました。すぐ支度してきます」  
 周平は、作之進の用件を彩に伝えると小走りで家の中に消えた。 

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21『触れ』

 作之進と周平が最初に向かったのは松吉というじいさんの家だったが、作之進の歩みはいかにものろく、しかも途中何度も休むので、たった300メートルの距離を歩くのに20分以上もかかってしまった。たまりかねて周平が言った。
「作じい、大変そうだから、俺バーッと回ってこようか?」  
 作之進はキッと周平を見て、
「いいや、こればっかりは、はあ、そういうわげには、はあ、いがないもんじゃ」  
 と、息を切らしながら言った。  
 ようやくたどり着いた松吉の家の前で作之進は一旦立ち止まって深呼吸をすると、お前が先に入るようにと手で周平を促した。周平は玄関の戸を開けて叫んだ。
「松吉じい、いるかあ?」  
 少しして、ステテコいっちょうの松吉が奥から出てきた。
「おう、周平!」  
 松吉はキョトンとした顔でそう言って鼻をかいた。周平の後ろに人影を感じ取った松吉がそっちに視線をやった。  
 作之進はゆっくりと敷居をまたぐところだった。
「これはこれは、本家も・・・」  
 松吉は自分のステテコ姿を見下ろして、
「やあや、こんたら格好で」  
 と言って金歯を出して頭をかいた。  
 作之進は黙って周平に紙を渡すと、
「おめ、しゃべれ」  
 と言って、自分は上がりかまちにドッカと腰を下ろした。  
 周平は、紙を広げてどぎまぎしながら松吉に言った。
「かなめばあちゃんが夕べ亡ぐなって・・・」
「な、な、何だど!」  
 松吉の金歯が、獅子舞のようにカチカチと音をたてた。
「出棺は明日の1時。ええと、お逮夜は明日の5時。葬式はあさっての11時です。あっ、その後に法要というごどで・・・」  
 周平は紙を見ながら事務的に用件を伝えると、座っている作之進に目をやった。  
 作之進は放心したようにボーッと外を眺めている。
「作じい、あど何か?」  
 周平は作之進の言葉を待った。
「・・・」
「作じい、何か?」
「・・・」
「作じい!」
「ん?」  
 作之進はハッと我に返って周平を見ると、ゆっくりと立ち上がりながら言った。
「そーゆーわげじゃ」
(えっ?)  
 作之進は杖を持って帰ろうとしている。  
 周平は肩透かしを食ったようになって、慌ててその後に続いた。
「念仏はいづだ?」  
 松吉が後ろから聞いた。  
 周平は作之進を見た。
「・・・」  
 作之進は黙っている。
(えっ? ちょっと・・・)  
 周平は狼狽しながら松吉と作之進を交互に見た。
「いづだ? 念仏は」  
 松吉が上がりかまちから下りてまた叫んだ。
「・・・」  
 作之進は振り返らずにゆっくりと後ろ手を振った。
「念仏、念仏!」  
 松吉は裸足のまま表に飛び出してきた。
「やらないそうじゃ」  
 作之進が歩きながらボソリ言った。
「念仏やらねえって・・・どういうごどだ!」
「・・・」
「どういうごどだ! えっ?」
「そーゆーごどじゃ」  
 ゆっくりとくさびを打つように作之進はそう言った。  
 周平が後ろをチラッと振り返ると、合点のいかない松吉が手あぐらをかいて目をパチパチさせていた。
「作じい、念仏やらないって本当か?」  
 周平が聞いた。
「ああ、十六団子もやらないそうじゃ」
「十六団子も!」  
 驚いている周平に、作之進は3秒かけてこう言った。
「そーゆーわげじゃ」  
 それから2人は11軒の家を回った。  
 どこの家でも、「おめ、しゃべれ」のセリフから始まり、自分は上がりかまちに座り、周平が用件を伝えると「そーゆーわげじゃ」で作之進は締めくくった。念仏のことは必ず聞かれたが、作之進は「そーゆーごどじゃ」を繰り返した。  
 2人は別家衆への触れだけでなく、同時にダミ若勢への触れもして回った。全部回り終わってから周平は一旦家に戻った。  
 猛暑の中、2時間もかけて触れを終えた作之進がフラフラになりながら戻ってきた時、貴志の家ではちょっとした物議が巻き起こっていた。

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22『スミ』

 作之進の触れを聞いて真っ先に駆け付けたのは、スミという直角に腰の曲がったばあさんだった。スミは29で夫に死なれ女手一つで3人の子を育てた。子供たちは全員家を出ていたので、スミは81になる現在まで長い間独り暮らしをしていた。彼女の家には、紙や毛糸で作った人形が足の踏み場もないくらいに飾られていた。人形は色あせ、ほこりをかぶり、棚の上のものにはクモの巣が張っていた。いつしか村人は、彼女の家を『人形の家』と呼ぶようになった。  
 貴志の家に上がり込んだ人形の家のスミは、キョロキョロと部屋の中を見回しながら嫌みっぽく下卑た口調で、
「賢しい人だぢの考えは分がらねえども」  
 と言った。それから少し語気を強めて、
「十六団子こしらえねえってごどは、まがりなんねえもんだ!」  
 と言って、まずそうに茶をすすった。  
 朝からずっと頭が痛かった貴志は、こめかみの血管が脈打つのを感じながら閉口してスミを見た。
「でもそれを作るのに皆さんにご迷惑を掛けますし、今回は団子も念仏も一切なしということで、もう決めたことですから」  
 貴志が少し投げやりに言った。美樹は、かつて自分たちの寝室をのぞいていた者の中にこの女もいたことを思い出し、むしずが走るのを覚えた。
「ダメだ! そんたらごどは絶対にまがりなんねえもんだ!」
「要らない!」  
 それまで黙っていた美樹が、バッサリと切るように言った。ドスの利いた低い声だった。スミを威嚇するかのように、はすに構えた彼女の右肩はユラユラ揺れている。美樹は全身で不愉快さを表しながら、あからさまに険のある目でスミをギッとにらみ据えた。 

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23『マチ』

 そこへ、作之進の妻でスミと同級生のマチがやってきた。仏に水を上げて目を赤くして戻ってきたマチは、
「あんた方、十六団子上げねえって聞いたけど本当かい?」  
 と、興奮気味に聞いた。
「ええ、そのほうが皆さんも楽でしょう」  
 うんざりしながらも貴志は、相手のペースに巻き込まれないようにわざとポーカーフェースを装って答えた。  
 スミの隣に座ったマチは、もう一度、
「本当かい?」  
 と言って、美樹の顔をまじまじと見た。  
 美樹はあのポーズのまま、あの声で、
「要らない!」  
 と、また言った。  
 取り付く島がなくなったマチは、スミに救いを求めた。
「なあスミ、今までこんなことあったかね」
「おらはこの年まで、見だごども聞いだごどもねえよ!」  
 吐き捨てるようにスミが言った。それから、
「賢しい人だぢの考えは分がらねえども・・・」  
 と、また前置きをして、
「そういうごどすっと後で恐ろすいごどがあんだとさ。おらはそうやって教わったもんだ」  
 半ば脅迫めいた口調でスミはそう言うと、音をたてて茶をすすった。  
 両者一歩も譲らないまま、論点の合わない冷めた攻防が続いていた。そこに作之進が帰ってきたのである。  
 作之進は、肩で息をしながら、あごからしたたる大汗をタオルで拭うと、「よっこらしょ」と両者の間に入って座った。それから、美樹が差し出した麦茶をゆっくりと時間をかけて飲み干した。
「はて、どうしたものかの?」  
 スミとマチに目をやりながら作之進は思案顔でそう言うと、今度は貴志に厳しい視線を向けた。
「余計なことは言わん。かなめが、この村で生まれ育ったかなめが・・・」  
 作之進はここでひと呼吸置き、貴志と美樹を交互に見やりつつ懇願するような声で言った。
「悲しまんような葬式にしてやってくれんかの」  
 貴志は反論に詰まった。それを見てとったスミは、口元に嫌らしい笑みを浮かべながら勝ち誇ったように、
「作之進の言う通りだ。誰のための葬式か、よう考えてみいや!」  
 と言った。  
 場の空気が明らかに変わろうとしていた。 

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24『アバ』

 その時、「ふふふふっ」と声を殺して笑う者がいた。美樹だった。美樹はスミをあからさまににらみ付けると、
「誰のための葬式ねえ」  
 と低い声で言った。さらに美樹は続けた。
「死人に口なし!」  
 全員が驚いて美樹を見た。
「遺言でもあるんなら別だけど、故人がどういう葬式を望んでいたか、あんたたちに分かるの? ねえ」  
 クールな言い方だった。貴志まであっけにとられている。
「要らない!」  
 美樹は言い切った。
「はあ・・・」  
 と言って、口を半分開けたまま作之進は絶句した。マチは、黒豆のような目をパチクリさせながら天井を見上げた。スミだけは口をへの字に結んで最後まで美樹から目をそらさなかった。
「本当に、賢しい人だぢの考えるごどは分がらねえもんだわ!」  
 スミは思い切り嫌みを込めて吐き捨てるようにそう言うと、部屋の中をなめ回すようにして見た。  
 作之進は無言で立ち上がった。  
 貴志も慌てて立ち上がると、
「作之進さん、本当に今日はありがとうございました」  
 と言ってペコンとお辞儀をした。  
 作之進は黙って勝手口に歩き出した。マチがオロオロしながら後に続いた。  
 スミは、残っていたお茶をズズズズーッと音をたてて飲み干してから、その茶わんをバンッとテーブルに叩き付けた。そして、美樹に向かって「フンッ!」とそっぽを向いて立ち上がった。
「ダミ若勢も頼んできたが・・・」  
 靴を履きながら作之進が言った。
「ダミワカゼ?」
「ああ、ダミ送りの手伝い人も手配してきたが、まさか、それもやらんわけではなかろう」
(『ダミ送り』というのは野辺送りのことだろうな)  
 貴志は思った。
「ええ、もちろん・・・それはお願いします」  
 貴志は答えた。  
 作之進は「うん」とうなずいて、
「若勢と言ってもずっと年寄りばっかりじゃったが、今回は生きのいい若い衆も何人か来てくれるそうじゃ。これも『ハケンギリ』だがっつうもののおかげじゃな」  
 と言って竹の杖を取った。
「本当にありがとうございました」  
 玄関で見送る貴志に、作之進は後ろ向きのまま片手を挙げて、
「時代も変わったのう。今は、村が若者で溢れておる」  
 と言った。  
 スミとマチは靴を履いてそれに続いたが、帰りがけスミは貴志に向かってギッと鋭い視線を送ると、
「ほんに時代も変わったもんだわな」  
 と、吐き捨てるように言った。  
 それから居間のほうに目をやって言った。
「へっ! たいしたもんだなや、おめのアバ!」
(アバ?)  
 貴志は複雑な思いで3人を見送った。

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25『ジージージージージーッ』

 時計はすでに11時を回っていた。  
 貴志たちはにわかに忙しくなった。村の分家衆への連絡は作之進が済ませてくれていたものの、その後すぐにスミたちが押し掛けてきたので、親戚、縁故への連絡がまだだったのである。貴志は手帳を広げ、慣れた仕草で電話をかけ始めた。
「宮下貴志です。あっ、どうも。昨日母が亡くなりまして。えっ? はい、午後9時45分です。はい、ええ、火葬は高合町の火葬場です。ええ、明日の午後1時半で、本葬は愛宕村の自宅であさっての午前・・・」  
 ツーツーツーツー・・・。
「あっ、切れたよ」  
 貴志は、ケータイのアンテナマークをいまいましく見ながら言った。そういえば、ここはケータイの電波が不安定だったことを思い出した貴志だったが、家の電話は今、美樹が自分の連絡用に使っている。  
 仕方なく貴志は、少しでも電波が届くようにと表に出た。熱射がいや応なしに、むき出しの頭皮に降り注いだ。貴志は軽いめまいを感じ思わず木陰に隠れた。それから、少しアンテナマークが伸びたのを確認して、再びプッシュボタンを押した。
「あっ、もしもし宮下貴志です。先ほどはどうも、電話が切れてしまっ・・・」  
 ジージージージージーッ・・・。  
 一時鳴き止んでいたセミが、貴志の声に反応してまた一斉に鳴き出した。
「もしもし、あっ、聞こえますか? えっ? ちょっと、ちょっとすみません、セミが・・・」  
 貴志は、思わずケータイをぶん投げたい衝動に駆られた。頭が割れるように痛かった。  
 ジージージージージーッ・・・。  
 セミが一層ボルテージを上げて鳴き出した。  
 電話中には、二所谷や会社から何度もキャッチが入り、かけ直すとまた切れた。ヘトヘトになりながら、それでもどうにか親戚全員に電話をかけ終わった貴志は、リビングに戻りエアコンのスイッチを入れた。デジタル温度計は32度を示し、時計は1時8分前だった。
「いやあ、陸の孤島っていうか、文明の孤島だな、ここは。ここで仕事しろって言われたら、間違いなく俺は辞表書くよ」  
 麦茶を飲みながら、貴志はふざけた口調で言った。
「そうめんでも作る?」  
 会葬予定者のリストを作りながら、無表情な顔で美樹が言った。
「そう言えば、朝から何も食べてなかったな」  
 貴志は自分の胃に意識を向けた。夕べからストレスにさらされている胃袋は何の欲求もしていなかったし、むしろ受け入れを拒否しているようだったが、その一方で、生命の維持をつかさどる脳は「無理してでも食え!」と指令を送っていた。
「そうめん、いいね」  
 貴志が言い美樹が立ち上がった時、貴志のケータイが鳴った。二所谷だった。

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26『スイッチョン源蔵』

「ニショヤさん? あっ、家の電話空いたんで、そっちへかけ直してもらえますか? ええ、お願いします。えっ? ああそうでしたね、はいはい、フタドコロタニさんでした。そうでした、そうでした。どうもすみません。以後気をつけます。はい、では、よろしく」  
 電話を置いて貴志は言った。
「あの人、ちょっと変じゃない。別にニショヤでもフタドコロダニでも何でもいいじゃない、ねえ。なんでそんなことで俺謝らなきゃならないんだよ。そもそも、そんな長たらしい名前であることのほうがおかしいじゃないか。葬儀屋なのにさ。迷惑な話だよ、ったく」
「『ソーギヤさん』でいいんじゃない?」  
 鍋に湯を沸かしながらクールに美樹が言った。
(そっか、なるほど)  
 貴志は妙に感心して美樹を見た。
(それにしても、この女はいつの場面でも冷静さを失わない)  
 それは良さでもあるが、時としてそれがアダになることもあることを貴志は恐れてもいた。  
 家の電話が鳴った。貴志は待ち構えていたかのように受話器を取った。
「ソーギヤさん? ええ、えっ? あっ、すいません。てっきり葬儀屋かと思って・・・。源蔵さんでしたか。・・・ええ、さっき息子さんに。はい、そうですか、分かりました。・・・じゃあお待ちしてます。はい、どうも」  
 受話器を置いてから貴志が言った。
「源蔵さんが今から来るって」
「源蔵ってスイッチョン?」
「ああ」
「何しに?」  
 美樹がそうめんをざるにあけながら聞いた。
「いやあ、何か話があるらしいよ」
「ややこしくなるな、あいつが来ると」
「・・・」  
 2人にスイッチョンとあだ名される坂下源蔵は、かなめの長兄の息子で、かなめから見れば甥に当たり、貴志にとっては8歳年上のいとこである。源蔵は隣村の真橋村にあるかなめの実家を継いでいたが、昔から胃が弱くやせて青白い顔をしていた。そして、銀縁の眼鏡の奥から疑り深い目をキョロキョロさせ「チッ」と舌打ちをするのがくせだった。  
 彼は気に入らない事があると、キリキリした高い声でいつまでもいつまでも御託を並べる一刻者だった。特に酒が入ると厄介で、かつて梅松の葬式の時も、膳の席順が不満だと言って貴志たちや作之進に食ってかかったことがある。源蔵は会食が始まってからもグチグチグチグチ執拗に言い続けたため、本家の作之進が自分の膳を持って立ち上がり、彼を上座に据えることで事を収めた。しかし、その後も彼は、膳の内容がどうだの、ビールがぬるいだのと文句を言い続けた。

