こんな「オシゴト」やってます!  雑感  写真 | 映画


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★★★ 映画化MI決定! 豪華キャスト大出演! ★★★
抱腹絶倒! 笑いと涙の金字塔! 
笑いに飢えたすべての読者に捧ぐ「夏目椰子」乾坤一擲の勝負作!
「十六団子」をめぐる人間模様を、軽妙な筆致と独特のユーモアで描く、
待望の長編小説『十六団子』を、WEB読者だけに公開します。
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 ●『その死からすべては始まるのだ!』 (第1部〜第1章)
 ●『団子3人衆はツヨイのだ!』(第1部〜第2章)
 ●『愛宕村って?』(第1部〜第3章)
 ●『葬式の朝はこうして始まった』(第2部〜第1章)
 ●『お葬式』(第2部〜第2章)
 ●『そして十六団子は・・・』(第2部〜第3章)
 ●『終わりの始まりの終わり』(第2部〜第4章)最終章

 
 

第2部が始まりました! もうやめて!(作者注釈)

第2部〜第1章『葬式の朝はこうして始まった』

1『彩と周平の夢』

 3時半。  
 ピッピッピッピッピピピピピピピ・・・・・・。  
 電子音が鳴った。反射的にそれを止めようとした2人の手が重なって、ゴロンと目覚まし時計が転がった。もうろうとしたまま、ほぼ同時に起き上がった2人は、彩が柱に3回、周平が壁に2回、つごう5回も体をぶつけながら、やっとこさ洗面所にたどり着いた。
「あろさあ、きろうれんわがあっれさあ」  
 歯ブラシを口に含んだ彩が言った。彩は、左手を腰に当て背筋をスッと伸ばし上方斜め45度を見据えた、いわゆる『正しい歯磨きポーズ』を取っている。
「らり? らんらって?」  
 洗面台に割り込んできた周平が言った。周平も歯ブラシを口にくわえている。
「あのさあ、昨日電話があってさあ」  
 口をゆすぎ終えた彩が言った。
「うん、ろれで?」
「泰三兄さんからだったんだけどさ」
「お兄さんから?」  
 蛇口を閉めながら周平が言った。
「うん」
「何だって?」
「会社で『2人の歌謡ショー』っていうのをやるんだって」
「何それ。ビッグショーみたいなやつ?」
「たぶん。例の変てこりんな専務の企画みたいなんだけどさ」
「ああ、確か日本舞踊をフラダンスの格好で踊らせた人でしょ?」
「うん。何かそういうイベントみたいなんだけど、それに出てくれって言うのね」
「俺たちに?」
「うん」
「まさか、素っ裸で『オヨネーズ』をデュエットさせられるわけじゃないよね」
「うーん、案外ありかもよ」
「いつ?」
「1月7日なんだって」
「来年の?」
「うん」
「随分と先の話だな」
「だけど断ったのね」
「何で?」
「だって、1月7日に試験あるじゃない」
「試験って?」
「ばかだな。その日は『神奈川学習会の模試』じゃない!」
「えっ?」
「私、勉強しなきゃいけないって言ったらさ、『へえ、お前も勉強すんだ』って笑われてさ」
「・・・」  
 それは彩の見た夢だった。彩はよくこういう類いの夢を見ては、翌朝、それを詳細に周平に教えるのだが、今日は自分自身それを夢と認識していないほど相当寝ぼけているようだった。   
 井戸水をポンプでくみ上げているため水道の水は冷たかった。彩は、その水でジャブジャブ顔を洗うと鏡越しに周平を見た。
「あれっ? もしかしてそれって夢だった?」  
 彩はようやく夢から覚めたようだ。
「相変わらずグタイな夢だな。『2人の歌謡ショー』と『神奈川学習会の模試』ってのにはウケたよ」  
 歯磨き粉を付けたままの口で周平が笑った。
「そういえば俺も夢見てさ」
「うんうん」
「ヘルメットかぶって砂漠の中にいんの」
「ほう」
「何か調査してるみたいなんだけど、目の前に巨大なミラミッドがあってさ」
「あっ、それって昨日の・・・。分っかりやすーい!」
「それが全部団子でできてんの」
「単純だねえ」
「まあ聞けよ。俺、その団子の巨大ピラミッドの中に入っていったのね」
「うん」
「そしたら、急に雷が鳴って雨が降り出したわけ」
「それも分かりやすいなあ。昨日の雨だ」
「それからどうなったと思う?」
「源蔵さんが現れて、『チッ、傘どんぞ』とか」  
 彩がちゃかして笑った。
「違うって。そしたら団子がどんどん融けていくわけよ。こう体にベドーッってまとわりついて」
「妖怪人間ベム、ベラ、ベロみたいに?」
「うん、そうそう。あんなベドーッとした感じ」
「早く人間になりたーい!」彩が声色をまねて言った。
「そうそう。そんで、俺もがいてるんだけど、どんどん身動きができなくなっていくんだよ。助けてくれーって、俺叫んでんの」
「うんうん、そいで?」
「えっ?」
「そんだけ?」
「うん。怖かったなあ」
「オチないの?」  
 彩がつまんなそうな顔をした。
「だって、これ夢だから夢」  
 台所に来てテーブルに座った2人は、昨日の折り詰めの残り物をおかずに軽く朝食を取った。
「葬式太りに気を付けなきゃ」
「彩、顔丸いよ!」  
 礼服に着替えた周平が言った。
「ひっどーい!」  
 彩はサッと化粧を済ますと、新しいエプロンを小脇に抱え2人そろって家を出た。白みかかった空に星が出ていた。今日も暑くなりそうだった。  

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2『ホゲゴッゴー!』

 ホゲゴッコー!  
 ひきつけを起こしたような声で、リン子さんの鶏小屋の主が鳴いていた。
「電気ついてるね」  
 彩が言った。  
 貴志の家の北側のサッシの窓から、ベージュのカーテンを透かして明かりが漏れていた。
「うん、きっと誰も寝なかったんだろうね」  
 周平が言った。
「遺族は大変だよね」
「うん、かあちゃんの葬式を思い出すよ。寝不足で確かにきつかったけど、あれが供養なんだろうし、あの何も考えられなくなるような麻痺した感覚が、あの時の深い悲しみを少し和らげてくれたような気もするな」
「そうよねえ」  
 彩がうなずいた。
「おはようございまーす!」  
 勝手口の戸を開けながら小声で周平が言った。返事がなかった。
「スミばあたち、まだなのかな」  
 周平はそう言いながら靴を脱いだ。彩も周平の後に続いた。台所と居間にはこうこうと電気がついていたが人の気配はなかった。昨日のお膳が重なって置いてある廊下を通って、彼らはソッと座敷をのぞいた。
「あっ!」  
 祭壇の脇に、貴志と源蔵がタオルケットを掛けて寝ていた。
「寝てるう・・・」  
 2人は同時にそう言って彼らを指さした。それから顔を見合わせて、
(どうする?)  
 というポーズを作った。
(取りあえず向こうへ行こうか)  
 2人は同時に、指を居間のほうに向けてコックリとうなずいた。  
 居間の白いソファーに座った周平は、思い切り手足を伸ばして背伸びをすると、
「このソファー高そうだな」  
 と言った。
「そうねえ、本皮張りだもんね」  
 彩は台所の流しの中に、飲み残したコーヒーが入ったカップを一つ見つけた。
(誰だろう? 美樹さん?)  
 ふと彩はそう思った。
「何から何まで最新式だもんね」  
 周平が言った。
「うん、でも、ほとんどここには来てないらしいわよ」  
 カップを洗いながら彩が言った。
「もったいないなあ」  
 そう言って立ち上がった周平は、勢いよく居間のカーテンを開けた。周平の視界に犬の散歩をしている尼僧のようなシルエットが飛び込んできた。
「あっ、来た来た!」  
 彩が窓越しに外を見ると、昨日と同じように白い頭巾をかぶり、のったりのったり歩いているマチの隣を、腰に手を回して顔を地面すれすれに近付けながら、ペタペタとスミが歩いていた。やや遅れて、白いビニール袋を手に提げたのり子が、ふんずり返りながら続いていた。  

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3『ヌエ』

 周平がトイレに行って戻ってくる頃、ようやく勝手口の戸が開いた。
「彩ちゃん、おはよう! おやっ、周ちゃんもいだのが。いっつも仲良くていいなあ」  
 最初に入ってきたマチが2人に声を掛けた。
「あっ、おはようございます!」  
 彩が笑顔で言った。
「マチばあ、おはよう。早ぐがらご苦労さんだな」  
 周平が言った。
「なあに、年寄りは朝早いもんだよ。それより、あんだだぢ眠てぐねえかい?」  
 マチは緩慢な動作で頭巾を外している。その後ろからスミが顔を出した。
「おう」  
 スミはそう言って神妙な顔で居間に入ってくると、部屋を見回し、
「アバいねえな」  
 と言った。それから続けて、
「貴志はどさ行った」  
 と聞いた。
「あっ、貴志さんならあっちの座敷で・・・」   
 彩はそう言って周平の顔を見た。
「まさが、寝でるわげではねべな!」  
 スミはギッと座敷のほうをにらみながら言った。
「大丈夫、大丈夫」  
 周平はそう言って、スミの前を横切って座敷に向かった。  
 ようやく靴を脱ぎ終わったのり子が、ドアの所で周平と鉢合わせになった。のり子は、「おめえおっきいな」と言って赤い顔で周平を見上げた。見下ろした周平の鼻に、プーンとたくあんの匂いが漂ってきた。のり子が持っている白い袋からだった。  
 団子班がそろったところで、スミは例によっていつもの所定の位置に歩を進めると、メンバーを前に朝のあいさつをした。
「ああ、今日はいよいよ本番だ。とごろで、おらユンベおがしげな夢見だんだ」
(ああ、私も見たわ。神奈川学習会の模試・・・)  
 彩は「うんうん」とうなずいた。
「ヌエがいっぺえ鳴いでる夢だった」
(ヌエ? 何それ)  
 今日のスミは、余裕ができたのかスピーチに幅が出てきたようだったが、3人はまだその冒頭の話の意図を計りかねていた。 
「ヌエが鳴ぐど人が死ぬっつうがら・・・」
(えっ? そうなの)
「気を付けで今日も作業に当だってもらいてえ。以上!」
(おお、そうきたか)   
 彩は、まさか団子作業で死人が出るとは思えなかったが、話の意外な帰結のし方に感心して、思わず拍手を送りたい衝動に駆られた。
「スミ、おめえ昨日人の部屋のぞいだがら、おがしげな夢見だんでねえのが?」  
 マチが鋭い所を突いた。
「んだんだ、おめえ、バヅ当だったんだよ、バヅ」  
 のり子もそれに乗じてスミを攻撃した。
「いいがら、早ぐ新聞敷げ!」  
 形勢の悪くなったスミが叫んだ。  

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4『暗雲』

 彼女たちが新聞を広げているところへ、周平に起こされた貴志と源蔵が顔を出した。
「あっ、おはようございます。早くからどうも」  
 貴志の顔はむくんでいたので、徹夜をした顔に見えなくもなかったが、
「チッ、いや、どんもどんも。今日も大難儀掛げます」  
 と言って下げた源蔵の頭は、台風21号で被害を受けた田んぼのように大きなひまわりになっていたので、彼が寝ていたことはバレバレだった。
「貴志、アバはどうした?」  
 スミが聞いた。源蔵も貴志を見た。
「夕べは帰らなかったです」  
 貴志は、これ以上美樹を弁護する気をなくしていた。
「いってえ、どういうつもりだ。あのアバは!」  
 スミが言った。源蔵もチッと言ってうなずいた。
「ええ、僕にも分かりません」  
 貴志は開き直ったようにそういうと、
「源蔵さん、顔を洗いましょうか」  
 と言って、洗面所の方向に向きを変えた。
「ったぐ、なんちゅうアバだべ!」  
 スミはあきれたように言った。
「あいい、おっどろいたなあ。ちょっと見だごどねえな」  
 マチも同調した。  
 彩は、周平から聞いた美樹の事情を話そうとも思ったが、結局話が複雑になるだけで必ずしも美樹の援護にはならないと思い、話題を替えることにした。
「ところで、今日はどっちから先に作るんですか? 団子」  
 団子をこねる仕草で聞いた彩に、スミはきっぱりと、
「まんずはログゴの団子だ」  
 と言った。
「はい、分かりましたあ。昨日と同じやり方ですね」  
 スミは大きくうなずいた。
「じゃあ、まずお湯を沸かすんですね」
「彩ちゃん、おめえ頭いいなあ」  
 マチが感心して彩を見た。
(そっれほっどでーもん)  
 彩は単純にうれしくなった。ちょっと調子に乗った彩は、団子リーダーに向かってこう言った。
「粉は昨日より多めにしたほうがいいですね。少し足りなかったですからね、団子」  
 スミはギッと彩をにらんで、
「彩、おめえ偉ぐなったな」  
 と言った。彩は自分の出過ぎた言動に気付いて身を縮めた。
「んだんだ。もっとおっきぐ丸めればいがったんだよ」  
 のり子がトンチンカンなことを言った。  
 団子チームの第1作業はこうして始まった。
「粉、どのくれえずつやる? なんぼやればいいべ」  
 マチがスミに聞いた。
「なんもや、そいつをこう、このぐれえに対して、こいつをこう、このぐれえだべ」  
 全く同じだった。
「マチ、なんぼになった?」  
 スミが急に手を止めて言った。
「えっ? なんぼって、あいい、なんぼだっけ?」  
 マチが狼狽して言った。
「のり子、おら、なんぼ入れだべ?」  
 スミは今度はのり子に聞いた。
「なんぼって、そっちの袋がら8つだがど、こっちの袋がら・・・、あいい、なんぼだっけ?」  
 のり子も首をひねった。
「彩、なんぼ入れた?」  
 昨日のこの場面をコピペしたいくらいに、全く同じ会話が繰り返されていた。
「ありゃー!」
「あいい!」
(この人たちは、失敗から学ぶということはないのか?)  
 彩はつくづくそう思い、激しく先行きに不安を感じた。
「少し軟らけぐねえが?」  
 マチが言った。
「いや、硬えな」  
 のり子が言った。
(まただよ)
「スミ、ほら、やっぱり柔らけえよ」
「いや、これは硬えな」   
 これも一緒だった。ただ、スミはこの後で粉をなめることだけはさすがにしなかった。
「とにかぐやってみでがらだ」  
 スミはいつものセリフを吐いて彩からやかんを受け取ると、広げてあった新聞紙の上に座った。そして、まだ粉をかき回しているマチに向かって言った。
「いづまでやってんだ。いいがら始めるど」  
 そうして、お湯を注ごうとしてまた動きが止まった。
「ありゃっ? ボールねえな、ボール」  
 スミは彩のほうを見て言った。彩は、昨日マチが持ってきた白いホーローのボールを探した。
「あいい、あのボールだば、おら家さ持って帰ったよ」  
 マチがのんきな声で言った。
(ええーっ!)
「だって昨日あの雨だったべ。おら頭さかぶって帰ったんだよ」
(うっそー! いつの間に? それにあの時、傘あったじゃん)  
 彩は、何が何だかサッパリ分からなくなった。
(あーあ、マチさん、絶対言う。あの言葉)  
 彩は確信を持ってその言葉を待った。
「おら行ってくっから」  
 案の定だった。  
 すべては一から出直しになった。今日も出ばなから暗雲が台所を覆っていた。
「マチ、おめ・・・」  
 スミはそう言って絶句した。  
 マチは相変わらずの緩慢な動作でトレードマークの白い頭巾をかぶると、まだ薄暗い中、庭の芝生を踏んでヨタリヨタリと出掛けていった。が、やはりその後ろ姿は、なかなか小さくなるものではなかった。
(・・・)  
 彩は思考回路がショートして、とうとう何も考えられなくなった。  
 新聞紙のまん中に粉の山があり、その周りにスミとのり子がすることもなく置き去りにされていた。
(何のための3時半起床だったのだ)  
 彩はうつろな目を窓の外に向けた。尼僧はやっと道を左に曲がる所だった。  