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27『遺影写真』

 皿に盛られたそうめんが運ばれてきた。貴志はつけダレに一味唐辛子を大量に投じると、今日初めての固形物を口に運んだ。彼がふたかみした時また電話が鳴った。慌ててそれを胃に流し込んで電話に出ると、今度は葬儀屋の二所谷だった。彼は、「遺影写真用の写真を遅くとも3時までには用意しておいてください、その頃に取りに行きます」と言ってバタバタと電話を切った。
「遺影写真かあ、写真あったかなあ」  
 電話を切った貴志は、そうめんを口に運びながらつぶやいた。マンションにあるアルバムに写っているかなめの写真を思い浮かべたが、それはあまりにも若い頃のもので、遺影写真として使えそうなものはないような気がした。  
 貴志は、ここを出て24年間、かなめの写真など撮ったことがなかったことに思い至った。いや、写真どころかまともに顔を見ることさえもなかった気がした。
「老人ホームに聞けば?」  
 美樹が冷静に言った。
「そうか、前に誕生会の写真が『苑通信』に載ってたね。ケーキを前にしていい笑顔で写ってたやつ。ああいうのがいいかもしれないね」  
 美樹は素早く手帳を広げて、
「はい、これ」  
 と、『さやか苑』の電話番号を貴志に示した。促されるままに貴志が電話すると、苑の担当者は丁寧にお悔やみの言葉を述べた。写真についても、誕生会のもの以外にも何枚かあると言い、かなめの遺留品もあるので、それも含めて取りに来てもらえないかと言った。
「あったよ、写真。取りに行かなきゃいけない」  
 受話器を置いて、貴志はホッとした表情で言った。
「30分はかかるね」
「ああ、急いで行ってくるよ」  
 そう言いながら、クルマのキーを持って立ち上がろうとした貴志に、
「でも、スイッチョン来るじゃん。私、行ってくるよ」  
 と美樹が言った。
「あっ、そうだった。じゃあ頼むよ」  
 貴志がキーを渡し美樹は玄関に出た。ちょうどその時、植え込みの向こうから源蔵がキリキリした顔で歩いて来るのが見えた。

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28『斉田夫婦』

「噂をすれば・・・」  
 美樹は一人ごちて、それから源蔵越しに遠くへ目を凝らすと、白いクルマから1組の老夫婦が下りてくるのが見えた。誰だろうと思っているうちに、当の源蔵はすぐそこまで来ていた。
「チッ、何してる」  
 あいさつもなしに、源蔵はいきなり美樹にそう言った。
「写真取りに」
「チッ、写真? 貴志は」
「中に」  
 美樹が貴志に声を掛け、源蔵が気ぜわしく家の奥に消えた時、今度はその老夫婦が美樹の目の前に来ていた。貴志の叔父の斎田道秋と妻の照子だった。斎田道秋は、貴志の父梅松の腹違いの弟で、愛宕村に隣接する上辺町の町議を長年やっていた男だった。年は71になるが、貴志と違いロマンスグレーの頭髪はふさふさし、身長もあって見るからに人目を引く気品(多分に安っぽいものではあったが)を漂わせていた。斎田は玄関先の美樹に向かって、
「いやあ、いやあ、美樹さん。本当にね、本当に・・・」  
 と言って美樹の手を握った。照子もそれに習って、
「本当にね、美樹さん」  
 と言ってもう一方の手を握った。
(何が「本当に」なんだよ。何で「握手」なんだよ。全く選挙でもあるまいし)  
 美樹はそう思いながらも2人を家に招き入れ、自分もそれに続いた。 

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29『チッ、チッ、チッ、チッ!』

 一方、線香を上げて仏間から戻って来た源蔵は、例のキリキリした甲高い口調で貴志に言った。
「チッ、村の人は」
「えっ?」  
 源蔵の言ってる意味が分からず、貴志が返答に窮していると、
「チッ、2人だげが? 村の連中は手伝いさ来ねえのが? あん?」  
 と、源蔵がまた言った。ようやく合点した貴志は、落ち着いた声でこう答えた。
「ああ、それでしたらさっきまで、本家の作之進さんやらに分家衆への触れを・・・」
「ばかたれ! チッ、触れは当たりめえだべよ。ほんでねぐ、葬式の手伝い人はどうしたが聞いでるんだ!」
「はあ」
「チッ、ちゃんと村の人さ頼むもの頼まねえどダメだべよ。何もやってねえのが、おめえら。チッ、2人だげでいってえどうするつもりなんだ。チッ、チッ!」
「はあ・・・でも葬儀屋に全面的に頼んで、今回は村の人には迷惑掛け・・・」
「チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ!」  
 源蔵は、貴志の言葉をさえぎるように6回舌打ちをして、
「ばがたれ! 葬儀屋がお茶出したり、留守番してくれだり、写真取ってきてけだりすんのが?! 美樹が留守にしたら、いってえ誰がお茶出すんだ? あん?」  
 と言った。  
 黙っている貴志に、源蔵はさらに勢いづいて言った。
「チッ、ましてや、十六団子はいってえ誰が作るってんだ? あん? おめえらで作れんのが?」

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30『斉田道秋』

 そこへ、美樹に伴われて斎田夫婦が居間に入って来た。
「やあやあやあ、貴志君、源蔵君。いやあ久しぶりだねえ、本当にねえ」  
 斎田道秋は紳士然としてそう言ってから、妻の照子をエアコンのそばの白いソファーに座らせ自分も隣に腰掛けた。源蔵は軽く会釈をしただけで、貴志に向かって話を続けた。
「チッ! おめえ、いってえ十六団子誰が・・・」
「源蔵さん、それなんですけど、十六団子は今回作らないってことで村の人にも伝えました。それから念仏もしないってことで・・・」  
 貴志は、お茶を入れている美樹の顔をチラッと見て言った。美樹は、何となく良からぬことが起こりそうな予感がしていたが、素知らぬ顔で源蔵にお茶を差し出した。その時だった。美樹は、自分の極めて至近距離で、鼓膜が張り裂けんばかりの甲高い声を聞いた。
「バガッタレッ! いってえ何のまねだ。チッ、かなめの葬式を、おめえらそんたら祖末なやり方でやろうって考えなのが! そんたらごどは、俺が絶対許さんぞ!」  
 源蔵は興奮していた。テーブルをバンバン叩きながら、いつもの青白い顔をさらに蒼白にしてがなった。お茶が大量にこぼれた。
「まあ、まあ、まあ、まあ」  
 斎田道秋が立ち上がって、腰をかがめながら2人の間に割って入った。
「うーんと、あれかな? こういうことかな?」
「チッ!」  
 源蔵は貴志をにらみ付けたままだ。
「うーん、貴志君、いや貴志君たちとこの場合言ったほうがいいのかな。ねえ、貴志君たちの考えでは、うーん、つまりあれかな?」
「チッ! 十六団子やらねえってんだよ、チッ! このバガタレめが!」  
 まどろっこしそうに源蔵が言った。
「そう、そう、そうだよね。十六団子やらない、ねえ、貴志君。そういうことでよろしい、よろしいっていうか、まあ、そういうことだよねえ。十六団子はやらない。意見としてだけど、意見というか方針かな? この場合」
「ええ、これは美樹と2人で決めたことで・・・」  
 貴志は頭が痛かった。しばらく沈静化していた頭痛がまた始まったのだ。
「うーん、そういうことなら、まあ、それは喪主、この場合喪主の方針、つまり貴志君は喪主なんだからね。そうでしょ? 喪主は源蔵君でもなければ私でもない。ましてや私の家内でもない。ねえ、照子。そうでしょ? ははははっ」  
 道秋は照子の顔を見てから、源蔵、美樹、貴志の順に顔をぐるり見回して笑った。照子が口元で笑っただけでほかの誰も笑わなかった。  
 源蔵は貴志を見据えたまま言った。
「チッ! これはそういう問題じゃねえ! 十六団子上げねえなんていうのは愛宕村だけじゃねえ、おらの真橋村でも見だごどねえ。そんたらごどしたら、おめえ、一族の恥、チッ、一族みんな笑い者よ!」  
 穏やかだった斎田道秋の表情が少し曇った。それは明らかに「一族の恥」「一族みんな笑い者」に反応してのことだった。道秋はこめかみを押さえている貴志に向かってこう言った。
「貴志君、十六団子のことだけどねえ。う〜ん、あれはやらないとダメだとボクは思うな」
(はあ?)
「実際、あれだけはどうしてもっていう、そういう性格のものだからね。あれはね。それに、実際やってみるとなかなかいいものなんだよ。ねえ、照子」  
 振られた照子は、
「ええ、うちの町でもちょくちょく見ますわ」  
 と、すまして言った。
「そもそも、どうなの? あれって、そんなに大変、大変っていうか、誰か村の人、おばあさんとかいるわけでしょ? そういう、ねえ、おばあさんに、別におねえさんでもいいんだけど。いくらでも若いほうが、そりゃあねえ、今にも死にそうなおばあさんよりはおねえさんのほうが、ご利益っていうか、ねえ。ははっ、そういう人に、手伝ってもらうとかすればいいわけでしょ? そういうものなんでしょ? 基本的にあれって。ねえ、源蔵君、ねえ」  
 源蔵は黙っていた。貴志が言った。
「そのおばあさんたちが今朝来てくれたんですけど、断りました」
「何だど!」  
 源蔵は手を振り上げんばかりに激昂して叫んだ。こめかみの青い血管が浮き上がっていた。
「この、バガタレが! 案の定こういうごどもあろうがど思って来てみだらこの通りだ。おめえら、村のごど何も分がってねえ。チッ、いってえ誰のための葬式だと思ってんだ!」  
 美樹は、全く同じことを今朝誰かが言っていたことを思い出した。
(誰のための葬式ねえ。結局、こちらは自分たち一族とやらのメンツじゃない)  
 美樹はそう思ったが、今度はそれを口に出さなかった。時計を見ると、葬儀屋が写真を取りにくる時間まで40分しかなかった。

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31『金剛力士像』

 その時、勝手口の呼び出しが鳴った。そこに立っていたのは、今朝作之進と一緒に触れに出てくれた星野周平だった。  
 周平は陽に焼けた顔に白い歯を出してほほ笑んでいた。ほほ笑んではいるのだが、眉毛が金剛力士像のようにいかつく釣り上がっているため、どうしても怒っている顔にも見えてしまう。あの頃のきゃしゃな体型ではなく、周平は見違えるような立派な体格になっていたが、彼が小学校当時のままのモンタージュだったことに貴志は妙にうれしくなった。そして、しばらくぶりに、張りつめていた心の糸が緩んでいくのを感じた。
「何かあったら、何でも使ってください。俺、今、暇なんです。それから、彩も。あっ、俺の奥さんですけど、こいつも暇なんで、どうぞ使ってやってください」  
 よく見ると、金剛力士像の後ろに隠れて小柄な女性が立っていた。彩はペコンとお辞儀をして、
「はじめまして、彩です。何もできませんが・・・」  
 と言った。彩の手には黒いエプロンがあった。美樹は職業的直感で彩が頭のいい子だと思った。美樹の口元から、忘れていた本当に久しぶりの笑みがこぼれた。
「彩さん、美樹です。こちらこそ、どうぞよろしく」  
 それから美樹は、貴志に向かって、
「写真取りに行かなきゃいけないけど、どうする?」  
 と聞いた。すっかりそのことを失念していた貴志は、
「あっ、そっか。3時に葬儀屋が取りにくるんだった」  
 と言って困った顔をした。
「あっ、俺行ってきますよ」  
 周平が間髪入れずに言った。
「悪いな、じゃあ頼んでもいいかな」  
 貴志が言った。周平はほほ笑んで向かう場所を聞いた。美樹が老人ホームの名前を言うと周平は、
「ああ、さやか苑ですか。同級生の滋子が、あそこでヘルパーやってんですよ。滋子って分かりますか? 邦彦さんの妹」  
 と言って、素早く自分の青い軽トラックに乗り込んだ。
「あっ、それから遺留品があるみたいだから持って来て・・・」
「分かりました。じゃあ」  
 美樹が言い終わらないうちに、周平は手を振って出掛けていった。
「シゲコ? クニヒコ? 誰だっけな?」  
 貴志がボソボソと独り言を言うと、脇で美樹は、
「助かるね」  
 と言って、持っていたクルマのキーを貴志に渡した。 

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32『一族のメンツ』

 居間では、相変わらず源蔵と斎田夫婦が『十六団子』をめぐって話をしていたが、もはやこの3人は『一族のメンツを守る保守派』としてガッチリと一枚岩になっていた。  
 彩が線香を上げに行ったのを見計らって、美樹は居間に入る前に貴志に耳打ちした。
「どうすんの?」  
 貴志は「うーん」とあごに手を当てながら、
「手強いな、彼ら」  
 と言った。
「メンツにこだわる血筋だったんだ、あんたんとこ」
「ああ、どうやら十六団子だけは譲るしかないかもな」
「あの彩さんって子に、見張っててもらえばいいわ」  
 ひらめいたように美樹が言った。
「えっ?」
「ババアたちの様子よ」  
 美樹はそう言うと、声を落として、
「それから、ババアたちの賄いはうんと豪勢な折り詰めを用意して」  
 と言って、右頬だけで不気味に笑った。
「あ、ああ・・・」  
 貴志は美樹の意図がよく分からなかったが、少なくともこれで十六団子の攻防からは解放されると思った。問題はいったん断ったスミたちに、どうやってまたお願いするかだった。
「スミさんたちにお願いするの、気が引けるなあ、俺」  
 貴志が頭をかきながら言った。美樹はあきれた顔で、
「モロ、あんたも血筋ね」  
 と言った。
「そうだな」
「いいよ、私が電話で言うから。『ほら見たことか』って笑うスミの顔が目に浮かぶわ」  
 ちょうどそこへ彩が戻ってきた。彩は素早くエプロンを着けると、背中で紐をキュッと結んだ。
「彩さん、じゃあ早速だけど、いろいろ教えることあるから、こっちに来て」
「はい」  
 美樹に促されて彩は居間からキッチンに入った。それを目ざとく目の端に留めた斎田道秋は、
「あっ、村の方? ねえ」  
 と言って小走りに近付いてきた。
「ええ、星野彩と申します。よろしくお願いします」
「いやあ、いやあ、こちらこそ、本当によろしく、よろしくっていうかねえ。もうよろしくも何も、よろしくどころじゃないね、本当にお世話になりますわ。何しろほら、ここのうちの人たちは都会人だからねえ。何しろさっぱり分からないの。村のしきたりっていうのか、そうなの、そういうの本当にダメだからねえ、ダメって言うか無知。ううん、無知って言うかダメでしょ。ねえ、まあ、いずれにしても、どうかひとつ、いろいろ教えてもらって、教えてもらってじゃないな、そうねご教授だよね。そう、ご教授いただいて、ねえ。いやあ、よかった、よかった」  
 彩の至近距離まできた道秋は、「よかった」を連発しながら彩の手を固く握った。彩は、「ええ」と答えたものの、何だかさっぱり要領を得ないお調子者のこの男に嫌悪を感じていた。彩がかつて東京の建設会社に勤めていた時の、大嫌いだった上司にそっくりだったからである。性格もそうだが、彼が放つ独特の加齢臭まで似ていた。 