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5『突然の早退申請』

「あいい、おらの猛彦ダメなんだどや」  
 手持ち無沙汰に、粉をグルグルかき混ぜていたのり子が言った。猛彦というのは、仙台にいるのり子の長男の名だった。
「仕事忙しいんだど。だがら葬式さ来られねえんだど」  
 無言のスミを相手にのり子が話を続けた。
「残業してもさっぱ給料上がんねえんだど。んでも、しねばクビなんだどや」  
 のり子はスミの反応がないので彩に視線を送った。
「ああ、今不景気ですからねえ」  
 彩はのり子に向かって同情の表情を作った。
「しゃあねえがら、おら出るしかねえんだよ」  
 のり子が言った。
「えっ? お葬式にですか?」
「うん」  
 のり子が答えた。  
 それは突然提出された『早退申請』だった。  
 ずっと下を向いて話を聞いていたスミが、驚いて顔を上げた。
「何だど!」  
 就業規則を無視した部下の暴言を黙認できなくなった業務部長は、うろたえながら部下に言った。
「だば、お、お、おめえ・・・」
「ああ、9時ごろ家さけえるよ」  
 悪びれる様子もなく部下が言った。  
 スミの見た夢が正夢になるのではと思われるような第2の暗雲発生だった。  
 何もすることがないままそれから30分が過ぎた。時計は5時を回っていた。  

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6『神奈川学習会の模試』

「おはようございます! どうも早くからご苦労さまです」  
 郁子だった。
「何かお手伝いすることありますか?」  
 新聞紙の上に丸まって座っているスミに向かって郁子が聞いた。  
 スミは救世主登場に少し表情を明るくしたが、さりとて、目下の所何もすることがなかった。すべてはマチの帰還次第だった。
「ああ、あどで頼む」  
 スミが言った。
「分かりました」  
 郁子はそう言って彩の元に来ると、
「今日は晴れてよかったですねえ。夕べの雨でどうなることかと思いました」  
 と言った。
「そうですね。きっとかなめさんの生前の行いが良かったんですね」  
 彩が言った。
「彩さん、コーヒー飲みませんか?」  
 郁子はそう言ってニッコリ笑った。  
 彩も応えて笑顔を作ると、コーヒーメーカーにやかんのお湯を注いだ。
「少し多めに作りましょうか?」
「そうですね。向こうのみんなも眠たそうですからね」  
 彩はそう言ってキリマンジャロと書かれた、レギュラーコーヒーの入った容器から豆を多めにセットした。郁子がコーヒーメーカーのスイッチを押した。
「あっ、ありがとうございます」
「彩さんも神奈川のお生まれなんですって?」  
 郁子が聞いた。
「ええ、川崎の出身なんです」
「そうですか。私は三浦の生まれなんですよ」
「へえ、じゃあ割と近いんですね」
「そうですね。でも、私のほうが田舎ですよ。高校は川崎でしたけど」  
 彩は同郷の郁子に親近感を感じて、つい今朝の夢のことを聞いてみたくなった。
「郁子さん、今でも神奈川学習会の模試ってやってるんですか?」
「わあ、懐かしい! やってます、やってます。というか、少なくとも私の頃はやってましたよ」  
 郁子は目を輝かせた。
「へえ、そうなんですかあ」
「あれ嫌でしたよね。後で親に結果が送られてくるじゃないですか。全国で何番とか、神奈川県で何番とか。私、何度親に怒られたことか」  
 郁子は苦々しい顔で言った。
「ふふっ、私もそうでした」  
 立ち上るキリマンジャロの豆の香りが、彩の鼻孔に一服の愉楽を与えると同時に、それと連動して脳の記憶ディスクもチュルチュルと回り出した。記憶を再生する赤色レーザーの針は、進路に悩んでいた彩の高校時代にヒットして止まった。  

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7『進路』

「ねえ、彩。進路決まった?」  
 さやかが言った。
「うーん」  
 目の前に運ばれてきたコーヒーの湯気を見詰めながら、彩はフッと小さなため息をついた。  
 ブレーメン商店街の一角にある『シュノア』というカフェ。その日は、1月7日は神奈川学習会の模試が行われた日だった。外には雪が3センチほど降り積もっていた。
「現実路線か快楽路線かってことよね」  
 眉をしかめながら、難しい顔でさやかが言った。  
 さやかは彩と家が近かったこともあって、幼い頃からのくされ縁で学校も高校まで一緒だった。
「えっ? 何それ」  
 コーヒーを口に運びながら彩が聞いた。
「つまり・・・」  
 さやかは、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「理性を取るか本能を取るかってこと」
「はい?」  
 さやかは、どこかで読みかじった知識を元に持論を展開し始めた。
「私が思うに、人間は理性と本能の狭間で生きていると思うわけ」  
 さやかは、マロンケーキをフォークでひとかけら切り分けると、それを自分の顔の前に掲げた。
「これ、カロリー高いでしょ?」
「うん、かなり」
「ねっ、そこで私の理性はこう言う」
「ふんふん」
「太るからやめとけ!」
「うんうん、そうしな」
「でも・・・」  
 さやかは、フォークを自分の鼻に近付けて夢見る顔を作った。
「うーん、でも食べたーい!」
「うんうん、それも分かる」
「そこで私の本能はこう叫ぶ」
「叫べ!」
「ゼッタイ食べたーい! 食わせろー!」
「叫んだな、こいつ」
「ねっ、ここなのよ。あっ、ここだけの話、私最近太っちゃってさ。今58キロあんのね」  
 さやかは周りを気にして声をひそめた。
「夜食の食い過ぎだ。確かに顔丸いよ」
「ひっどーい!」
「そいで、そいで」
「あっ、そうそう。だからこの葛藤なのよ。本当は食べちゃいけないけど・・・」
「食べたくなる」
「そう」
「で、ブタになる」
「彩、ひっどーい!」  
 さやかが丸いほっぺたを膨らませて怒った。彩はケラケラ笑いながら、
「あれだな、分かっちゃいるけどってやつね。スーダラ節」  
 と言って、さやかのフォークを手に持って自分の口に運んだ。
「ん、んまい。これ、んまいよ!」
「あっ! ちょっと、ちょっと」
「で、それと進路とどういう関係があるわけ?」
「えっ? そうそう。だからね。これは私なりの解釈なんだけど・・・」
「うん」
「進路も、理性的に、つまり現実的に考えるか、本能的に快楽的にというか、ちょっと違うかもしんないけど・・・。うーん、まあ夢だな。衝動的に夢を追うかで大きく違うと思うわけよ。あっ、これフロイトさんの受け売りなんだけどね」
「なるほど。で、さやかはどっち?」
「私?」
「うん」
「私は決まってるじゃん」
「ケーキを食うほうだな。本能のおもむくまま」
「ところがギッチョン!」
「あっ、それ死語」  
 彩が吹き出した。
「私は、超現実主義を取るの」
「へえ」
「私は家政科へ行くわ。そしてフツーのOLやって、フツーのだんなさんもらって、フツーの人生を送るの」
「そう言えば、さやかって幼稚園の頃からそうだったよね。『結婚相手はあ、何でも言うことを聞いてくれるう、お婿さんタイプでえ、例えばあ、三ツ木清隆みたいなあ・・・』みたいな」  
 彩はさやかの口まねをして笑った。さやかも三ツ木清隆にウケてクスクス笑った。
「でも、さやかはすごいよ。そういうことをしっかり決めてるんだもん」
「私ってほら、超現実主義者だから」  
 さやかはそう言ってマロンケーキを口に運んだ。
「だったら食うな!」
「ククッ、分かっちゃいるけど・・・」  
 さやかは快楽をかみしめている。
「私はさやかみたいに決められないよ。自分が何になりたいか、何をしたいか、どういう人生を送りたいか、今んとこ全然分かんないんだ。何か取りえがあるかといえば、それもないしさ」  
 彩は、曇ったカフェのガラス窓越しにブレーメン通りを歩く人並みを眺めた。買い物袋を提げた主婦や子連れの若い夫婦に混じって、アタッシュケースを抱えて寒そうに小走りに歩くサラリーマンの姿があった。  
 さやかの弁によれば、理性と本能の間で揺れ動いているのが『自我』であり、本能を意識的にコントロールできるようになった状態が『超自我』、逆に、無意識レベルの本能や命の衝動がより高次に昇華し覚醒した状態を『エス』というのだということだった。
(少なくとも進路に関しては・・・)  
 彩は思った。
(私は、さやかのようには決められない。超自我であれエスであれ、自分にはもう少しだけモラトリアムが必要だ)  
 彩は、取りあえず東京の大学の人文学部に入学した。それは、神奈川学習会の模試の結果が決めてくれたようなものだった。  
 一方さやかは、狙い通り横浜にある短大の家政科に入学した。そして卒業後、本当に三ツ木清隆そっくりのお婿さんタイプの男と結婚し二男一女の子どもをもうけた。今は、サラリーマンの夫の稼ぎと、自分も小さな事務用品店の店番をやりながら生計を立てつつ、PTAや町内会の役員もこなしながらごくフツーの生活を送っている。夫が寝静まった深夜、1人で韓流ドラマに涙を流すのが最大の至福ということまでもが、どこにでもある、まさに絵に描いたようなフツーの人生だった。
(願えばかなうって本当なんだ)  
 彩は、さやかと電話で話すたびにそう思った。そして、すべては自分を知るところから始まるのだということを再認識した。  
 さやかは、彩が「シベリアにマンモスを発掘しに行く」とメールを打った時、まっ先に電話をよこして、
「彩、すごいじゃない! やっぱり彩は何かやるって思ってたんだ。私は望み通りフツーのおばさんになったけどさ、彩には私と違ってビッグになってほしいんだ。そういう彩を見てるのも私の望み。たのんまっせ!」  
 と興奮した声で言った。
「ありがと。ねえ、さやか。これって『エス』なのかな」
「えっ? 何エスって」
「ほら、超自我とか何とかって昔偉そうに語ってたじゃない」
「あれっ? そんなこと言ってたっけ?」  
 彩は、さやかは今つくづく幸せなんだなと思った。
「ねえねえ、彩、聞いてよ。私さ、体重が72キロになったんだってばさ。どうしよう。Sどころか、服も何もLLよ。それも男物の・・・」
「・・・」  

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8『周平の信望』

「はい! 彩さん、どうぞ」  
 郁子がコーヒーカップを差し出した。
「あっ、ありがとうございます!」  
 我に返った彩の目に、朝焼け空を背景にのったりのったり歩いてくる托鉢の尼僧の姿が映った。  
 マチが戻るとにわかに台所は忙しくなった。作業開始時間が大幅に伸びたこともあって、今日のスミは一段と気合いが入っていた。「あっちっちっ」「彩、へらへら」「いいが、プカッだど」「アジッ、アジー」など、昨日と同じ会話を繰り返しながらも、ログゴに載せる団子は急ピッチで完成に向かっていった。  
 やがて大きな鏡餅状の塊が完成したところで、彩は昨日周平が計算してくれた、正式な団子の数をスミに伝えるかどうか迷った。スミにまた、「彩、おめえ、偉ぐなったな」と皮肉を言われるような気がしたからだ。しかし、また『なんちゃって団子』を混ぜ込まなければならない事態だけはどうしても避けたかった。彩は、勇気を持ってスミに告げた。
「あのう、団子の数は全部で70個あればいいみたいですよ」
「・・・」  
 全員がポカンとした顔で振り返って彩を見た。彩は、何か文句を言われるのではないかとドキドキした。
「おめえ、なして分がった?」  
 まじめな顔でスミが聞いた。
「夫が、あっ、周平がそう言ってました。何か三角錐がどうのこうのって。何か計算あるみたいです」
「彩!」  
 スミが言った。
「周平がそう言ったのが?」
「え、ええ」  
 スミは大きくうなずいた。
「だば間違いねえ。周平はこういう計算うんと得意なんだ。おらの人形の棚あるべ。あれも周平の計算で作ってもらったんだが寸法バッツスだった」
「スミ、おめえの家の人形の棚も周ちゃん作ったのかい?」  
 マチが聞いた。
「んだ。30年以上もめえの話だ」
「あいい、本当かい。おらの家のニワトリ小屋も周ちゃん作ったんだよ」  
 マチが言った。
「おらの便所のふたもだよ。あれうんとあんべいいんだ。こう手っこ付いでで、こうやって・・・」  
 のり子が便所のふたを開けるまねをした。
「彩、なんぼだど?」  
 スミは彩に向かって聞いた。
「ええ、ですから、両方合わせて、確か70個・・・」  
 全員の期待を一心に受けて彩は緊張した。
「間違いねえな!」
「は、はい。ええ、たぶん・・・。あっ、ちょっ、ちょっと聞いてきますね」  
 そう言って彩は座敷に駆け出した。
「あっ、彩! ついでにログゴ下げできてけれ!」  
 スミが叫んだ。
「はーい!」  
 彩が座敷に入ると、貴志と源蔵、大地はコーヒーを飲みながら何か話していた。源蔵の寝癖はまだ直っていなかった。掃除機を掛けている郁子の脇で洋がじゃれていたが、周平の姿が見えなかった。
「あっ、おはようございます。すみません、主人は・・・」  
 彩の声に反応して貴志が言った。
「あっ、周平君なら今、寺に本位牌を取りに行ってもらってるんだ。もうすぐ戻ると思うけど」
「そうですか」  
 彩は、取りあえずログゴを下げに祭壇に向かった。
(あっ!)  
 ログゴの上に載っているはずの団子が1個もない。
(どういうこと?)  
 彩は祭壇の周りを見回して驚いた。団子はすべて鉦の中に投入され、ダマッコ鍋のように、もしくは大仏の頭のように盛り上がっていた。洋の仕業であることは疑いなかった。  
 少しして、本位牌を持って戻った周平に貴志が伝言を伝えた。
「何か彩さんが呼んでたみたいだけど・・・」
「そうですか」  
 周平はそう答えて、本位牌を持って祭壇に向かった。洋が周平を見つけて『忍者ハットリくん』のニンニンポーズで近付いてきた。
「ニンニン!」  
 プツッ!  
 本位牌を置こうとして身を伸ばした周平のケツ穴に、洋のニンニンが命中した。
「わっ!」  
 周平が慌てて大殿筋を絞った。洋の指が割れ目に挟まった。
「こいつう、やったなあ!」  
 洋はケタケタ笑って指を抜き取ると、ニンニンの指を鼻に近付け、
「クッシャーイ!」  
 と言った。  
 洋は今日も元気だった。
(やられた。すき有り1本だな)  
 周平は苦笑いを浮かべると、洋の頭をグジャグジャになでて台所に向かった。  