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33『加齢臭男の忌まわしい記憶』

「なあ、なあ、今井君、なあ。君なんぼなったんやっけ?」  
 田名部は、馴れ馴れしく彩の肩に手を置いてそう言った。  
 田名部は北関東の郡部出身のこともあり、元来強烈ななまりの持ち主だった。入社以来、彼はずっとそんな自分のなまりに劣等感を持っていた。しかし、3年ほどの大阪支店勤務が彼を別人に変えた。大阪弁を身に付けたと錯覚してしまったこの男は自分の性格までも豹変させたのである。それは、卑屈な人間によくあるコンプレックスの裏返し、もしくは反動というやつだった。それまでの寡黙でぼくとつな男のイメージは、軽薄で調子のいいおべんちゃら男のイメージに塗り替えられた。  
 田名部がそういう男になって本社に戻ってきたのは彩が39の時だ。人事部課長補佐というのが彼の肩書きであり、同じく人事部係長の彩にとって、言うまでもなく彼は直属の上司だった。
「三十路(みそじ)街道も、あれやろ。そろそろ行き止まりーってやつやろ。えっ? なあ」  
 話を無視して同僚と鍋をつついていた彩に執拗に田名部は言った。  
 会社の近くの小料理屋の座敷でその年の人事部の忘年会は行われていた。田名部はちょうど彩と背中合わせの位置に座っている。彩の肩にいやらしく触れる男の右手、彩の耳元に寄せられた脂ぎった男の顔、強烈なポマードの臭いを放つ男の髪、ムンムンと体全体から放射される男の加齢臭・・・。  
 7歳年下の同僚、森由佳里は、眉根を寄せて不快感をあらわにした。
(今井先輩、こんな男、無視してください!)  
 由佳里は彩にそう目配せをした。反応のない彩に田名部は一方的に話し掛けた。
「君、結婚はせえへんの? 誰かおるんちゃあうの? そらあ、おるやろな。君べっぴんやさかいなあ。ヒッヒッヒッヒッ!」  
 酔いの回った男の口から、腐った卵にアルコールを混ぜたような臭い息が放たれた。彩も由佳里も思わず顔をしかめた。
「若い女の子がなあ、ぼくんとこによおけ相談にくるんよ。仕事やりずらいゆうて。なんでやりずれえの? ってぼく聞くとな。『オ』付く人がおるゆうんや。『オ』ってあれやろ。オツボ何とかっつうんダッペ?」  
 自分では完璧な大阪弁を話しているつもりなのだが、悲しいかな、どうしてもイントネーションは茨城弁のままだったし、しかも時々語尾に『ダッペ』まで付いてしまう。お里丸出しの男はまた言った。
「『オ』付く人って、もしかしてあれー?」  
 田名部はそう言って卑屈にニヤッと笑うと、グーッと彩に体を寄せてきた。
「ちょっと、やめてください!」  
 耐えかねた由佳里がギッと田名部をにらんだ。  
 田名部はゆっくりと体の向きを変えると、後ろ向きのまま彩の肩をポンポンとたたいた。彩は黙って鍋をつついていた。
「先輩、あんなバカ気にしないでください!」  
 由佳里は田名部の背中をにらみ付けてから、彩の耳元でそうささやいた。
「うん、大丈夫よ。さあ、食べよ!」  
 彩は笑顔を作った。
「こういうのをセクハラ、パワハラって言うんですよね。何なのよ、冗談じゃないわ。組合に訴えてやりましょうよ!」  
 怒りの収まらない由佳里は、すり身の団子をほお張りながら顔を赤くして言った。
「こういうの、こっそり録音しとけばいいんですよね!」
「ふふっ、由佳里ちゃん、血圧上がるわよ。はい、ビール」
「ったく!」  
 由佳里は、注がれたビールを苦々しくにらみ付けてから、まるで恨みを晴らすかのように一気にグラスを空にした。   

 (2011.04.28)   △このページのトップへ

34『歓送の歌』

 翌年の3月、勤続15年表彰の日の前日彩は会社を辞めた。田名部は彩の退職を自分の手柄のように社員に吹聴したが、彩の後輩のほとんどはこのことを心から残念がった。表向きの送別会は彩が固辞して行われなかったが、田名部には内緒で同僚たちがひそかな送別会を企画した。所属部門や年齢を超えた大勢の社員と取引先の人間まで総勢40人を超える人たちが集まった。それはまさに彩の人柄を示すものだった。  
 その中に、取引先の建設機械メーカーの技術者だった星野周平も混じっていた。彼は、当時48歳、彩とは8つ年が離れていた。彼らの出会いは彩の入社当時にさかのぼる。

「この技術は、現在わが社が提供できる最高のものです。でも、僕は技術者として言わせていただきますが、下町の町工場にはこれ以上の技術を開発できる職人は何人もおります。僕は彼らと3年間いっしょに仕事をさせていただきました。会社にいる時間よりも長かったくらいです。彼らの技術がなければこの機械は開発できませんでした」  
 新型機械の売り込みのために、営業マンと連れ立って来社していた周平は、彩の会社の重役を前にプレゼンをしていた。たまたまその会議室にお茶を持っていったのが新入社員の彩だった。
「彼らは地味だけど、とても誇りを持っていました。僕も、ああいう技術者になりたいと思っています」  
 彼は機械の売り込みというよりも、気負いなく自分の信念を語っていた。特徴のある金剛力士像のような無骨な顔とシンプルだが説得力のあるその言葉に、彩はハッとして茶碗を置く手を止めた。  
 一方周平もまた、彩を一目見た時に今まで感じたことのない不思議な魅力をこの初々しい新入社員に感じていた。彼らはそれから15年、お互いに夢を語り、時には会社や日常生活での挫折を励まし合う関係になっていく。  
 送別会の少し前の2月、2人は行きつけのイタリアンレストランにいた。
「そういえば、あのカレー臭の男どうしてる? 相変わらずなのか?」  
 隣のテーブルに運ばれてきたカレーの匂いがするチーズピザを横目で見ながら、思い出したように周平は言った。彩は赤ワインのグラスを口に運ぶ手を止めて、
「うん、ひどいの」  
 と、苦々しい顔で言った。
「そうなのか」
「うん、最悪なの」  
 周平の目の前には、大好物のイカスミパスタ運ばれてきた。
「じゃ、先食べるよ」  
 周平は起用にパスタをフォークに絡め取ると、早速それを口に運ぼうとした。その時、彩が言った。
「ヘドが出るくらい!」  
 周平のフォークが口の直前で止まった。
「おい、ちょっと別の表現ないのかよ」  
 周平は、怒ったような、笑ったような、困ったような複雑な顔で彩を見詰めている。その顔がたまらなくおかしくなった彩は、「プッ!」と思わず吹き出した。彩は、ワインを一口飲むと今度はこう言った。
「むしずが走るくらい!」  
 周平は首をちょっとひねって、
「何だかそれも、あんまり美しくないな」  
 と言った。  
 周平は、なかなか大好物を口に入れられないでいる。彩はケラケラ笑うと、
「ゲロゲロ、オエー!」  
 と言って、わざと吐くまねをした。隣の席のカップルが白い目で彩を見た。彩は無視してケラケラ笑っている。
「おーい!」  
 周平はチラッとカップルに視線を送ってから、困惑したように、
「あのなあ、例えばこういうふうに言うんだよ」  
 と言って、一旦フォークを皿に置いた。
「いいか、『うっとりするほど』とかさあ」  
 周平の細い目には星が浮かんでいる。彩は、
「それいい、それいい、もーらいっ! 『うっとりするほどサイテー!』」  
 と言って、またケラケラ笑った。
「なでなでするほどサイテー! とかね」  
 周平も調子に乗ってきた。ニコニコ笑いながらイカスミパスタを口に運んでいる。
「ため息が出るほどサイテー!」  
 彩が言うと、
「よだれが出るほどサイテー!」  
 と周平が応える。
「それ、美しくなーい。却下!」
「じゃあ、これは? 身もだえするほどサイテー!」  
 彩は周平を指さして腹を抱えて笑い出した。  
 ひとしきり笑った後で、彩は少しまじめな顔になって、
「私、会社辞めようと思ってるんだ」  
 と言った。
「えっ?」
「あっ、『頬ずりしたくなるほどサイテー男』のせいじゃないよ」
「じゃあ?」
「前に言ったことがあったよね。私、考古学の勉強してたって」
「うん、大学時代だろ」
「そう、本当はずっとそういうことやりたかった気がする」
「考古学の勉強?」
「というか、もうちょっと具体的な行動レベル」
「どういうこと?」
「シベリアに行ってマンモスの骨を掘るの」
「えっ? マンモスの骨?」
「うん、温暖化で北極の氷が融け出して、氷河期の地層が露出し始めているのね」
「ああ、何かテレビで見たなあ」
「マンモスを自分の手で掘ってみたいんだ。それがずっと夢だったのね」
「へえー!」  
 周平は、あまりの唐突でスケールの大きな話にあぜんとして言葉を失った。
「ねえ、過去と未来、どっちが好き?」
「えっ? そりゃあ未来かな」
「じゃあ、どっちにロマンがある?」
「そりゃあ、一般的には未来だろうけど。でも、今の世の中、未来に希望も夢も抱けないような気もしてくるね」
「うん、『温故知新』ってあるでしょ? 古きを訪ね新しきを知るって。あれ真実だよね。過去を知らなければ未来は開けない」
「確かに匠と言われる職人さんたちもそうだね。宮大工さんなんかもそうだけど、遠い過去からの技の伝承が未来を作っていくんだもんね」
「だから、私は超過去を目指すの!」
「マンモスの時代のか。すごい夢があるな」
「うん」  
 彩はワインを一口飲むと、視線を氷河期のシベリアに移すかのように遠くを見詰めた。
「だけど、寒いだろうし、女一人じゃ大変なんじゃないのか?」
「そうね、一応モスクワ大学の研究プロジェクトに入るつもりだけど、向こうでの生活は大変らしいね。とにかく寒いし」
「お金は?」
「この日のために、今まで涙をこらえて貯めてきたんじゃない」  
 彩は胸をポンと叩いておどけてみせた。
「1人で大丈夫なのか?」
「ずっと1人だったんだから。それとも一緒に行ってくれる?」  
 彩がいたずらっぽい目を周平に向けた。周平はいつもの金剛力士顔でこう言った。
「それは結婚したくなるほどの難問だな」  
 彩は笑わなかった。ワイングラス越しに揺らめく周平の顔を心に深く刻み付けようと、ただ静かに見詰めていた。  
 送別会の2次会はカラオケボックスで行われた。そこで、今まで彩の前では一度も歌ったことのなかった周平がマイクを握った。彼は少し照れながらこう言った。
「彩さんのこれからの挑みの人生への・・・はなむけです」  
 スピーカーから『歓送の歌』のイントロが流れた。  

 出会いのその日から、街のよどみ消えて  
 星たちに輝きよみがえり、僕に力が、君のおかげさ
 互いの情熱と、夢をぶつけ合って  
 透き通る涙を流したね、汗にかくして  
 君を送るこの日まで、一所懸命過ぎるほどの  
 暮らし、こぶし、まなざしどれもが  
 素晴らしい記念碑、誇りさ  
 若いからじゃなくて、夢に挑むことで  
 僕たちに別れはないという、心通えば   
               (作詞 小椋佳)    

 今日は決して涙を見せない、そう思っていた彩はついに泣いてしまった。それを見た由佳里ももらい泣きをしていた。  
 周平は、怒った眉と笑った口元の間の涼やかな細い目で優しく彩を見詰めると、静かにマイクを置いた。周平の目にも涙が光っていた。  

 

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35『喪主業、源蔵』

 道秋はさらに続けた。
「十六団子の作り方もご存じなんでしょ? ねえ。お若いのにすごいねえ!」
「これが、クッキングヒーターのスイッチね」  
 道秋を無視して美樹は説明を続けている。
「はい」
「それから、鍋なんかはここにあるから」
「はい」
「調味料はあんまりそろってないけど、一応こん中ね」
「あっ、はい」  
 道秋は「うん、うん、うん」とうなずきながらしばらくその様子を見ていたが、耐えられなくなってまた口を開いた。
「ここは、ほら、ガスじゃないからね。炎が出ないの。みんな電気でね。何でも、ゼーンブ。そういうの若い人じゃないと、ねえ、年寄りはダメだからね。こうボーッと火が出てないと不安。不安っていうかね、何だか物足りないのね。やっぱりこう、ボーッ、パチパチってこう火がこうね。ボーッ、パチパチ」  
 道秋は両手で「ボーッ、パチパチ」を演じて見せている。
「まあ、特別何も作る必要はないからこの程度で大丈夫だと思うわ。何か分からないことがあったら聞いてね」  
 美樹はそう言って彩にほほ笑んだ。
「いろいろ、頼むわね」
「はい」
「あっ、それから、ちょっとこっちに来て」
「はい」  
 美樹に促されて2人は部屋を出た。すっぽ抜けた道秋は、「ボーッ、パチパチポーズ」のまま2人を見送ると、後ろを振り向いて源蔵に言った。
「ねえ、源蔵君。こうボーッ、パチパチじゃないとねえ。ねえ、照子」
「あなた、そろそろおいとましましょ!」  
 照子がキッパリと言った。
「そうだね。我々がいてもかえって何だかね。邪魔っていうか、まあ邪魔ってこともないんだろうけど、あんまりね。年寄りが長居っていうのもね。取りあえず今日はね。特にやることもないわけだからそろそろ帰ってね。明日もあるからね。あっ、あさってもか、あさっては本番だからね。本番ってこともないか。そう本葬だね、本葬。それはもちろん来ますけどね・・・」
「帰りますよ!」  
 照子は立ち上がってそばまで来ると、ギュッと道秋の腕をつかんだ。
「いででっ! じゃあ源蔵君、そういうわけで。あっ、貴志君、くれぐれも十六団子だけはお願いしますよ。あれは、どうしたってねえ。いでっ!」  
 斎田夫婦は帰った。
「源蔵さん、十六団子はやることにしました。今朝来てくれたおばあさんたちにお願いしますから、どうぞ安心してください」  
 2人だけになったリビングで貴志は源蔵にそう言った。源蔵は冷めたお茶をまずそうにすすりながら、
「チッ、そのばあさまだぢだが、明日早く来てもらえよ!」  
 と言った。
「えっ? 明日もですか?」
「チッ、明日焼き場さ行ぐ時も作んねばねえべよ。ダミ送りさ持っていぐ団子どは別の団子も要るんだよ。おめえ、それも知らねえのが!」
「はあ・・・」
「それに、チッ、明日みんな焼き場さ行ったら留守番する人間も必要になるべ。そういう細けえごどをきちーんと抜がりなぐやってねえど、あどでいろいろもめ事になんだぞ!」
(もめ事の原因は、大概あんたじゃないか)  
 貴志は心の中でそう思ったが口には出さず、
「分かりました」  
 と言った。
「チッ、ったぐ。それがら明日の火葬の受付も、誰がさ頼んでおがねえどダメだど!」
「火葬の受付ですか?」
「チッ、当だりめえだべ。この辺では、火葬に香典持って来る者もいるがら、ちゃんと受付で名前書がせで香典もらった者には会葬御礼もやんねばねえんだ。チッ」
(葬式の時にみんなまとめて来てくれればいいじゃないか)  
 貴志はそう思ったがそれも口に出さずに、
「そうですか。何とも面倒、いや複雑怪奇ですね」  
 と冗談めかして言った。
「この、バガタレが! この村で葬式出すってごどはなあ、大変なごどなんだぞ。おめえ、それが嫌ならなあ、向ごうで、葬祭会館でも借りでやりゃあよがったべや。チッ」  
 源蔵が甲高い大きな声でがなった。
(そうか、何でそんな単純なことに今まで気付かなかったんだろう。初めから向こうの葬祭会館で全部やっていれば、こんな面倒なことにはならなかったのだ)  
 貴志はかなめの死から今までの十数時間を思った。自分も美樹もほとんど無意識のままにかなめをこの家に運び、葬式の段取りを取り始めたのだ。あたかも何かに導かれるように。そのことに今まで何の疑問も持っていなかった。しかし、源蔵が言うような方法もなくはなかった。そのほうが確かに楽だったかもしれない。
(でも・・・)  
 と貴志は思った。仮にそうしていたとしても、このメンツにこだわる親戚たちが果たしてそれを許しただろうか。いや、口ではこんなことを言っている源蔵こそ、村でやらねえとは何のまねだと猛反対したに違いない。
(いずれにしても、こうなっていたのだ)  
 貴志は自分にそう言い聞かせた。
「チッ、それがら、近所の家さ頼んで、クルマ置がせでもらう場所も手配しておげよ。それがら、雨降ったどぎの傘の用意もだ」  
 源蔵はこまごまとした指示を貴志に与えた。そして、「美樹にも言っておげ!」と言って、お逮夜の会席場面での諸注意を告げた。それは、かいつまんで言うとこういうものだった。  
 坊主には一番初めにビールを注ぐ。坊主は気紛れでビールを飲まない場合もあるのでウーロン茶も用意しておく。坊主に注いだ後、全員に速やかに飲み物が注がれるようにする。この「間」が大事である。ここで時間がかかり過ぎるとしらけるので1分以内に行き渡るように5カ所くらいに女の人を配置し、栓抜きは予備も入れておのおの3個は持っていなければいけない。その際、上座にできるだけ若い女を張り付ける。なぜなら林峰寺の坊主はスケベだからそういう配慮も大切なのである。坊主が杯を持ったタイミングで喪主あいさつ。あいさつは短く簡潔に、例えばこんな具合に・・・。
(喪主を代わってもらいたい!)  
 貴志は真剣に懇願したい思いに駆られた。
「チッ、坊主5時だったな」
「えっ? ああ、枕経は5時です」
「チッ、少し町で用足してがら、その時間にまだ来る」  
 源蔵はまだまだ言い足りなさそうだったが、時計を見て立ち上がった。時計は3時を少し回っていた。帰り際に源蔵はまたチッと舌打ちして、
「玄関ぐらいきれいに掃いておげ! チッ、ほらっ、あそごさクモの巣張ってるぞ!」  
 と言った。源蔵はまるで、喪主をするために生まれてきたような人物だった。世の中に喪主業という職業があったら、間違いなく彼は天下を取っていたに違いない。
(喪主業じゃないにしても、葬祭業でも十分通用する)  
 貴志はしみじみそう思った。葬祭業といえば二所谷がそろそろ来る時間だった。   