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9『ログゴ団子完成』

 台所に顔を出した周平にスミが聞いた。
「周平、団子なんぼ丸めればいいんだ?」
「ああ、全部で70個だ」
「おめえ、賢しいな」  
 周平は、モンタージュ顔でちょっと照れた。
「だがら、その餅をまず7つに分げでさ。その1つを10個に割っていげばいいんだ」  
 周平はそう言いながらスミの脇に座ってへらを持つと、大きな鏡餅のような塊を目分量で7等分した。それからその1つを半分にし、さらにそれを5等分した。
「ほらっ、こうすればこれで10個。もう1つこうやって20個」  
 あっという間に70個の塊が出来上がった。それを目を丸くして見ていたスミは、もう一度、
「おめえ、本当に賢しいな」  
 と言って大きなため息をついた。
(そっれほっどでーもん)  
 見ていた彩は、自分のことのようにうれしくなった。
「あど、こいづ丸めればいいがら」  
 そう言って周平はへらをスミに渡した。スミは「うん」と大きくうなずいて、
「周平、コーヒー飲んで行げ!」  
 と言った。彩はニコニコしてコーヒーを注いで周平に渡した。
「あっ、サンキュ!」  
 満足そうにコーヒーを口に運んでいた周平にのり子が言った。
「便所のふた、たいしたあんべいいど」  
 ゲホッ、ゲホッ・・・。  
 周平は飲んでいたコーヒーを思わず誤えんしてしまった。  
 テクニカルエンジニアの出現で、ログゴの団子はあっという間に完成を見た。
「おう! ほんとだ。数バッツスだ!」  
 最後の1個を頂上に載せたスミは、感心して叫んだ。
「やっぱり、周ちゃんだなあ」  
 マチが言った。のり子は、うんうんとうなずいて体を揺らした。
(さあ、次はいよいよあれね)  
 彩はそう期待したが、スミは思わぬことを言った。  

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10『昼間のまんま』

「彩、冷蔵庫のササギ茹でろ!」  
 四作豆がエンドウ豆の総称であるのに対し、ササギというのはインゲン豆の総称だった。
(えっ?)
「それがらブロッコリーもあったな。そいづも茹でろ!」
(はい?)
「のり子、おめえはナスの天ぷら揚げろ!」
(何で、何で?)  
 彩は、スミの言っている意味が分からなかった。しかし、マチものり子もその意味が分かっている様子で、マチは、
「のり子のうんめえガッコもあったな」  
 などと話が合っている。  
 のり子は、
「あいい、天ぷら揚げれってが」  
 と言いながら立ち上がると、彩のそばに来て冷蔵庫を開け、
「ナス、ナス、ナス」  
 と言って中を物色している。
「すみません。一体何の・・・あれですか?」  
 彩はソッとのり子に聞いてみた。
「あん? 何ってあれだべ、昼間のまんまだべ」
「えっ? 誰の?」
「誰って、おらだぢだべ。あっ、おらはいねえな。うん、葬式さ出っからな」  
 彩はようやく合点した。
(これは、私たちの昼の賄い食なのね)
「彩、まんまも炊いでおげ! 3合もあればいいがら」  
 スミが言った。スミはログゴ団子の早期完成で随分と余裕を見せている。
「マチ、ダミ若勢の賄いはおめえの家でやるんだべ?」  
 スミが聞いた。
「ああ、塩びぎどガッコどトロロで食わせっぺど思ってるんだよ。リン子がらもらった枝豆もあるしなあ」
「んだば、ごっつおだな」
「だども10人もいるがら、まんま2升も炊がねばねえよ」
「ほうが、若えもんは食うがらな」
「ああ、ほしたら、おら一回家さ帰って米うるがしてくるがらな。すぐ戻るがら」
「ああ」  
 スミはよほど余裕があるのか、マチに「早ぐ戻れ」とは言わなかった。  
 彩がササギとブロッコリーを茹でている間に、のり子はナスを切って、あく抜きのための水を張ったボールにそれを入れた。
「片栗粉あっか?」  
 のり子が彩に聞いた。
(片栗粉?)  
 普通天ぷらは、天ぷら粉もしくは小麦粉ではないのかと彩は思った。
「片栗粉ですか?」
「んだ」  
 彩は片栗粉を探し当ててのり子に渡した。のり子はそれを別のボールにドバーッと入れると、水道の水を大量に入れ菜ばしでグルグルかき回した。
(ちょっと、ちょっと。私が知っている限り、片栗粉はこのように溶いた場合、とろみを付けることが目的になるはずだ。唐揚げや竜田揚げの場合は、材料に直接まぶすのではないだろうか。そもそもこれ、天ぷらだったよな)  
 彩はすべてが謎だった。  
 のり子は片栗粉と水を丹念に混ぜ合わせると、ナスをその中にどんどん投入し始めた。やがて完成した『ナスの天ぷら』は、彩の心配した通り『とろみあんかけ風ベチャベチャくっ付きまくりナス』という、何が何だか分からないものになった。  
 のり子は、一枚岩のようにくっ付いて離れないナスを菜ばしでつまみながらちょっと首を傾げたが、そのまま何も言わず持ち場へ戻っていった。
(これどうやって食うんだろう?)  
 彩は大きく首を傾げた。  

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11『粉の用法』

 のり子の片栗粉の使い方とは全く違った意味で、彩は愛宕村に来て驚いたことがあった。それは、家々で使う『粉』の用法である。正確には『粉もしくは顆粒状』のものなのだが、今回のように団子を作るときは米の粉を使うし、漬け物には大量の塩を使い、ぬか漬けには米ぬかを使う。さらに、カボチャやあずき、リンゴを煮る時には大量の砂糖を使う。  
 そして、そうした食用に使うものとは別に、薪ストーブから出た灰は畑にまいて土壌を中和するために使った。また、ワラビやゼンマイのあくを抜くためにも灰も使った。  
 その中で、特に彩が驚いたのは『重曹』の使い方だった。今でこそ重曹の意外な用途は幅広く知られるようになったが、彩はそれまで重曹といえば、ケーキを作るときのふくらし粉、ベーキングパウダーとしての用途しか知らなかった。  
 しかし、彼女たちは生活の中で当たり前のようにそれを使っていた。例えば、流しの洗い物には粉を振りかけて使う。特に、鍋のコゲ落としや、魚を焼いた網、フライパンなどの油汚れには、重曹は強力な威力を発揮した。洗濯もそうだった。泥や皮脂で汚れた衣類は、重曹を入れた水に一晩浸けておくときれいになった。トイレの便器に振りかけて消臭と洗浄剤代わりにも使う。お風呂に入れて入浴剤代わりに使い、さらにそのお湯に風呂のふたや風呂桶や椅子を浸けておくと、浴槽ごと湯あかがきれいに落ちてしまうのだった。  
 昔は、石灰と塩を混ぜて重曹を手作りしていたという話も聞いたことがある。
「この粉っこど石けんあれば、なーんも要らねえ」  
 おばあちゃんたちは、そう言って彩に多種多様な重曹の用途を教えてくれるのだった。
(確かに・・・)  
 実際使ってみて彩は思った。
(これは画期的に経済的だ。しかも本当に、嘘みたいに良く落ちる。そして、何といってもこれは地球環境に優しい。だってそもそもこれは『ふくらし粉』なんだから。彼女たちがそんなことを意識していたか、いなかったかにかかわらず、結果的にこうやって、若鮎が踊り、イワナやヤマメが棲める川が守られてきたんだ。何という先人の知恵なんだろう)  
 こうした、いわば『おばあちゃんの知恵袋』は、ひと言で言えば、貧しさから生まれた賢さだった。彩が念仏の時に知ったように、どん兵衛を楽しみに集まってくる村人の姿や、たとえ1円でも厳密に割り勘にする習慣は、そういう貧しさを表す何者でもない。彼女たちは一様に、限界消費性向の極めて低い、いわば吝嗇家と言ってよかった。  
 彩は、日本人の美徳である『もったいない思想』を、全世界に浸透させる活動を行っているケニアのワンガリ・マータイさんを思い出した。  
 もう一つ、彼女たちに共通して言えるのは『強い』ということだった。それは、時に『ずるさ』として映ることもあったが、したたかでしなやかで皆粘り強かった。戦争未亡人はもとより、彼女たちが全員、戦争を経験しているということも、生命力、生き抜く力がたくましくなったことと無縁ではないかもしれないし、あるいは、農地解放以前、小作人として使役され酷使された逆境のDNAがどこかに流れているのかもしれなかった。  
 彼女たちを見ていると、彩は1940年の映画『怒りの葡萄』で、最後にジェーン・ダーウェルが吐くセリフを思い出すのだった。
「永遠に生きる。それが民衆なんだ」  
 その一方で、彼女たちは皆、極めて『楽しみ好き』でもあった。かなめが作った『愛宕村未亡人倶楽部』に限らず、彼女らは1人残らず全員、生涯最大のイベントとして『勤労奉仕』に行っている。そこで、皇居のありがたい雑草を取り、陛下にありがたいお言葉をもらい、お土産に菊の御紋の入ったありがたいサブレを買い、やはり菊の御紋の入ったありがたい夫婦ばしなどを買い、ちょっとだけ高級なホテルに泊まり、翌日は『はとバス』に乗って都内を観光して帰ってくるのだった。  
 そして、そういう、ありがたくもしゃれた楽しみを全員が共有していることは、話題が合うというだけでなく、彼女たちの連帯と団結にも大きく寄与しているのだった。
「彩ちゃん、おめえも勤労奉仕さ行ってみねえが?」  
 彩はマチに勧められたことがある。
「キンロウホウシですか?」  
 言葉の意味も分からずポカンと口を開けた彩に、マチは満面の笑みを浮かべた。
「ああ、たいしたいいもんだよ」  
 そう言って、マチは23年前の体験談をイキイキと語ってくれたのだった。  
 それだけではない。彼女たちはとにかく演芸が大好きで、笑いが好きで、盆踊りやお祝い事があると、清水の次郎長や国定忠次の扮装をして大はしゃぎをし、腰が抜けるほど笑って、踊って、歌った。そして、最近では、大掛かりなツアーまで組んで『氷川きよし』や『綾小路きみまろ』を見に、県庁のある町まで出掛けていくのだった。
「氷川きよすは、ほんに心のきれえな若もんだ。おら大っ好ぎだなあ」  
 乙女のような目で88歳のヒナというおばあさんが語った。
「イナカッペもいいが、キビバロのほうがずっとおもしれえな。おらキビバロのカシェットテップも買ったんだ。1480円した」  
 そう教えたのはサダヨという97歳のおばあさんだった。  
 彼女たちは彩に、物を大切にすることをはじめ野菜を中心にした質素な食生活、笑うこと、人生を楽しむことの大切さも教えてくれた。同時に、それが何よりも長寿の秘訣であるということも。  

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12『要三からの電話』

 ルルルルル、ルルルルル・・・。  
 居間の電話が鳴った。
「彩、出ろ!」  
 立ち上がろうとしたのり子を制してスミが言った。
「あっ、はいはい」  
 彩が電話に出ると、相手はしゃがれた声で、
「美樹か」  
 と言った。
「あっ、いえ。私手伝いの者です。美樹さんはまだお見えじゃないみたいですが・・・」
「そうですか」  
 男は落胆したようだった。
「ええ」
「貴志君はおりますか? あっ、私は美樹の父親です」
「あっ、どうも。はい、少々お待ち下さい」  
 彩は受話器を置くと慌てて座敷に走った。  
 貴志は源蔵のそばで何か話していた。彩は、何となく貴志にだけ告げたほうがいいと思って、目が合った貴志を手招きした。貴志が彩の元にやってきた。
「美樹さんのお父様から電話です」  
 彩は声をひそめて言った。
「えっ?」  
 貴志が緊張するのが分かった。
「何て?」
「いえ、何も。貴志さんを出してって」
「そう」  
 貴志は、そう言って神妙な顔で居間に向かった。
「もしもし、貴志です」  
 受話器を取り上げた貴志が言った。
「貴志君、本当に申し訳ない」
「あっ、いえ」
「夕べ、美樹から電話があって、すぐにそっちへ行くように言ったんだが、行ってなかったんだね」
「え、ええ・・・」
「そうか、本当にすまない」
「あっ、いえ」
「美樹に、葬式には出ないようにと言われているんだが・・・」
「・・・」
「お線香を・・・」
「・・・」
「かなめさんにお線香を、上げさせてもらいたくて・・・」
「あっ、ええ・・・」
「行ってもいいかね」
「あっ、はい。もちろんです」
「ありがとう」
「ど、どうやって・・・。あのう、ぼくが迎えに行ければいいんですけど・・・」
「それなら心配せんでも・・・タクシーでも何でも・・・」
「あっ、はい。じゃあ、お待ちしています。あっ、気を付けて・・・」  
 貴志は複雑な思いで受話器を置くと、そのまままた受話器を取って美樹のケータイへ電話をかけた。スミの耳が、ふくろうのようにアンテナを広げているのは承知だったが、むしろ、スミの前で思い切り美樹を罵倒したいくらいに貴志は思っていた。
「トウルルルルルルルルルル・・・」  
 ブルブルブルブルブルブル・・・。
「トウルルルルルルルルルル・・・」  
 ブルブルブルブルブルブル・・・。  
 受話器の呼び出し音と呼応して鳴っている音があった。  