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36『ジョウコツ』

「これが火葬許可証です」  
 首にしたたる汗を白いハンカチで拭いながら、二所谷は貴志に1枚の紙を差し出した。
(わっ!)  
 役場の承認印の上にミミズの這ったような字が並んでいた。
「これ、葬儀屋さんが書いたんですか?」
「ええ、明日、火葬場に行った時渡してください」  
 二所谷はそれから急に笑顔になって、役所に死亡届を出した時の受付が自分の高校時代の同級生であったこと、その人間がメタボリック症候群であったこと、奥さんとの関係があまり上手くいっていないようだったことなど、どうでもいいようなことをさもうれしそうに延々と告げてから、
「火葬場の予約もしてきました」  
 と言った。
「あっ、ありがとうございます」
「火葬場で、もう一つ渡してもらいたいものがあるんです」  
 二所谷は、急に身を乗り出して貴志の耳元に顔を近付けると、低い声でこう耳打ちした。
「ここだけの話ですが、コツを上手に焼いてもらうコツがありましてね」  
 と、ダジャレではなくまじめな顔で言った。
「はあ?」
「のど仏を壊さずに焼く焼き方があるんですよ。焼き加減っていうか」
「・・・」
「仕事がらいろんな骨を見てきましたが、本当に素晴らしい骨というのがあるんです。見とれるくらいの上骨」
「ジョウコツ?」
「はい、そのまま仏壇に飾っておきたいくらいの骨です。特にのど仏は美しい!」  
 二所谷はうっとりした顔で言った。
(何か変な趣味あるんじゃない? この人)  
 貴志は何だか怖くなってきた。
「2000円、そっと渡してください」
「えっ?」
「彼らは一応公務員ですからね。絶対にそういうものはもらわない、もらっちゃいけないんです。ですからソッとです。ソッと後ろからこうポケットに入れる感じです」  
 二所谷は、財布を抜き取る時のスリのような仕草を実際にやってみせた。
(何、何、何? ちょっと何?)
「コツをつかめば割と簡単です。彼らは白い作業着というか制服を着ています。脇には大きな外ポケットが付いています。だから案外入れやすいんですよ」
(何のこっちゃ・・・)
「いいですか、2000円ですよ。それ以上は罪の意識が芽生えますから。それから、絶対包まないで裸の現金にしてください。証拠残るの嫌がりますから、彼ら」
「・・・」  
 二所谷はそこまで言って、やっと元の体勢に戻った。  
 貴志は、どうしようもないくらい、実に非常にばかばかしくなってきた。
「それからっと、ああ、写真は用意されましたね」
「ああ、ええと、それは今取りに行ってもらってます。間もなく届くと思いますが」
「はい、じゃあ結構ですね。それから枕経は5時でしたね」
「ええ、そう連絡してあります」
「はい結構です」  
 そこへ、勝手口から周平が、玄関からは一三がほぼ同時に現れた。   

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37『イチゾー先生』

 周平は、茶封筒に入ったかなめのスナップ写真を、一三は、愛用の黒い皮の書道具箱を持っていた。
「あっ、これはどうも、イチゾー先生」  
 貴志が腰を浮かしてあいさつをすると、一三はかしこまって深々と頭を下げ、
「この度は、大変御愁傷様でございますた」  
 と言った。  
 炎天下の中を喪服を着て歩いてきた一三は、顔中ビッシリ汗をかいていた。
「どうぞ、こちらです」  
 貴志に案内されて仏間に入った一三は、枕飾りの前で手を合わせ線香を上げた。それからまた貴志に向き直って、座ったまま丁寧にお辞儀をした。
「貴志君、大変だったね。気を落どさないでください。親父に言われますて、私にできることがあれば何なりとお手伝いさせでいただきます」  
 一三はまじまじと貴志を見詰めて、これ以上の誠実さはないというような面持ちでそう言った。  
 彼の発音は基本的には標準語なのだが、時々微妙になまりが混じってしまい、それがかえって田舎のインテリゲンチャーを強調してしまうのだった。  
 宮下一三は作之進の息子で今年古稀を迎えた。長年地元の小学校の教師として務め、貴志も教え子の1人である。退職してからも、書道の先生として子どもたちに習字を教えていた。ちょっと猫背でなで肩、胸板は薄く、極端にやせた体躯をしていた。髪はロマンスグレーで、少し離れた目、青白くしわ一つない顔は、どこかウーパールーパーにも似ていた。  
 一方、周平から写真を受け取った二所谷は慌ただしく席を立つと、
「私は一回戻って遺影写真の手配をしてきます」  
 と、玄関から大声で貴志に告げて足早に出掛けていった。この時間の気温は、今日最も高い34度を示していた。  

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38『村のしきたり』

「貴志君、君の顔を拝見するのは実に久すぶりですね」  
 さも懐かしそうに、貴志の顔を見詰めながら一三は言った。
「そうですね、何年ぶりでしょうね」
「僕が新米教師で赴任すたのは、君が小学校2年生の時ですたね」
「ああ、そうでしたか。あっ、先生、どうぞ服を脱いでください。それから足も崩してください、さあ」  
 貴志は、そう言ってイグサの座布団を勧めた。  
 そこへ麦茶を持って彩が入ってきた。
「どうぞ」
「おう! 彩さんも手伝いですか?」
「ええ」
「いやいや、こんな時にあれですけれど、先日いただいた枝豆はとてもおいすかったです。家内も感心すておりますた」
「あれは『湯上がり娘』という新種で、本当に香りも良くておいしいですよね。隣のリン子さんに種をいただいたんです」
「そうですか。リン子さんは実に研究熱すんですからね。道の駅でも販売すているそうですよ。あの方は野菜作りの名人ですね。何を作らせても1等賞です」
「ええ、隣に畑の先生がいるんで本当に助かります。技術だけじゃなくて、現物もしょっちゅういただいちゃったり・・・」  
 彩は、結んだ手を口に当ててケラケラと笑った。一三も貴志も、その屈託のない笑顔につられて心がほぐれ笑顔になった。  
「そうだ、明日茹でて持ってきますね」  
 彩が言うと、貴志は目を輝かせて、
「おおっ!」  
 と歓迎の声を上げた。
「そう言えば、美樹は?」  
 美樹の気配がないことに気付いた貴志が彩に聞いた。
「ええ、何か食材とか飲み物とか、それからお花も買うって、さっき町に行きましたよ」
「あっ、そうでしたか」  
 安堵したように貴志が言った。彩が下がって2人きりになった座敷にセミの声が響いた。
「それにすても今日は暑いですね。この夏一番じゃないでしょうか」  
 一三は、そう言って眩しそうに玄関の外を見た。
「君の所は風がこうして通るからいいですが、僕の書斎は暑くていけない。子どもたちも今日は全く集中力がありませんですた。集中力がないと字が曲がってすまいます」
「ああ、習字の子どもたちですね。そうですよね。こう暑いと確かに字も曲がってしまいますよね、ははっ」  
 貴志は一瞬、二所谷のミミズ字を思い出しておかしくなった。
「僕は自分の集中力を測るものさすを持っておりますてね。それは、筆で自分の名前をこう、書くんですね」
「名前をですか?」
「ええ、そうするとよーぐ分かるんですよ。ほら、僕の名前は一三でしょ。ですからとっても分かりやすいんですよ」
(そうか、直線が4本だもんな)  
 貴志は、頭の中で「一三」となぞってみた。
「なるほど、便利、いやいい方法ですね」
「今日なんかは全然ダメですた。へばったミミズの親子です」  
 一三はウーパールーパー顔に満面の笑みを浮かべた。  
 そう言えばこの先生のジョークは、普段まじめだけに結構生徒にウケていたことを貴志は思い出した。同時に、二所谷は極端に集中力がないんだなとも思った。  
 冗談が貴志にウケたことに気を良くしたのか、一三は続けて、
「僕が書道を志すたのも、そもそも、自分の名前が上手く書けなかったからなんです。自分の名前を練習すているうちに、いづの間にかはまってすまいますた」  
 と言って笑った。
「はははっ、作之進さんはいい名前を付けれたんですね」
「そうです。僕は親父に感謝すなければなりません」  
 ジジジジジジジ・・・。  
 セミが一斉に鳴き出した。  
 一三は笑った顔のまま表に目をやった。
「今日は、書道教室は?」  
 貴志が聞いた。
「今日は途中で自由学習に切り替えますた。字を書くより、外で汗をかげって」
「はははっ、さすが一三先生は、今も相変わらず教え上手ですね」
「いやいや、どんでもない。褒められたから言うわけじゃありませんが、君は本当に優秀な生徒ですた。この村から国立大学に入った生徒は、いまだ君だけなんですからね。僕も、まあ、教師とすてはもちろんですが、一族とすても誇りに思っておりますよ」  
 そう言って一三は思い出したように、
「さっき、周平君もおりませんですたか?」  
 と言った。
「ええ、居間のほうにいると思います。夫婦で、今日は朝からいろいろ助かってます」
「僕とすたことが忘れていますたよ。彼も国立大学ですた。そうだ、そうだ。もう1人おりますた。君は文系、彼は理系ですた。彼は君の幾つ年下ですたか?」
「確か4つぐらい下だったと思います」
「いやあ、そうですか、そうですか。君たちがいれば何も心配はないと思いますが、まあ、君たちには分からない、この村独特のいろいろなしきたり、おきてがあるものですから、僕も微力ながらお手伝いできると思います」
「ええ、本当に。そのことに関しては全くといっていいほど分からなくて。どうか先生よろしくお願い致します」  
 貴志が頭を下げた。
「そうですか。それも無理はありません。そうですか、分かりますた。ではまず、お逮夜のもてなしの席順ですが、これが1つありますね」
「はい、そうなんです。ただ、お逮夜は身内だけの簡単なものにしますので、むしろあさっての法要膳の時の席順ですね。それがよく分からないんです。村の別家衆の順番が全く」
「分かりますた」  
 一三は、書道具箱から硯と墨汁、そして細い筆を取り出して座卓の上に置いた。それから、二所谷が見たら目を丸くするだろう達筆で、すらすらと順番に分家の名前を書いていった。
「これが序列です。基本的にこの順番に並べれば間違いありません。席札の名前は代替わりしていようがいまいが、その家の一番年長者の男性の名前を書きます。ただす、男性が亡くなっている場合、つまり、妻が未亡人である場合は息子の名前ということになるわげです。ですから、僕が書いたこの名前を、この順番でお膳に付けていただければ結構かと思います」
(その字ごと切り取って使わせてもらいたい!)  
 あまりの字の美しさに、貴志は思わずうっとりしてそう思った。
「あと問題になるのは、野辺送りの時の持ち手の選定ですね。この辺では、野辺送りのことを『ダミ送り』と言います。火葬をすることを『荼毘に付す』と言いますが、その荼毘がなまったのが『ダミ』なんです」
「なるほど。荼毘がダミですか」
「ええ、その行列を『ダミ行列』、その手伝いをする人たちが『ダミ若勢』です」  
 一三はそう言って少し難しい顔になった。
「これは、遺骨を墓まで持っていって納める儀式と言ってすまえばそれまでなんですが、実はもーっと深ーい意味があるのです」
「深い意味?」  
 一三は大きくうなずくと、キッとした目でこう言った。
「故人のタマスイを送る儀式です」
「タマシイ・・・、ですか?」
「そうです。そのための決まりが幾つもあるのですよ。例えば先頭の松明や燈明は火ですね。これは道案内、魔除けの意味があります。龍頭、花籠、四華花など持ち物も順番も厳格に決まっているのです。十六団子などもそうですね」  
 一三は、『十六団子』のところを心持ち強調した言い方をした。
「はあ・・・」  
 貴志も難しい顔になった。
「とりあえず、貴志君のほうから会葬予定者のリストを出すてもらって、それを基に僕のほうで当日までに考えてくるという形がいいかと思います。当日、予定すていなかった重要な会葬者がダミ行列に参加する場合もありますから、その顔ぶれを見て最終的には僕が判断すて決めるという形でいいですかね?」
「はい、分かりました。お願いします。では、早速そのリストなんですが・・・」  
 貴志が、書類の中からリストを探している時に一三が言った。
「親父に聞いたんですが、十六団子や念仏はやられないんですって?」
「はあ、それなんですが、十六団子に関してはやったほうがいいっていう意見が多くて、結局やることにしました。おばあさんたちへの連絡はこれからなんですけど」  
 一三はホッとしたようにうなずいて、
「そうですね。まあ、ダミ送りをやるのに十六団子がないというのも妙なものですからね。あれは、この辺の特に独特な習慣です。民族学的価値といいますか。でぎれば風化すてほすくないものだと僕は思っております。でも、逆の見方をすれば、君たち世代には最も無用で意味のないものと感じるものの一つでしょう。それも分かります。がしかす、死者をそうやって送ってやりたい、それが最善の供養なのだという気持ちが村人の間にある以上、まあ、『郷に入りでは郷に従え』です。僕はそう思います。それに、こういう場合、村人への遠慮、気遣いはむすろ失礼になるんです。この際、甘えればいいんですよ」  
 と言った。
(本当は別の理由があるんですよ、先生)  
 貴志はそう言いたかった。しかし、それを飲み込んで貴志は大きくうなずいた。
「念仏もそういう意味ではそうです。ただ、明日火葬であさってには葬儀ですからね。これだけのタイトなスケジュールだとそういう時間は取れそうもありませんね。皆さんの仕事の関係もありますでしょうすね。殊に今は不景気ですから、慶弔休暇だってそうそう長くはもらえないでしょう?」
「そうなんですよ」  
 貴志は少しホッとした。一三先生に言われると、念仏までやることにさせられそうだったからだ。  
 その時、モンタージュ顔に笑みを浮かべて周平が顔を出した。   