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13『ミズクラゲ』

 それは、居間のテーブルの上で小刻みに震えるバイブ音だった。慌てて電話を切った貴志は、美樹のケータイを握って勝手口に走った。美樹の靴があった。貴志は、すぐさまきびすを返して寝室のドアを開けた。ベッドの上に、打ち上げられたミズクラゲのようになって横たわっている美樹の姿があった。
「帰ってきてたのか」  
 貴志が言った。美樹は、腫れぼったい目を重そうに少し開けた。
「今、お父さんから電話があったよ」  
 美樹は、まぶしい物を見るようにして貴志を見ると、ゆっくりと上半身を起こした。
「で?」
「今日、葬式に来るそうだ」
「えっ?」
「是非お線香を上げたいって」
「迎えに行ってくるわ」  
 美樹が立ち上がりながら言った。
「えっ?」
「すぐ戻るから」  
 そう言って、美樹はケータイとバッグを持った。
「おい!」  
 出ていこうとする美樹を貴志が呼び止めた。
「今日は葬式なんだぞ!」  
 ドアを開けようとして美樹は立ち止まった。
「お前は喪主の妻なんだぞ!」  
 語気を強めて、貴志が美樹の後ろ姿に言った。
「そうだね」  
 美樹は振り返らずに低い声で答えた。
「美樹、お前・・・」
「あっ、ジャム死んだから」  
 貴志の言葉をさえぎるように、表情のない声で美樹が言った。
「・・・」
「じゃ」
「おい!」  
 バダンッ!  
 ドアを開けて廊下に出た美樹の前に、トイレから出てきたのり子がボーッと立っていた。
「おっ、アバ」  
 と、のり子。
「おっ」  
 と、美樹。
「おめえ、いだのが?」
「ああ」
「ジャム食ったが?」
「あん?」
「ネゴのジャム食ったのが?」
「ああ、食った食った」
「うめがったが?」
「ああ、うめがった、うめがった」
「そんたにうめえのが? ネゴのジャム」
「ああ、ベロ抜けてほっぺも落ちるわ」
「・・・」
「じゃ」  
 美樹は、軽く片手を挙げてのり子に手を振ると、スルスルと廊下を滑るように通って勝手口を出ていった。  

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14『妖怪蛇骨ばばあ』

「ほっぺ抜げるほどうめえっつうど」  
 台所に戻ったのり子が言った。
「えっ? 何がですか?」  
 うまいものには目がない彩が即座に聞いた。
(それを言うなら舌が抜けるか、ホッペタが落ちるじゃないかな)  
 そう思いながら、隣にいた郁子も身を乗り出した。
「ネゴのジャムだど」
(えっ? ネコ? ジャム? 何、何、何?)  
 彩と郁子は、同時に顔を見合わせて目をパチクリさせた。
「あいい、そんたにうめえもんだべが」  
 のり子は、まだ合点がいかないといった表情で首を傾げている。
「のり子、おめえバガなごど言ってねえで、こっちゃ来て座れ」  
 余裕をかまして、読めない新聞の社会面を広げていたスミが言った。
「んだって、ほっぺ抜げで、ベロ落ぢるぐれえうめえって、アバ言ってだど」
「何だど! 誰だど?」
「あん?」
「おめえ、誰どしゃべってきたんだ?」
「アバ」
「アバって美樹が?」
「んだよ。アバっつえば美樹だべ。今そごでアバど」
(えっ? やっぱり美樹さんいるの?)    
 彩は、今朝のコーヒーカップを思い出した。
「して、どさ行った」  
 スミがのり子に詰問した。
「あん?」
「アバ、どごさ行ったが聞いでんだ」
「ああ、表さ出はっていったな」  
 スミの顔が急に険しくなった。  
 ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ・・・。  
 その時、炊き上がりを知らせる炊飯器のブザーが鳴った。  
 それとほぼ同時に、
「あいい、何だべ、今救急車行がねがったが?」  
 と言って台所に入ってきた者があった。  
 マチだった。マチは両手に長いゴボウを2本持って、まるで『妖怪蛇骨ばばあ』のように、ヌーッとそこに立っていた。
「あっ、おかえりなさい!」
「彩ちゃん、今救急車の音したべ」 
「えっ? さあ、炊飯器のブザーの音じゃないですか?」  
 彩は郁子の顔を見た。
「サイレンの音ですか? 聞こえなかったですね」  
 郁子が首を横に振った。  
 カンカン、トトトト・・・。  
 耳を澄ますと、座敷のほうで洋の叩くパーカッションの音が鳴っていた。
「あいい、誰が悪くなったんでねえべな」  
 マチはそわそわしながらそう言うと、持っていたゴボウを彩に差し出して、
「今リン子がらもらったんだよ。キンピラでも作ってけれ、彩ちゃん」  
 と言った。
「あっ、はいはい」  
 彩は、土の付いたごぼうを受け取ると早速それを洗い始めた。  

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15『白木のお膳』

「とごろでスミ」  
 スミは、読めない新聞の経済面を見ているようだった。
「・・・」
「スミ」  
 マチはスミの顔をのぞき込んだ。
「・・・」
「ダメだ、寝でるわ」  
 マチが、彩たちを見てあきれたように笑った。
「あいい、このバンバ何としたもんだべ」  
 のり子はそう言って、新聞紙をクルクルときつく巻いて長い棒を作った。  
 バヅッ!  
 容赦ない1発だった。  
 スミは目を覚ました。
「スミ、白木のお膳っこさ上げるもの作らねくていいのが?」  
 マチが聞いた。
「あん?」  
 スミは、頭をなでながらのり子をにらみ付けた。
「おらは何も聞いでねえ。団子ど留守番っつうごどしかな」  
 読むふりをしていた新聞をぞんざいにたたみながらスミが言った。
「あいい、んだって作らねばねえべさ」  
 マチが言った。
「ああ、忘れでだなあ。それもあったなあ」  
 新聞紙の棒で自分の肩をポンポン叩きながらのり子が言った。
「彩、ちょっと貴志呼んでこい!」  
 スミが言った。
「あっ、はーい」  
 彩は、郁子に「お願いね」と目で合図を送りながらゴボウを手渡すと、エプロンで手を拭きながら貴志を呼びにいった。  
 間もなくして貴志が現れた。
「何かご用ですか?」
「おめえ、仏さんさ上げる白木の膳、何とすんだ?」  
 スミが聞いた。
「んだんだ、あれがねえどダメなんだよ」  
 マチが言った。
「こういう、こう白木の、こう四角い・・・」  
 のり子は、この際どうでもいいと思われるお膳の形状を説明したがっていた。  
 貴志は、今まで彼女たちに見せたことのない、会心の笑みを浮かべてこう言った。
「あっ、お膳は葬儀社が持ってくるって言ってましたから大丈夫ですよ。白木のやつでしょ」  
 余裕の表情でそう言い終えた貴志は、まだ両手で白木の膳の形状をなぞっているのり子に、
「はい、はい。分かります、分かります」  
 と言って肩をポンと叩くと、会心の笑みを持続させたまま、今度はスミに向かって、
「その心配には及びませんよ」  
 とキッパリと言った。
「んだって、おめえ。膳の中身はどうすんだい?」  
 マチが聞いた。
「で・す・か・ら!」  
 貴志の口はまだ笑っている。目だけがちょっときつくなった。
「それは」
「んだって・・・」  
 マチが口を挟もうとした。
「葬儀社が全部持ってくるんですって!」  
 けんもほろろに貴志は言った。  
 そして、まだ四角をなぞって手を動かしているのり子に向かって、要らないというふうに手を横に振って、バカにするようにうなずいてからクルリと向きを変えた。
「あいい、本当にいいんだべが」  
 マチが不安そうに言った。
「貴志がああ言うんだがら、いいんだべよ!」  
 スミがぞんざいに言った。
「んだって、中身まで持ってくるべが?」  
 心配が解消されないマチが食い下がった。中身とは、おつゆ、ご飯、おかず、お漬け物のことだった。
「いいんだでば!!」  
 スミがマチの心配をぶった切るように言った。
「今どぎの葬儀屋っつうのは、中身もみーんな持って来るんだべよ!」
「んだって・・・」  
 と、まだ食い下がるマチに、
「んだば、つゆっこだげでも煮でおぐが。どうせおらだぢも食わねばねえがらな」  
 と、スミは言って彩を見た  