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39『荘道登場』

「あっ、イチゾー先生、こんにちは」
「やあ、周平君、ご苦労さんです。随分と頑張ってるらすいですね」
「いえいえ、どうせ俺も彩も暇ですから」  
 金剛力士像が照れたらこんな顔になるだろうというような顔で頭をかいた周平は、それから貴志に向かって用件を告げた。
「今、寺のクルマが止まりましたよ」
「えっ?」  
 貴志が時計を見ると、予定よりもちょうど1時間早いまだ4時になったばかりだった。
(二所谷さんはまだ戻ってないし・・・どうしよう)  
 貴志はにわかに緊張した面持ちになった。一三も、急に居ずまいを正し座布団を外して猫背の背を伸ばしている。
「取りあえず、麦茶の用意をしてきます」  
 周平は彩のいる台所に引っ込んだ。  
 坊主は自分で運転してきたRV車を下りると、モスグリーンの旅行ケースのようなかばんを持って玄関から入ってきた。
(あっ!)  
 とっさに立ち上がろうとして坊主と目が合ってしまった貴志は、ヘビににらまれたカエルのように動きがとれなくなった。そして中腰のまま固まった。
(いかん!)  
 貴志は思った。
(な、何か言わなきゃ・・・)  
 彼は中腰のまま言葉を探した。
(何て言えばいいんだ?)  
 一瞬の間にさまざまな出迎えの言葉が浮かんでは消えた。貴志は焦った。冷や汗が流れた。坊主もヘビににらまれたカエルのように黙って玄関先に突っ立ったままだ。どっちがヘビでどっちがカエルか分からない状態になった。
(先生、何とか言って!)  
 貴志は、一三にすがるようなまなざしを向けた。  
 場慣れしているはずの一三は、畳の上に深くひれ伏したままジッと動かないで固まっている。  
 非常に気まずい時間が18秒も流れた。
「あっ、住職さん、ご苦労さまです。どうぞお入り下さい!」  
 天使のような声がした。お茶を運んできた彩だった。  
 坊主の理想的なお迎えの解答がそこにあった。  
 中腰で固まっていた貴志は、ようやく金縛りから解放されて動き出すことができた。窒息しそうになりながらひれ伏していた一三も何とか息をつくことができた。坊主もやっと敷居をまたぐことがかなったのだった。  
 坊主は勧められた上座の席に着くと、一三に向かって、
「林峰寺の荘道です。喪主さんですかね?」  
 と言った。  
 一三は手を大きく横に振って、
「いえいえ、とんでもございません。こちらの方が喪主さんです」  
 と、伸び上がりながら貴志を紹介した。  
 貴志はあらたまって、
「あっ、喪主の宮下貴志です。よろしくお願いします」  
 と言ってあいさつした。  
 ここでまた少しの沈黙があった。  
 この時、一三はこんなことを考えていた。
(おかすい。自分が知る林峰寺の住職は秀道という80過ぎの坊主だ。こんな若造ではない。この若造は、まだ20代ではないだろうか。秀道の息子? いや、それにすては年が合わないす、そんなことは聞いたことがない)  
 タタタータータータタタータータ。タタタータータータタタータータ。  
 沈黙を破るかのようにケータイが鳴った。場違いに陽気な電子音は、坊主のモスグリーンのかばんの中で鳴っている。貴志はそのメロディーをどこかで聞いたことがあるような気がした。  
 坊主は、かばんを開けてケータイを取り出した。ショッキングピンクの蛍光色のケータイには、『おしりかじり虫』のストラップが付いていた。
「あい!うん、今から枕経。うんうん、えーっ? 何それ。ダメよ、ダメだってー。ええーっ! うっそでしょ? だから今からマクラなんだって、マークーラ、えっ? だから4時からだって。うん。もう着いちゃってるもん。だーかーらー、今スタンバッてんのお。うん、なーのーでー、5時は無理だって。マジマジ、マジこいて無理だよー。エーン、ぼくちん泣いちゃうよお。うそでしょー。何、だって高合町まででしょ? えっ? 誰もいないったって。あっ、兄貴いるじゃん兄貴。えっ? どうせまたパチンコやってんじゃないの? えっ? マジー? どうしても俺が行くのお? えーっ、きっついなあもう。これ貸しだかんね、貸し。ふあーい。分かったッス。だから分かったって。うん、あーい、あい!」  
 貴志は着メロの音楽が何であるかようやく思い出した。それは紛れもなく若い頃ディズニーランドで聞いた『イッツアスモールワールド』だった。
「林峰寺さん、一つお聞きすたいのですが、秀道和尚はお元気でいらっしゃいますか?」  
 荘道の電話を眉をしかめて聞いていた一三が神妙な顔で尋ねた。
「あっ、別に元気でもないッス。あの方、もう年で。よれっててまともに歩けないんですワ。もう声も出ないもんね、あの方。それより葬儀屋さん、そろそろ始めますか。次入っちゃったんで」  
 と言って立ち上がった。
(葬儀屋さん?)  
 一三の顔色が一瞬にして青ざめ、こめかみがピクピクピクピク動くのが貴志の目にもはっきりと分かった。
「ぼ、ぼ、ぼくは・・・」
「葬儀屋さーん、これすっごいなあ、このどんぶり飯!」  
 枕机の前に座った荘道が叫んだ。  
 自分は葬儀屋ではない、ただそのことだけを伝えたかった一三の言葉は、はかなくも無惨にさえぎられた。      

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40『チーンッ!』

 坊主は手際良く読経の準備を始めている。  
 チーンッ!  
 すべては成り行きだった。成り行きのまま枕経が始まってしまった。  
 この若い坊主のペースに完全に飲まれてしまった貴志は、枕経の開始時間のズレを指摘することもできないまま黙って坊主の後ろに正座するしかなかった。源蔵の激怒する顔が浮かんだがもうどうすることもできない。  
 一三も同様に、無念さと怒りを胸に貴志の脇に座って、この忌み嫌う若造のありがたくもないお経を聞くはめになってしまったのだった。  
 ガシャクショゾーショアクゴーカイユームシトンジンチジューシンクイシショショー・・・。
「あれっ? もう始まったの?」  
 台所で彩と雑談をしていた周平が言った。
「そうみたいね。少し早くない?」  
 茶菓子の用意をしていた彩が不思議そうに言った。
「少しどころか、1時間も早いよ」
「誰も来てないのに?」
「うーん・・・」  
 2人はそっと仏間をのぞいてみた。  
 ヘラヘラと棒読みをする坊主の後ろに、哀れなほど困惑した顔と血管がぶち切れんばかりに激昂した2つの顔が行儀よく並んで座っている。
「ねえねえ、何か変じゃない?」
「うん、すごく変」
「行く?」  
 彩が聞いた。周平は「うん」とうなずいた。彩はエプロンを外し、2人は静かに貴志たちの後ろに座った。しかし、それから1分もしないうちにあっけなく枕経は終わった。
 ・・・ヒジサンキタカイフケンホーザイカイフシンイカイフホーサンボーカイ。  
 チーンッ!  
 坊主はクルリとこちらに向き直ると儀礼的に頭を下げた。反射的に貴志と周平、彩も頭を下げた。しかし、あれだけお辞儀の上手い一三だけはジッと坊主をにらんだまま動かなかった。  
 坊主は何食わぬ顔で立ち上がると、
「明日の出棺は何時でしたっけ?」  
 と、上方斜め45度の方向を見ながら貴志に聞いた。
(さっき言っただろうが!)  
 貴志はそう思いながら感情を殺して答えた。
「1時です」
「あっ、1時ね」  
 坊主はメモを取るわけでもない。
「お逮夜は?」  
 坊主がさらに聞いた。
(だから5時だと言ったじゃないか!)  
 貴志はだんだんイライラしてきたが、それでも平静を装って答えた。
「お逮夜は明日の5時とお伝えしたはずですが」
「5時ね」
(今度はちゃんと覚えておけよな、このなまくら坊主!)
「じゃ、葬儀屋さん、あとお願いしますね」  
 坊主は一三に向かってそう言った。
(葬儀屋? ・・・さん?)  
 周平と彩はびっくりして顔を見合わせ、同時に首をひねった。
「あのう、和尚さん、この方は・・・」  
 慌てて貴志が紹介しようとした、まさにその時だった。
「ぼ、ぼ、ぼくは、ぼくは・・・、葬儀屋ではなーい!」  
 一三が、積年の恨みを晴らすかのように、なで肩をプルプル振るわせて絶叫した。一瞬、かなり気まずい空気が座敷中に流れた。全員の目が一三に注がれた。
「あっそ!」  
 坊主はあっさりとその2音を発すると、モスグリーンのかばんを左手に持ち、右手でケータイの着信メールをチェックしながら平然と帰っていったのである。慌てて後を追った彩は、
「ど、どうも、ありがとうございました」  
 と、玄関先で坊主に言った。
「お、お、お礼など、お礼など・・・、要りませーん!」  
 一三はまた絶叫した。顔面は蒼白で全身が小刻みに震えていた。  
 彩は驚いて一三を見たが、すぐに坊主のほうを振り返ると、坊主はその声を完全に無視して、ケータイを見ながら口笛でも吹くようにフワフワと歩いていた。    

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41『書道具箱』

 この時、彩よりも驚いていたのは貴志と周平だった。彼らは、今までこんな一三を見たことがなかった。小学校時代、彼らはもちろん悪ガキたちでさえ一三に怒られたことがなかった。品のいい優しい先生、それが一三の印象であり、そういう立派な人を本家に持つ彼らの心には幼心にも小さな矜持があったのだ。
「ひどい坊主とは聞いていたけど、ここまでとは思いませんでしたよ」  
 周平が苦々しく言った。
「知ってたの?」  
 貴志が聞いた。
「ええ、林峰寺の住職が年をとってお勤めができないんで、何でも豊辺市内の寺からつい最近養子をとったらしいんですよ。ほら、あそこは娘さんが2人で」
「そう言えば、上の娘は確か同級生だったなあ」  
 貴志が口を挟んだ。
「そうですか。俺は昌子っていう下の娘が同級生です。今は東京に嫁いでます」
「へえ、養子をもらったのかあ」
「ええ、それが随分ひどい坊主だってうわさには聞いてたんですが、実際に見るのは初めてでした」
「そうなんだ」
「檀家総代たちは別として、誰も知らないと思いますよ」
「へえー、じゃあひどい坊主に当たっちゃったってことだね」
「まあ、しかし、大なり小なりどこの寺も同じようなものだってみんな言ってますけどね。お布施のことしか頭にない、なまくら坊主だらけだって」  
 枕飾りの前に座ったままジッと2人の話を聞いていた一三は、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「昔は、お坊さんといえば人品骨柄の優れた方がおなりになるものだったんです。本当に悲すいことですね。あれじゃあ、まるで軽薄粗野を絵に描いたような、実に情けない姿じゃあないですか」  
 一三は誰にともなくそう言うと、下がった肩で小さく息を吐いた。
「あっ、先生、どうぞ、こちらでお茶いかがですか?」  
 貴志が言った。
「どうもすみませんですた。僕らすくもなく取り乱すてすまいますた。今、自分の名前を書いたら、きっとミミズのツイストダンスでしょうね」  
 そう言って少し笑った一三は、よほど喉が渇いていたのだろう、もう冷たくなくなった麦茶を一気に飲み干した。
(よかった。いつもの先生に戻った)  
 貴志と周平は、お互いに顔を見合わせてうなずき合った。
「貴志君、会葬者のリストはありますか?」  
 一三は、書道具箱から半紙を1枚出しながら言った。
「はい、これです。ここに会社関係と親戚のリストがあります」  
 貴志がリストを差し出した。
「では、それぞれどういう関係の方か教えてください」  
 先生の聞き方だった。
「はい、えーと、一番上からですね」
「ええ、この佐倉雄一郎さんは?」  
 一三はそう言って達筆な字で名前を書いた。
「はい、その方は会社の社長です」
「会社と言いますと?」
「はい、私の会社です」
「社名は?」
「あっ、シンセイ電子部品です」
「ああ、そうですたね。貴志君は新星電子部品に入ったんですた。あそこは立派な会社ですよね。県内でもトップ企業です。君もさぞ出世されたことでしょうねえ」
「一応総務部長ですが、特段、出世というわけでも・・・」  
 貴志は頭をかいた。それは謙遜ではなく、事実、貴志は同期の中ではむしろうだつの上がらないほうで、出世コースからも大きく外れていた。
「へええ、そうですか。総務部長といえば立派なものです。エリートですよ。栴檀は双葉より芳す、とはこのことですね。いやあ、そうですか、そうですか。ええと、それで字はどう書くんですたかね。確か新すい星ですたよね」
「ああ、そうですう、というか、以前はそうだったんですが、3年前にCIやった時に、というか、まあいろいろあって字が変わりまして」
「どういう字を書きますか?」
「ええと、カタカナです。カタカナでシンセイです。あと電子部品は漢字です」
「シンセ、イですか、セーと伸びますか?」
「あっ、イです。伸びません」
「後株? 前株?」
「えっ? ああ、シンセイ電子部品株式会社ですから、後株ですね」  
 一三は会社名を書き入れた。
「何とか営業所とか支店とかは付きますか?」
「いえいえ、何も。本社です。はい」
「社長というのは、正式な肩書きは?」
「あっ、代表取締役う、だったかな?」  
 一三は、昔の先生の目になってキッと貴志を見た。
「肩書きは間違えると大変なんですよね。特に会社の代表者の場合は最も厄介なんです。単純に社長というのもあれば、代表取締役社長というのもあります。はたまた、社長が取れて代表取締役というのもあるんです。それだけではありません。専務取締役社長というものまであって実にややこすいんです。何でも最近ではスイアイオーだか、スイスイオーなんていう英語の肩書きまであるようですね」
(ああ、CEOのことだな)  
 貴志は思った。はて? うちの社長の肩書きは・・・。貴志は、会社の組織図を思い出してみた。総務部長の貴志にとってそれは容易な作業だったが、代表取締役であることは確かでも、正式な名刺の肩書きに社長と付いていたかどうかまでは定かでなかった。
(だが・・・先生には悪いが、そんなことはどうでもいいことではないのか? 結婚式の席次表ならいざ知らず、この場合、ダミ行列での持ち手を誰にするかというのが目的なんだから)  
 貴志は素朴な疑問に立ち返った。しかし、一三にその疑問を投げ掛けることはとても勇気の要ることだった。また、さっきのような発作が起こらないとも限らない。
(この際、長めにしとけ)
「代表取締役社長です」
「はい、ダイヒョウトリシマリヤクシャチョウ」  
 一三は、スラスラと肩書きを書き入れた。  
 こんなふうにして、美樹の会社関係者以外の23人分の名前と肩書き、もしくは貴志との関係を書き終えた時には、もう5時10分前になっていた。
「これは、結構かかるかもすれませんね。とても難すい人員構成になっておりますから。恐らく徹夜になるでしょう。美樹さんの分はあとで電話で教えてください」  
 最後に一三は、難しい顔でそう言って書道具箱に道具一式をしまうと、
「それでは、ぼくはこれで」  
 と、難しい顔のまま帰っていった。
(疲れた・・・)  
 一三を見送った貴志は、激しい虚脱感と疲労感を感じて畳に横になった。頭の芯がキリキリ痛かった。貴志は目を閉じた。
(このまま1時間、いや30分でいい。こうしていたい!)  
 しかし、貴志にとってこの日のストレスのクライマックスはまさにここから始まったのである。間もなく現れたスイッチョン源蔵は、案の定血管がぶち切れんばかりに貴志を罵倒したし、二所谷もあきれた喪主だと言わんばかりに冷徹な目を貴志に向けた。買い物から帰った美樹までもが、
「あんた、何やってんの?」  
 と、理由も聞かずに言い放った。それだけではなかった。枕経に立ち会うために来た親戚たちは坊主がいないことに腹を立てたり、訝しんだりした。貴志はその度に説明をしたり謝らなければならなかった。貴志は坊主への恨みを募らせたが、同時に自分のふがいなさを責めた。
(俺は・・・喪主なんかできない。俺にはそんな力なんかないんだ)  
 貴志は自暴自棄になりそうだった。そんな時、貴志はいつもどこかでほほ笑んでいる顔に出会った。そして元気をもらった。それは、何とも言えない優しさをたたえた金剛力士のモンタージュ顔と、その妻の屈託のない笑顔だった。  

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42『あのことさえなければ』

 ピッピッピッ・・・。  
 サイドボードの上にあるデジタル時計が6時を知らせていた。いつもなら、貴志はデスクの書類を片付け帰り支度を始める時間だ。
(あのことさえなければ・・・)  
 貴志はデジタル時計を見やった。  
 ブルルルルルルルルルルル・・・。  
 今度は美樹のケータイが鳴った。美樹は、それが会社からのものであることを知ると、ケータイをにらみ付けながら電話に出た。
「はい」
「あっ、サブデスク。長谷部です。ジンです」
「何」
「すいません。慶弔だってことは分かってるんですけど・・・」
「何」
「見出しがどうしても決まらなくて・・・」  
 恐縮しながら長谷部は用件を伝えていた。電話越しに彼の背後で電話が鳴っている。聞き慣れた部下たちの騒々しい声がしている。長谷部の話を聞きながら、美樹はいつもの編集局の雑然とした仕事部屋を思い出した。
「そういうわけで、サブデスクのお知恵をお借りしたいんです!」
( あのことさえなければ・・・)  
 頭の半分でいまいましくそう思いながら、美樹は長谷部にこう告げた。
「高合総合病院存続の危機。サブは『地域医療に暗雲』」
「おっ! いいっすね。さすがサブデスク。それでいきます、ありがとうございました!」
「ジン!」
「はい?」
「このくらい自分で考えろ」  
 ケータイを切った美樹は、白いソファーに体を投げ出してこめかみを押さえた。  
 冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら貴志が言った。
「団子の人たちに電話しなきゃ。そろそろ寝ちゃうかもしれない」
「・・・」  
 美樹は黙ったまま目を閉じた。
「それにしても、今日は疲れたな」  
 貴志は機嫌を取るように笑顔を作って美樹の傍に歩み寄ると、小さなグラスに注いだビールを差し出した。
「はい、ビール」  
 美樹は目を開けて上半身を起こした。
「サンキュ」  
 美樹はビールを右手に持って少し上に掲げると、それを一気に飲み干した。
「誰? 人形のスミと本家のマチ。それだけでいいの?」  
 電話帳を広げながら美樹が言った。
「ああ、それに畑野の・・・誰だっけ。あっ、のり子さんも来てもらおうか?」
「誰、それ」
「ああ、スミさんたちよりはいくらか若いばあさんだよ」
「どの家?」
「これこれ」
 貴志は電話帳にボールペンで印を付けた。  

 (2011.05.05)   △このページのトップへ

43『ジャム』

 美樹は立ち上がって冷蔵庫を開けると、缶ビールとチーズを取り出した。
「ねえ、ご飯どうする?」  
 美樹が缶ビールのプルタブを開けながら言った。貴志はその問いには答えずに、
「じゃ、これ、お願いできるかな」  
 と言って、美樹に電話帳を差し出した。  
 美樹はそれを受け取りながらまた聞いた。
「ご飯どうする?」  
 美樹はチーズを一切れ口にほお張ると、缶に直接口を付けてグビグビグビッと勢いよくビールを飲んだ。
「ああ、ご飯かあ・・・」  
 貴志が少し面倒くさそうにつぶやいた。  
 バチッ、バチッ、バチッ、バチッ・・・。  
 その時、大粒の雨がトタン屋根をうがつように叩いた。続いて稲光が走った。すぐさま雨音は単音からザーッという複層的な音に変わり、あっという間に会話が聞き取れないほどの大騒音になった。加えてはらわたを振るわすような雷鳴が断続的にそれに重なった。
「カップ麺か何か、適当に食べればいいか、今日のところは」  
 貴志がやかましそうな顔で天井を見やりながら言った。
「・・・」  
 美樹の反応がないので貴志は声のボリュームを上げた。
「あのさ、カップ麺あったよね」
「・・・」
「これ、カップ、カップ麺」  
 貴志は、放心したような表情で何も反応しない美樹に向かって、カップ麺を食べるまねをした。  
 雨と雷鳴は激しさを増し、カーテンのすき間から見える窓ガラスには雨が滝のように流れている。稲光によって滝は時折鮮やかにライトアップされた。
「ご飯・・・」  
 血の気の失せた顔で美樹がボソリ言った。
「えっ?」  
 貴志は、片手で耳にメガホンを作った。
「ご飯・・・」
「だから、カップ・・・」  
 ラーメンを食べる手付きで貴志が繰り返す。
「あんたじゃない!」
「えっ?」  
 貴志が首をひねりながらラーメンのはしを動かす。
「あんたじゃない!」
「・・・」  
 貴志はカップの中を指さす。
「そうじゃない!」
「・・・」
「ジャム・・・」
「えっ?」
「ジャム何も食べてない!」  
 美樹は目をつり上げて絶叫した。  
 雷が鳴り止んだように感じられるほどの大声だった。  
 貴志はラーメンを食べるポーズのまま、引きつった美樹の顔をぼう然と見詰めた。  
 ジャムは、マンションに移ってからも子宝に恵まれなかった2人が、貴志の40歳の誕生日に買い求めたメスのシャム猫だった。飼い猫の寿命は10歳から15歳程度といわれているが、ジャムは18歳、人間にすれば100歳を超えていた。
「あっ、そういえば・・・」  
 貴志はようやく美樹の言っている意味が飲み込めた。確かにジャムは、昨日貴志たちがマンションを出てきて以来放ったらかしのままだった。
「1日ぐらい、何とかなるんじゃない?」  
 貴志は意識的に落ち着いた口調で言ったが、美樹には逆効果だった。
「1日ぐらいって何?」  
 貴志は「やばい、やばい」と思った。  
 1日ぐらいと聞いて、昨日キャットフードを買い忘れたことまで思い出した美樹が言った。
「もう丸2日も食べてないのよ!」  
 美樹の顔が醜くゆがんだ。
「行ってくるわ!」  
 美樹が立ち上がった。
「えっ? 今から?」
「うん」
「だってこの雨だよ。それにお前、今ビール飲んじゃったじゃないか」
「あんた運転して!」
「俺も飲んじゃったよ」  
 貴志は、手に持ったビールの缶を見やりながら言った。
「とにかく、もう少ししてからにしようよ。そうすれば雨も止むかもしれないし、酔いだって覚めるからさ」  
 2人が飲んだビールは少量だったが、どちらもアルコールは強いほうではなく、ことに貴志はレギュラーサイズの缶ビール1本でも顔が真っ赤になってしまうほど弱かった。   
 美樹は落ち着きなくキッチンに行くと、コーヒーメーカーに濃いめのコーヒーをセットした。   

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44『野々村夫婦』

 雨は激しさを増していた。コーヒーが沸くまで気まずい時間が流れた。  
 その時、沈黙を破って1本の電話がかかってきた。源蔵だった。
「チッ、明日の準備はどうなった? あん?」  
 雨音に負けないほどのキンキンした甲高い声だった。貴志は神経がキリキリと逆なでされるのを感じながら、
「ええ、大体・・・何とか・・・はい」  
 と答えた。
「チッ、傘は何本? 50本あったのが? あん?」
「いや、そんなには、たぶん・・・」
「チッ、手伝い人は? ばあさん連中さは頼んだのが? あん?」
「いえ、いや、はい、今から電話して・・・」
「チッ、チッ、火葬場の受付は頼んだのが? あん?」
「はい、いえ、明日です。ええ、はい、あのう、モンタージュに、あっ、いや、星野の周平君にお願いします、はい」
「チッ、チッ、チッ、駐車場は頼んだのが? あん?」
「ああ、それもありましたね。それも明日、はい」
「チッ、チッ、チッ、チッ、よう、おめえ。俺が言ったごど、何もやってねえじゃねえが!」  
 源蔵は酔っているようだった。ただでさえしつこい源蔵だったが、酔うとより一層ネチネチ絡む癖がある。貴志は、かれこれ30分も源蔵の小言に付き合わされた。
(頼むから、もうあんたやってくれよ、頼むから)  
 貴志は、そう叫びたい衝動に何度も駆られた。貴志の電話にキャッチが入らなければ、源蔵は何時間でも電話を切らなかっただろう。源蔵は、最後にチッ、チッ、チッを8回繰り返して、
「とにかぐ、抜がりがあったら承知せんぞ!」  
 と言って乱暴に電話を切った。
 キャッチホンの相手は野々村やえだった。  
 やえは、貴志にとっては叔母に当たる人物だったが、年は貴志と同い年で中学までは同級生だった。かなめの夫梅松の父親は、4人、4人、3人と、それぞれ腹の違う子を合計11人作ったが、最初の4兄弟は末っ子の梅松を残して、戦争や井戸に落ちたりして皆20代で死んだ。梅松も56で病死するわけだから全員短命だったと言っていい。  
 次の4兄弟は、例の71歳の斎田道秋を筆頭に全員やかましいほどピンシャンしている。  
 最後の3兄弟は、前の兄弟たちとは随分年が離れていて、11人の異母兄弟の中で唯一の女だった末っ子の野々村やえは、まだ56だった。  
 やえは高校を出てすぐの時に、愛宕村からクルマで1時間ほどのところにある上名倉町の農家に嫁いだ。夫の昭介は農家の跡取りだったが、よく言えば進取の気性、悪く言えばむらっ気があって飽きっぽく、家業の農業を放り出していろいろな新しい商売に手を出した。  
 プロパンガス事業、中古農機具買い取り販売事業に始まり、(怪しい)カニの行商事業や(これまた怪しい)高級物干しの行商事業を経て、最近ではリサイクル家電の無料(本当は有料)回収事業などを行っていたが、これらは「事業」というよりも「いかさま」に近く、世間の評判は極めて悪いものだった。  
 この愛宕村でも、かつてタメという95になるばあさんが、昭介に6万円もする物干しをつかまされたことがある。愛宕村では知らない人がいない『タメばあ物干し事件』である。   

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45『タメばあ物干し事件〜その1』

 独り暮らしだったタメは、以前から物干し台のことが気になっていた。飼い犬が年中おしっこを引っ掛けるため、地面近くの鉄パイプがさびて今にも折れそうだったからである。そんな時、小林旭の歌をバックに、拡声器からこんなアナウンスが流れてきた。
「えー、独り暮らしのおばあちゃん、おじいちゃん。物干しざお、物干し台はさびていませんかあ? 只今、物干しの無料修理、無料点検、無料サービスを行っておりまーす。ご利用ございましたら、この機会にお気軽にお手を挙げてお知らせ下さーい」  
 タメは、渡りに船とばかりに家から飛び出すと、昭介の運転するトラックに手を挙げた。昭介の顔はかなり特徴的だった。離れ目に分厚いレンズの眼鏡をかけ、大きなだんご鼻の下にはへの字の受け口。おまけに、猪首でムッチリした体型をしている。その風貌はどことなくボラを連想させた。
「おばあちゃん、こんにちは、どうしました?」  
 昭介は、ボラ顔の笑顔で優しく声を掛けた。
「ああ、ちょっと見てくんねえか? 犬がしょんべんするもんでさ。さびちまったのよ。根っこのとこがさあ」  
 タメは、物干しがある方向を指さしながらそう訴えた。
「それは困りましたね。いいですよ、ちょっと見てみましょう。あっ、おばあちゃん、私はこういう者です。決して怪しい者ではありませんからご安心下さい」  
 昭介は、いんぎんに自分の名刺を差し出した。
「はあー、これはこれは、どんもどんも」  
 生まれて初めて名刺をもらったタメは、この段階で何だか分からないが少しあがってしまったようだった。
「これは危ないですね。もし、これが折れて倒れてきたら大変なことになりますよ」  
 飼い犬に吠えられながら、物干しに近付いていった昭介が言った。
「これっ! ガブッ!」  
 いかにも噛み付きそうな名前の飼い犬を黙らせてから、タメは昭介に向かって、
「ああ、おらもそう思ってよお」  
 と、少ししなを作りながら言った。
「分かりました。おばあちゃん、もう大丈夫ですよ。私にお任せ下さい」  
 昭介は、タメの肩に優しく手を添えて言った。  
 それからものの30分も経たないうちに、タメの物干しは新品の立派なものに替わっていた。自分のマーキングの長年の結晶があっけなく取り払われてしまったガブは、いかにも無念そうにクーンクーンと泣いたが、やがてあきらめて犬小屋で丸くなった。(続く)  

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46『タメばあ物干し事件〜その2』

 そんなことがあった4日後に、『愛宕村未亡人倶楽部』のお茶飲みがあった。その時に、このことが話題になった。
「タメ、おめえんとこの物干し立派になったっけなあ」  
 タメの隣に住む八枝子が言った。
「ああ、この前買ったんだ。犬のしょんべんでさびちまってさ」
「この前来てだあの行商がら買ったのが?」
「ああ」
「いってえ、なんぼしたんだ?」
「6万円だ」  
 タメが言った。
「はあ?」  
 居合わせた未亡人倶楽部のメンバーは、一瞬耳を疑った。
「なんぼだって?」  
 スミが言った。
「うん、6万円に消費税3000円のどごを、まげでもらって6万円ちょうど」  
 当時会長だったかなめは、じっと話を聞いていたが、突然、
「ははっ、タメ、おめえ、だまされだな」  
 と、さも愉快そうに笑った。しかし、かなめはすぐに真剣な顔になって、
「年寄り、それも未亡人をだますどは不届き至極な野郎だ。こっぴどぐやっつけでやらねばなんねえ!」  
 とも言った。  
 タメの話題はその後本題から大きく外れて、未亡人のタメがなぜそんな大金を持っていたのか、また、どういう方法でそのへそくりを貯め込んだのか、はたまた、95にもなるタメが、その物干し男になぜ一目惚れしてしまったのか、タメはまだ女だったのだろうか、などなどさまざまな方向に脱線していった。  
 挙げ句の果ては、顔を紅潮させながら「あいい、おらも一目でいいがらその物干し男の顔を拝みてえもんだ」などと、不謹慎なことを言う者まで現れる始末だった。  
 女性が政治よりもゴシップのほうが好きなのは昔も今も変わらない。未亡人倶楽部はことさらそういう傾向が強かった。   

 (2011.05.07)   △このページのトップへ

47『タメばあ物干し事件〜その3』

 1ヶ月後、そんな未亡人倶楽部の好奇心を満たす絶好の機会が訪れた。ボラ顔の昭介がまたやってきたのである。  
 未亡人倶楽部の情報網はCIA並みに素早く、そして正確だった。最初に拡声器の声を耳にしたのは、裏の畑で雑草取りをしていた富岡歌子だった。歌子は草刈りがまを放り投げんばかりの勢いで、まず会長のかなめの家に走った。かなめは不在だったが、かなめの日常を熟知している歌子は作之進の家に飛び込んだ。案の定、かなめはマチとお茶飲みをしていた。歌子は、息を切らしながら値千金の情報をかなめに伝えた。
「歌子、よぐやった!」  
 かなめは、この有能な諜報部員をほめたたえた。歌子は得意満面の笑みを浮かべた。
「どうれ、とくと、男のつら拝んでやるべ」  
 かなめは、笑いながらも狡猾な目を光らせた。マチは、
「あいい、おもしれえなあ。おらも行ってもいいかい?」  
 と、子どものようにはしゃいだ。かなめは慎重な面持ちになって、
「いいが、人形の家さ全員集合だ。スミんどごの物干し、いい加減腐ってるがらな。スミに『おどり』になってもらうべ。おらだぢは分がらんねように、そっと家の中さ隠れで見でるんだ。分がったな」  
 と、歌子にテキパキと指示を与えると、自分も出掛ける支度を始めた。
「おら、もうひとっ走りしてみんなさ触れ回ってくらあ!」  
 歌子は、そう言って水を得た魚のように飛び出していった。  
 マチは目をキラキラさせながら、
「あいい、おもしれえ、おもしれえ!」  
 と言って前掛けを外し、かなめの後をのったりのったりと付いていった。何も知らない昭介ののんきな声が、はるか遠く拡声器から流れていた。  
 それから10分後、人形の家の人形の間は、未亡人倶楽部のメンバーはもちろん、それを聞きつけた婦人会のメンバーも含め、総勢30数名のやじ馬たちでごったがえしていた。70歳以上の村のばあさんが全員集まっていたと言っていい。
「おい、スミ、上手ぐやれよ!」
「買う振りして、しばらぐねばれよ!」
「男のつら、こっつがらも見えるようにな!」  
 やじ馬たちは、めいめい勝手な要求をスミに出しては、ワイワイとはやしたてた。スミは、おとり役を任命されたことがまんざらでもない様子で、
「おらも昔は、愛宕村の田中絹代って言われだもんよ」とか、
「あんまりいい男で、オラまで買わされだら何とすべ」などと軽口をたたいていた。  
 そうこうする間に、スピーカーの声は間近になってきた。
「えー、独り暮らしのおばあちゃん、おじいちゃん。物干しざお、物干し台はさびていませんかあ?」  
 かなめはスミに目で合図を送った。スミは「うん」とうなずいて、ゆっくりと外へ出ていった。やじ馬たちは、かたずをのんでそれを見守っっている。
「・・・物干しざお、物干し台はさびていませんかあ? 只今・・・」  
 スミが家の前の大きい通りに出た時、ちょうど昭介のクルマがその前を横切った。スミは曲がった腰を思いっきり伸ばして、ザリガニのような格好で手を挙げた。  
 その様子を見ていたやじ馬たちの何人かは、その格好がおかしくて吹き出してしまったが、かなめににらまれて黙った。  
 全員がシーンと息を殺して次の展開を待った。スミも、ザリガニのポーズを取り続けたままだ。
「物干しの無料修理、無料点検、無料サービスを行っておりまーす。ご利用ございましたら・・・」
(ありゃっ?)  
 昭介のクルマは止まる様子もなく行き過ぎてしまった。  
 やじ馬たちの間に動揺が走り、人形の間は一時騒然となった。それにも増して焦ったのは、誰あろう自称大女優のスミだった。スミはザリガニの格好のまま、
「おーい、おーい!」  
 と手を振った。クルマはどんどん遠ざかっていく。
「待でえ、こらあ!」  
 スミはそう叫びながらガニ股で駆け出した。  
 クルマは全く気付かない。
「こらあ! はあ、こんちくしょう! 待でえ、はあはあ」  
 息を切らしながらスミは走った。  
 人形の間の観衆はジッとその様子を見ている。
「はあ、はあ、おーい、物干し野郎!」  
 怒号にも近い言葉を発しながらスミは懸命に走った。  
 クルマはどんどん小さくなっていく。
「おーい、はあはあ、こごだ、こごだー!」  
 スミの姿も小さくなっていく。
「待でえ、こんちくしょう! ぜえぜえぜえ・・・」  
 スミの懸命の叫びは、小林旭の歌声にはかなくかき消された。
「はあはあ、ぜえぜえ・・・だ、だ、だがら、さびでる、はあはあはあ、さびでるんだよお。ぜえぜえぜえ。待でえ、こらあ。このバガタレッ! げほっ、げほっ、げほっ・・・」  
 その様子は、人形の間にいる30余人のやじ馬たちからも丸見えだった。  
 自分もクルマを追い掛けようとして飛び出しそうになる者、スミが転んでけがをしないか心配する者もいた。しかし、その大半は腰が抜けるほど笑っていた。笑い過ぎてひっくり返り、飾ってあった無数の人形を壊してしまう者が続出した。  

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48『タメばあ物干し事件〜その4』

 スミは結局、200メートル走って事絶えた。  
 精根尽き果てたザリガニは、ガックリと肩を落として、やむなくきびすを返すしかなかった。  
 やじ馬たちは、おかしさと落胆の入り交じった複雑な表情でスミを出迎えた。
「しゃあねえ、しゃあねえ。スミ、そう落ち込むな」
「ああ、おめえ、よぐ頑張ったよ。てえしたもんだ」
「んだ、んだ。おめえ、あんまりちっちゃくて見えねがったんだべよ」  
 玄関に出てきたやじ馬たちは、笑いを押し殺した顔でめいめいにスミをねぎらった。スミは、黙ったまま人形の間に入っていくと、
「わっ!」  
 と大きな声で叫んだ。
「だ、誰だ! おらの人形ぶっ壊した奴は!」  
 その怒声を聞いて、皆が退散の支度を始めた時だった。
「えー、独り暮らしのおばあちゃん、おじいちゃん・・・」  
 昭介のクルマが戻ってきたのである。
「スミ! 来たど、まだ来たど」  
 誰かが焚き付けるように言った。  
 スミは、壊されて首の取れかかった人形を両手に握りしめて部屋を出てくると、裸足のまま一気に表へ駆け出した。その形相は、何かを思い詰めたような鬼気迫るものがあった。やじ馬たちは一瞬あっけにとられたが、また引き返して人形の間に隠れた。
「只今、物干しの無料修理、無料点検、無料サービスを行っておりまーす。ご利用ございましたら・・・ん?」  
 昭介のアナウンスが止まった。
「ご利用ござい・・・ん?」
「お気軽に・・・ん?」
「お気、お気・・・」
「わっ!」  
 マイクを持つ昭介の目に飛び込んできたのは、道路の真ん中に仁王立ちになって、ギッとこっちをにらみ据えている老婆の姿だった。老婆は首の取れかかった不気味な人形を両手に掲げ裸足で立っている。不動の勢いで立っているという意味では確かに仁王立ちだが、腰が曲がっているので、それは『ザリガニ立ち』といった様相だった。  
 いずれにしても昭介は驚いた。マイクを落とすほどびっくりした。そして「ははあ、これはきっと気がふれたババアだな」と思った。昭介はスピーカーのボリュームを下げて、ゆっくり刺激しないように近付いていった。  
 老婆まで3メートルくらいの所に来ても老婆は微動だにしない。そこで、昭介はクルマを止めて窓を開け、ボラ顔の猪首を突き出して怒鳴った。
「おりゃあ、どかんかい! ひき殺してさらすぞ!」  
 その声は、人形の間にいるやじ馬たちにも届くほど大きく響いた。
「おい!」  
 スミが言った。  
 昭介が怒鳴った。
「ひき殺されてもええんか、このババア!」  
 昭介は、さらにドスを利かせた大声で叫んだが、スミは全く動じない。
「おい! 物干し野郎!」
「はあ?」
「物干しさびでんだよ!」
「えっ?」
「おらの物干しさびでんだよ!」
「はい? 物干し・・・ですか?」  
 ようやく老婆の言っている意味が分かった昭介は、一転作り笑いを浮かべて、
「ああ、そうでしたか。物干しですか。それならそうともっとお気軽にお声を掛けてくだされば、ねえ。ちょっとお気軽じゃあ、なかったものですからねえ。ははっ、勘違いしましたよ。ええ、ええ、で、どちらですか? ああ、そっちですね。はいはい、じゃあ早速、今クルマ回しますからね。なあんだ」  
 と言った。  
 スミは、クルマを先導して家に戻った。
「スミ、でがしたど」  
 人形の間のやじ馬たちは、押し殺した声でスミの成功をたたえた。そして、ここからが本番とばかりに段取りよろしく障子を閉めると、あらかじめ自分の指で開けておいた、文字通り『指定席』ともいうべきマイホールの前にスタンバイし、各人そこからギラギラした目をのぞかせた。障子の穴は全部で30以上もあり、そのすべての穴に老婆の目が張り付いている。
「あっ、おばあちゃん。私はこういう者です。決して怪しい者ではありませんからご安心下さい」  
 クルマから下りてきた昭介は、タメの時と全く同じセリフと仕草で、やはりいんぎんに自分の名刺を差し出した。
(ははあ、タメはこれでやられたな。だが、おらはだまされんぞ)  
 スミは、名刺をもらいながらそう思った。  

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49『タメばあ物干し事件〜その5』

 人形の間では、昭介が姿を現したことで、ちょっとした物議が沸き起こっていた。
「タメばあ、あいづが?」  
 誰かが小声で聞いた。タメは最も下の穴からのぞき見ていたが、
「ああ、あいづだ、あいづだ」  
 と言って大きくうなずいた。
「プッ! 何だあのつら」
「ああ、ボラみてえだなや」
「ボ、ボラって魚のボラかい?」
「ああ、おら好かねえ。泥臭くってやんだ」
「あいい、ひでえごど。あれ見ろ。いってえどごさ首あんだ?」
「はで? ほんとに首ねえな。おら、あんだげの猪首見だごどねえぞ」
「イノシシよりも短けえな」
「ああ、猪首っちゅったらイノシシさ悪いわなあ」
「それにほれ、ヒデ子のデブ息子よりもデブだど」
「あいい、ほんとにデブだ、デブ。ひでえデブだ」
「いやあや、ケヅメドさズボン食い込んでるっちゃ、あれ」
「ありゃあ、ボラのつらしたイノブダだわ」
「クックックック、ちげえねえ、ちげえねえ。おめえ、うめえこと言った」
「何だべ、足も短けえなあ」
「短足のボラブダだで、ありゃあ」
「ひでえもんだなあ。あんな男、おら見だごどねえ」
「タメばあ、おめえ、やっぱり少しボゲだんでねえが?」  
 口さがないやじ馬たちの品評会は続いていた。そして、障子に開けられた小さな穴は、時間の経過とともに少しずつ大きくなっていった。中には顔がほとんど露出するほど巨大な穴になってしまった者もいた。  

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50『タメばあ物干し事件〜その6』

 表では昭介が、首を傾げたり、しゃがんだりしながら、物干しを丹念に点検する様子を見せていた。
「おばあちゃん、これはもうダメですね。ほらっ、もうすっかりさびて危ない状態ですよ。ここんとこ、分かります? ねえ、ほら」  
 昭介は、パイプのさびた部分をコンコンと叩きながら言った。
「タマヨっちゅう同級生がおってよお。おらがちっちゃい頃の話だ」  
 突然、スミがそう言った。
「・・・」
「タマヨはデベソだったんだよ」
「・・・」
「タマヨはデベソだったんだ」
「はあ?」  
 昭介は、やっぱりこのババアはいかれてると思った。そして、困ったことになったとも思ったが、「いや待てよ、いかれていようが何であろうが金さえ持っていれば何のことはない。むしろそっちのほうがかえってだましやすい」とも思った。彼はいかれた老婆の話に少し付き合うことにした。
「タマヨはデベソだったんだが、それはおらが見たわけではねえんだ」
「へええ、じゃあ、おばあちゃんはどうして分かったんですか?」
「何だと?」
「いやあ、見たわけでもないのに、どうして、そのタマヨさんですか? その方のおへそがデベソだって分かったのかと思いましてね。見てないのにデベソって分かるなんてすごいなあと・・・」  
 このへんてこりんなやり取りが、人形の間のやじ馬たちにまた新たな物議を巻き起こした。やじ馬の中にタマヨがいたからである。
「おい、タマヨ、おめえデベソだったのが?」
「どれ、見せでみろ!」
「あいい、やめろ、やめろ!」  
 上から下から、たくさんの手がタマヨのシャツやモンペに掛かり、タマヨは身をよじった。
「シッ、静がにしろ!」  
 さっきから真剣に状況を見詰めているかなめが、厳しい口調で言った。  
 表ではスミが、これまた真剣な顔で昭介に言った。
「タマヨは自分で言ったのよ」
「えっ? デベソだってですか?」
「いいや、逆だ。おらはデベソでねえっつったんだ」
「デベソでないって?」
「ああ、こっちが聞きもしねえうちからそう言ったんだよ」
「何だかちょっと、さっぱり分からないんですが。まあ、いいや。ところでおばあちゃん、あのパイプですが、ちょっともうダメみたいですよ。新しいのに替えましょうね。折れたら危ないですもんね。設置工事費一切無料ですし、30年の品質保証もありますからね。うちの物干しは本当に長持ちするんです」  
 昭介は、話にらちが明かないと見て素早く商談のペースに切り替えた。
「おめえ、怪しいな!」  
 スミは、昭介の顔をキッとにらんで言った。
「えっ?」
「おめえ、さっき、おらが聞きもしねえのに『自分は決して怪しいもんではねえ』って言ったべ。それがいい証拠よ。怪しいもんほど、自分から怪しいもんじゃねえって言うもんだで」
「・・・」  
 昭介はドキッとした。自分が怪しい者であることを言い当てられたからでもあるが、いかれたババアと思っていたこの老婆が、いたってまともだったことにもっと驚いた。
「タマヨはデベソだがら、自分からデベソでねえっつった。おめえは怪しいがら、自分がら怪しぐねえっつったんだ」
「・・・」
「おめえ、怪しいな!」  
 スミは、確信を込めてまた言った。昭介は、狼狽しながらも、何とか不利な態勢を切り抜けようと小賢しい頭をフル回転させた。
「だ、だ、だって、おばあちゃん。あれですよ、あれ。私は決して怪しいもんじゃありませんってのはね、何て言うかな、名刺を渡すときのあいさつみたいなもんですよ。そういうこと言われたらねえ。まいっちゃうなあ、もう」  
 昭介は精一杯ボラ顔の笑顔を作った。
「おめえ、何て名前だ?」  
 ジーッと昭介の名刺を見ていたスミが言った。
「えっ? そこに書いてあるでしょう。渡邊誠一って」
「嘘だな、本名何つうんだ!」
「まいったなあ、おばあちゃん。正真正銘の本名ですよ。誠実が一番ってね。親父が付けてくれたんですよ。私は今まで、その名に恥じないように生きてきたつもりで・・・」
「住所、言ってみろ!」
「えっ? だからそこに書いてあるでしょう」
「いいがら、言ってみろ!」  
 そう詰め寄られた昭介は、元来の短気で粗野な性格に火がついた。昭介の顔から笑顔が消えた。
「渡邊物干製造小売合資会社、東京都千代田区西新宿三丁目。これでいいか、ばあちゃん!」  
 昭介は投げやりに言った。
「その次は・・・」
「えっ? 次って?」
「三丁目の次だ。番地まで言ってみろ!」
「うるせえな、このババア。俺をおちょくってるのか?」
「言えねえんだな」
「自分の住所言えねえやつがどこにいるってんだ。ああ、もう話にならねえ。そもそも、あんた物干し買う気あんのかよ。ねえなら帰るぜ、ばかばかしい」
「おめえ、やっぱり怪しいな」  
 スミは不敵な笑みを浮かべた。
「るっせえんだよ、ババア!」  
 昭介は、動揺を隠すように、スミの手から乱暴に名刺を奪い取ると、ギッとやぶにらみしてクルマに乗り込もうとした。スミがその背中に向かって言った。
「おらの娘が西新宿におってなあ。いっつも手紙くるんだが、あそごは千代田区ではねえど。新宿区だど。こりゃまた残念さんでござんしたなあ。このいかさま野郎!」  
 人形の間のやじ馬たちは、この様子を胸のすく思いで見ていた。
「スミ、でかしたぞ!」
「おう、さすがは田中絹代だ。てえしたもんだ」
「そろそろでねえが? なあ、かなめ」  
 かなめは、このプロジェクトを立ち上げるに当たって、やじ馬メンバーに幾つかの指令を出していたが、そのクライマックスを飾るのは、物干し野郎が退散する時に全員で一斉に表に飛び出し、罵声を浴びせながら石を投げつけるというものだった。
「かなめ! イノブタ行っちまうぞ!」
「・・・」  
 かなめは無言だった。そういえば、昭介が顔を見せてからかなめは終始無言を貫いている。
「なじょした、かなめ。あいい、早ぐ早ぐ!」
「ダメだ、たまんねえ、おら行ぐど!」  
 指揮系統を欠いた人形の間のやじ馬たちは、激しく動揺しパニックに陥った。
「早ぐ障子開げろ!」  
 誰かが言って、前の老婆を押した。
「あいい、押すな、押すなって。障子破れるってば!」
「いいがら、早ぐ開げろ!」
「いでえ、いでえ、髪引っ張るな。このくそババア!」
「うるせえ! こんちくしょう! いいがらどげろ!」
「あいいー!」
「ありゃー!」
「ひいいー!」  
 バッターン!  
 激しい音とともに、メンバー全員の体重を載せて障子が倒れた。老婆たちは全員将棋倒しになって縁側の上に転がった。
(わっ! な、な、何だ、何だ?)  
 その光景は、クルマを出そうとした昭介のバックミラーに映し出された。彼はただならぬ気配を感じ、慌ててクルマを出そうとしたが、間違ってトップギアに入れてしまったためクルマがエンストした。心を落ち着けてギアをローに入れ再びミラーをのぞくと、驚いたことに今度は老婆の山がばらけ、めいめいが裸足のままクルマに向かって走ってくるのが見えた。石を拾い上げている者もいる。昭介は焦った。焦って思い切りアクセルをふかした。
「このボラブダ野郎!」
「やい! デブ、デブ。このイカサマデブ! あっちゃ行げえ!」
「二度と来んな! このボラ野郎!」  
 石が荷台の物干しに命中し、カーンと音をたてた。昭介は、あまりの驚きと恐ろしさに捨ぜりふも吐けないまま退散した。  
 勝利を勝ち取った老婆たちの雄叫びは村中に響き渡った。  
 しかし、このプロジェクトの最大の功労者であるスミは、ぶっ壊れ散乱した人形と穴だらけになってこれまたぶっ壊れた障子の前で、怒る気力も失くしただぼう然とうなだれていた。  
 そしてもう一人、輪の中に加われない人物がいた。それは、このプロジェクトのリーダーであり、本来ならこの快挙を一番喜んでいいはずの人物だった。かなめは、青ざめた顔のまま最後まで笑わなかった。  
 その夜、かなめは義理の妹、野々村やえに1本の電話を入れた。
「昭介はもちろんお前とも縁を切る。今後一切この家の敷居をまたぐことは許さん」  
 厳しい内容だった。かなめは加えてこう言った。
「おらの葬式に来るごども相成らん!」  

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51『やえの電話』

「貴ちゃん? 分かる? 久しぶりねえ」  
 やえは、声を落としてそう言った。源蔵のキンキン声とは対照的な、消え入るような低い声だった。
「えっ?」  
 その時、また雷が鳴り雨が激しくなった。貴志は受話器を強く耳に押し当てた。
「あっ、ちょっと、もし・・・」
「やえよ、分かる?」  
 あまりに久しぶりのやえの声に貴志は一瞬戸惑った。
「えっ? ああ、やえちゃん? やえちゃんか」  
 場違いな大きな声で貴志は言った。コーヒーを入れて持ってきた美樹が、訝しげに貴志の顔をのぞき込んだ。  
 10年ほど前のある時期、それは取りも直さず彼らがかなめから絶縁された頃なのだが、昭介とやえは小学生だった高太を連れて野々村家を飛び出し、それから消息がプツリと途絶えていた。  
 貴志たちはもちろん他の親戚たちも、彼らが突然出ていった正確な理由は分からなかったが、大方の見方は「昭介の気性からして何かおいしい商売でも見つかったんだろう、そのうちベンツにでも乗って派手に凱旋するもくろみに違いない」といった楽観的なものだった。  
 もっとも貴志にだけは、何年かに一度やえから年賀状が届いた。案の定それには、「北海道でカニの買い付けをして繁盛している」とか「浜名湖のうなぎの養殖が軌道に乗った」などと景気のいいことがつづられていたが、住所も電話も書かれておらず、こちらから連絡の取りようがなかった。
「ねえさん、かなめねえさん・・・」  
 やえは、そう言って言葉に詰まった。
「そうなんだ、昨夜亡くなってね。連絡しようと思ったんだけど、電話も分からないし・・・」
「ごめんなさい。こっちが連絡しなかったんだもの」
「それにしても、どうしていたんだい? みんな元気なんでしょ?」
「うん、元気よ。ところで、ねえさん何か言ってなかった?」
「何かって?」
「私たちのこと」
「いや、病院に行った時はもう息がなかったんだ。どうしてそんなことを聞くんだ?」
「あっ、だったらいいの。ずっとご無沙汰してたから、何か言ってたかなって思っただけ」  
 やえの声が少し明るくなった。
「やえちゃん、今どこにいるんだ? 来られるのかい?」
「あっ、ええ。たまたま今仕事の関係で近くにいたもんだから。是非行きたいって、昭介も高太もそう言ってるの」
「高太かあ、しばらく会ってないなあ。大きくなったろうな」
「うん、きっと驚くわよ」
「訃報、斎田さんにでも聞いたのかい?」
「ううん、たまたま新聞の夕刊で見たのよ。兄弟とは全然連絡取ってないの」
「そっか。じゃあ、みんなも驚くだろうな。今日斎田さん夫婦も来てくれてたんだ」
「そうね、じゃあ、明日」
「うん、分かった。2人にもによろしく」  
 電話を切った貴志は、コーヒーを一口飲んだ。ものすごく苦いコーヒーだった。顔をしかめながら貴志は美樹に向かって言った。
「野々村やえって、分かるよね?」  
 美樹は、カーテンを開けてサッシ越しに外を眺めている。雨が白く激しく窓ガラスを伝って流れている。雷の光と音の時間のズレが狭まっているのは雷源が近付いている証拠だった。
「何か、偶然近くにいたらしいんだ。偶然、お悔やみ欄を見たんだって、新聞の」
「何それ」
「えっ?」  
 貴志は、顔をしかめながらもうひと口コーヒーをすすった。
「偶然過ぎない?」  
 美樹は、そう言ってカーテンを閉めると、慌ただしくハンドバッグを持った。  

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52『フレンドリー』

「さっ、行くわよ!」  
 急かされて仕方なく立ち上がった貴志は、残ったコーヒーを口に運びながら、
「あっ! ば、ばあさんたちに電話しなきゃ。もう寝てしまうよ」  
 と言った。  
 美樹は片方の肩を揺らして、ギッと貴志をにらみ付けた。
「ジャムとババアと、どっちが大切なのよ!」  
 取り付く島もない物言いだった。貴志はキーを持って慌てて美樹の後を追い掛けた。
「とにかく早くクルマを出して! ババアたちの番号はメモしたから、ケータイがつながる所に行ったらかけるから」  
 そう言い残して、早くも玄関で靴を履いている美樹の背中が雷光で青白く光った。それは貴志に、かなめの顔にかぶせられた白い布を想起させた。  
 瞬間、白い布をかぶったかなめの青白い顔が浮かんだ。その顔を持つ死体がこの家の中にあるということを貴志は実感した。鳥肌が立った。貴志は、かなめの死後初めて「怖い」という感情を持った。  
 貴志は闇の中に幻覚を見た。  
 美樹がこっちを振り返る。でも、その顔は美樹ではない。引きつったかなめの顔だ。かなめは、苦しそうな顔で俺に何か言おうとしている。だが、それは言葉にならない。あえぐように何かを訴えている。恐ろしい顔。身の毛がよだつような形相のかなめが、俺を見据えている。俺は金縛りに遭ったように動けない。すると突然、かなめの顔は昔の優しい母の顔になっている。かなめは手招きする。ニコッと笑いながら俺に手招きする。
「ちょっと、何ボケーッとしてんのよ!」  
 美樹が傘を広げながら怒鳴った。貴志は、我に返って慌てて靴を履いた。  
 クルマを出して間もなく、彼らは予想以上の豪雨であることを知ることになる。運転席側の田んぼが稲穂の先端を少し残して完全に水没しており、田んぼは広大な沼と化していたのだ。  
 それは、川の堤防がどこかで決壊したことを意味していた。沼の泥水にはたくさんの流木が浮かび、刻一刻とその水かさが増しているのが分かった。早晩、濁流はこの県道をも飲み込み、助手席側の田んぼにまで及ぶだろう。貴志は、腰が浮き上がるような恐怖を感じた。
「ちょ、ちょっとやばいんじゃない?」  
 フロントガラスに顔を近付け、慎重にクルマを走らせながら貴志がつぶやいた。
「なんで」
「だって」  
 貴志が窓の外を見た。
「いいから急いで!」  
 美樹は、ケータイを見ながら落ち着き払った低い声で言った。  
 10分ほど走って、アンテナマークが伸びたことを確認した美樹は、何食わぬ顔で電話をかけ始めた。
「宮下です。美樹です。団子やります。来てください。いえ、団子だけ。時間は任せます。いえ、せいぜい留守番。いえ、それだけ。はい、どうも」  
 あっという間に1人目が終わった。  
 美樹は、次々に3件全く同様の電話をかけた。ものの3分足らずのうちに、課せられたタスクを完了させたことに貴志は驚きを禁じ得なかったが、もっと驚いたのは、美樹のあまりの愛想なさだった。
(コンピュータ案内の声のほうが、ずっとフレンドリーだ)  

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53『情緒的』

 クルマは愛宕村を抜け高合町に差し掛かっていた。正確に言うと、愛宕村も高合町の一部なのだが、土地の人は習慣的に町の中心街だけを指して高合町と呼ぶ。もともとは、明治21年の大合併で、愛宕村を含む十数個の村落が統合され沢目村になり、さらに、昭和の大合併で沢目村を含む7つの村が統合され高合町になった。そして高合町は現在、平成の大合併によって、斎田道秋が町議をやっていた上辺町や近隣の豊平町などと合併して人口4万人ほどの豊辺市という名称になっていた。愛宕村は正式には、豊辺市高合町字沢目大字愛宕という、まさに合併プロセス通りのばか長い地名になっていた。
「あっ!」  
 貴志は思わず叫び、慌ててブレーキを掛けた。高合町のシンボルともいえる生鮮スーパーの前の道路がないのだ。見渡すと、スーパーの駐車場には、おびただしい数の発泡スチロールの箱が浮かび、それは冠水した道路にまで流れ込んでいる。駐車場に取り残された10台ほどのクルマは、車体の半分以上も水に浸かって動けなくなっていた。
「ダ、ダメだ。道がないよ。戻ろう」  
 雨でかすんだ闇の遠く前方で、警察官の振る誘導棒の赤い光がぼんやりにじんで見えていた。美樹は無言でその状況を眺めていたが、やがて観念したようにつぶやいた。
「お父さんに電話してみる」
「えっ?」
「お父さんに行ってもらう」
「マンションに?」
「うん」
「でも、この雨の中、大丈夫かよ」
「・・・」
「ジャム、大丈夫だって。1日2日食べなくたって何とかなるよ。前にもあったじゃないか。お前の社員旅行と俺の出張が重なってさ。ほらっ、あの時だって、帰ってみたらケロッとしてたじゃない」
「あれはまだ若かった頃の話。ジャムはもう18。人間なら100歳なのよ。しかもこの暑さで、彼女水だって飲んでない!」  
 美樹はケータイのボタンを押しながらそう言った。  
 貴志がバックミラーをのぞくと、後続の2台のクルマがめいめいにUターンを始めていた。
「じゃあ、取りあえず戻るからね」  
 そう言って貴志は、対向車線にハンドルを切った。
「あっ、お父さん? 美樹。うん、こっちは大丈夫。全く問題ない。うん、心配しないで。それよりご飯食べた? ちゃんと食べなきゃダメよ。うん、そっち雨はどう? あっそう、すごいの? ちょっとお願いがあるんだけど、マンションに行ってジャムを見てきてほしいんだ。えっ? うん。違う、違う。そのジャムじゃなくて。ネコのジャムよ。そう、猫、猫。2日ばかり何も食べてないんだ。行ける? 合鍵あったよね。うん、タクシー呼んで。そう、キャットフードも買っていって。えっ? だからそれは運転手さんに聞いてさ。どこか途中にスーパーあるでしょ。えっ? メーカー? 今日は別に何でもいいわ。缶に入ったやつ、そう。あとジャムに水もやってね。ごめんね。こっち通行止めで、途中まで来たんだけどこれ以上行けないのよ。じゃあ、よろしくね。あっ、それから様子分かったら必ず電話ちょうだい。うん、じゃあね。気を付けて。うん、じゃあね」
(ちゃんと情緒的な電話もできんじゃん)  
 家に引き返した2人は、もう一度コーヒーを入れてそれを飲んだ。それから、電話待ち受けモードに入った美樹をよそに、貴志はかなめの枕飾りの前に座り、ロウソクと線香に火をつけ鈴を鳴らした。
(これ以上問題が起こりませんように)  
 不思議なことに貴志が祈ったのは、明日からの一連の葬儀に関することだけだった。ジャムのことではなかった。  

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54『ジャムの安否』

 雷はいくらか遠のいたものの雨脚は依然衰えないまま、時計は10時を回り、テレビでは報道番組のキャスターが早口で今日の出来事を伝えていた。  
 美樹は白い皮のソファーに横になって、目の前に置かれた電話機を見詰めている。貴志は葬儀関係の書類やメモなどで散らかったテーブルに頬杖をついて、放心したように座っている。焦点の合わない視線の先には、海水浴中の小学2年生と4年生の兄弟が溺死したことを伝える映像が流れていた。しばらくして、画面は若い男が大汗をかきながらお茶漬けをかっ食らうCMに切り替わった。
(カップ麺でも食うかな?)  
 貴志がそう思って立ち上がろうとした時、美樹が言った。
「電話してみる」
「えっ?」
「何かあったんだ」  
 美樹はソファーから起き上がり、電話のプッシュボタンを押した。
(こんな深夜の、しかも豪雨の中、彼は大丈夫だろうか?)  
 貴志は、ジャムよりもむしろ要三が心配だった。
(雨に濡れながらタクシーを拾い、スーパーで買ったことのないキャットフードを買い、またタクシーに乗り、マンションでタクシーを降り、それからエレベーターに乗って部屋の鍵を開け・・・。突然、美樹から課せられたこの一連の重労働は、1人では何もできない濡れ落ち葉のような要三にとってはあまりにも過酷だ)
「あっ、お父さん? よかった。行ってくれた? そう、今着いたのね。ありがとう。ごめんね。それで? ジャムは? うん」  
 脇で聞いていた貴志は、要三が無事に家に帰り着いたことに、まずはホッと胸を撫で下ろした。美樹は「うん」と言ったまましばらく黙って要三の話を聞いていた。美樹の顔が次第に曇っていくのが分かった。
(少なくとも朗報でないことは確かだな)  
 カップ麺を探しながら貴志は思った。  
 美樹は、沈鬱な表情で受話器を左手に持ち替えると、右手でこめかみを押さえながら、
「お父さん、雨が止んだらすぐ行くから、そのまま付き添っていてあげて。水も餌も、そうね。うん。じゃあね」  
 と言って、ゆっくりと受話器を置いた。
「ジャムは?」  
 貴志が聞いた。
「うん」
「生きてるんだろ?」
「うん」
「よかった」
「でも・・・」
「でも?」
「ぐったりして何も食べないって」
「・・・」
「雨が上がったら行ってくる」  
 美樹はそう言って、いまいましげに天井をにらんだ。  
 雨はなかなか降り止まなかった。やっと小降りになったのは午前4時半頃だった。美樹は自分でクルマを運転して出掛けていった。  
 しかし、5分も走らないうちに美樹は引き返すことになった。愛宕村の道路が冠水していたからだ。そういうことを3度繰り返し、結局美樹は7時半過ぎになってようやく愛宕村を抜け出せたのである。彼女はもちろんのこと、貴志も成り行き上一睡もできなかった。  
 その間貴志は、何度も枕飾りの前に座り手を合わせることになった。線香とロウソクは、結果的に消えることなく朝を迎えた。  

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55『謎の徘徊者ヌー』

 謎の徘徊者ヌーは午前2時に行動を始める。なぜなら、その時間が最も人目につかないのを知っているからだ。そして、どんなに遅くても午前4時には徘徊を終える。なぜなら、その時間は『タワス』と呼ばれる花山幸男が朝刊を配達する時間だからだ。  
 謎の徘徊者ヌーは、雨に濡れながら村の東側に位置する五反山という小さな山に登って、そこから村全体を眺めた。  
 そして山を下りた。下りながら、段々畑に植えられたミョウガを2つばかり摘んだ。そして口にほお張った。  
 ヌーは、そのままぬかるんだ道を通って墓地に出た。続いて108段もある石段を駆け上がって林峰寺の賽銭箱の前に立った。それから、また108段の石段を駆け下りて小さなほこらのある神社に行った。ヌーは、そこで手を合わせるでも、賽銭を入れるでも、かしわ手を打つわけでもない。  
 今度は一気に隣村の沢の目小学校まで歩いた。謎の徘徊者ヌーは恐ろしく健脚である。ヌーは小学校の校庭にある古タイヤに座り、それからブランコに乗って10回こいで下りると、また愛宕村へきびすを返した。  
 電気がついている家があった。謎の徘徊者ヌーは、その家の垣根をまたいで敷地に忍び込んだ。そして、電気のついた北側の角の部屋の少し開いたカーテンのすき間から、ソッと中をのぞき込んだ。
 『第1部第1章』完(まだまだ続きますよ!)  

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●『第1部第2章』へ続く

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