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16『はやす』

「彩、ササギまだあっか?」
「あっ、はい。少し残ってます」
「したら、それ、はやせ!」
(はやせ?)  
 郁子も彩もポカンとして顔を見合わせた。
「えっ? はやせって?」  
 彩がスミに聞いた。
「はやせって・・・。何だべ、それも分がらねのが。マチ、教えでやれ」  
 マチは立ち上がって彩たちの元に来ると、
「あいい、おらだぢだば『はやす』って言うけど、彩ちゃんだぢは分がらねえべなあ」  
 と言いながら、包丁を持ってササギを細く刻み始めた。
(ああ、『はやせ』って『切れ』ってことだったのね)  
 2人は納得した。
「はやせってどういう意味かと思いましたよ」  
 郁子が言った。
「それにしても、どうしてはやせなんでしょうね」  
 彩が言った。
「ちょっと想像つかないですね」
「聞いてみましょうか?」  
 そう言った彩だったが、以前、スガヅばあさんに『ながらまんず』の意味を聞いた時のように、たぶん正確な答えは得られないだろうとも思っていた。
「ええ、お願いします」  
 郁子は興味津々の目で彩を見た。  
 郁子の熱意にほだされた彩は、ダメモトで聞いてみることにした。
「あのう、どうして、こう、切ることを『はやす』って言うんですか?」  
 彩は切る身振りを交えて聞いた。  
 ポカンと口を開いたままマチが振り返った。
「あいい、はやすって・・・なあ」  
 マチはそう言ってスミを見やった。スミは、何ばかなこと言ってるんだと言わんばかりに彩を見て、
「はやすがら、はやすだべ!」  
 と言った。
(やっぱりな)  
 彩はそう思ったが、郁子は不満足そうだった。
「そのササギ、鍋さ煮れ!」  
 スミの指示が飛んだ。
「鍋、鍋、鍋・・・」  
 彩は、小鍋に水を入れて電磁調理器にかけた。
「あっ、郁子さん。味噌、冷蔵庫にあったはずだけど探してくれますか?」  
 彩はそう言って自分はダシを探した。
「あります。ちょっとだけど。お味噌」  
 冷蔵庫を開けて郁子は味噌を探し出した。
「あれっ? ダシないな」  
 いくら探してもダシは出てこなかった。
「ダシないですね」  
 彩が言うとスミは、
「ジャガイモ煮れ!」  
 と言った。
「ジャガイモですか?」
「ああ、ジャガイモがらダシっこ出るがら」
(なるほど。そう言えば・・・)  
 彩は思い出した。  
 かつて彩は、トマトを煮るといいダシが出るとリン子に聞いたことがあった。それは昔からの知恵なのだという。「へえ」と思って実際やってみると、確かに極上のダシが出た。そして、それからしばらくたって、NHKの『ためしてガッテン』でもそのことが証明されたのだった。カツオブシや昆布、イリコからしかダシが出ないと思っていた彩は、自分はいかに知らないことだらけなのかということに気付いて恥ずかしかった。
「彩、モルコササギもあったな」  
 スミが言った。
(モロッコインゲンのことね)  
 彩は察しがついて冷蔵庫からそれを取り出し、手早く洗った。
「湯っこ沸がしてそれも煮れ。塩っこ入れんの忘れんな」  
 またスミの指示が飛んだ。
「郁子さん、お願いしてもいいですか?」  
 ジャガイモを切りながら彩が言った。
「はい。塩、塩、塩っと」
「あっ、何かその下のほうにあったみたいですよ」  
 少し先輩の彩が、サイドボードを指さして言った。郁子は、塩らしきものの入ったタッパーを見つけた。
「あれっ?」  
 ふたを開けて中をのぞいた郁子は首を傾げた。
「これ、もしかして砂糖かも」
「えっ?」  
 郁子は人差し指でなめてみた。
「これ砂糖ですね」
「えーっ?」
「うん、甘いです、甘いです」
「あれー、じゃあどこだろう」  
 アフリカの象は、何日もかけて塩を求めて移動をするという。郁子と彩の果てしない塩探しの旅が始まった。
「何だ? 塩もねえのが。このくされ家には」  
 その様子を見ていたスミが怒気を込めて言った。『銭の城』は、とうとう『くされ家』に成り下がってしまった。
「あいい、おら取ってくるわ。家さ1袋あっから」  
 マチが今日3回目の頭巾をかぶった。  

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17『アンドロイド』

 時計は、はや7時半を回っていた。  
 座敷には二所谷が到着していた。  
 二所谷は今日も大量の傘を持ってきた。傘は計150本は下らない数になったようだった。  
 今日の二所谷はどこか緊張した面持ちで、動作もアンドロイドのように硬かった。アンドロイドは1人ではなかった。もう1人、というか1体というべきか、女のアンドロイドを従えていた。女のアンドロイドは、無機質、無表情で、マネキンのような硬い足に光沢のあるストッキングをはき、紺色のピッチリした制服を着、頭はボブカットだった。
「喪主さん、うちの長谷川です」  
 二所谷はそう紹介した。このアンドロイドは、長谷川と名付けられているようだった。
「はじめまして、長谷川と申します」  
 アンドロイド長谷川は、無機質な声でそう言って名刺を差し出した。
「あっ、どうも。宮下貴志と申します。よろしくお願いします」  
 貴志が言った。
「この度は大変ご愁傷様でございます」  
 アンドロイド長谷川はそう言って、上体を大きく傾けてお辞儀をした。それは、まるでマイケル・ジャクソンの前傾45度ダンスに匹敵する角度だった。
(この動き、どっかで見たことあるぞ)  
 貴志はマイケル・ジャクソンではなく、会社の前の交差点でビラをまいている男を思い出した。  
 その男は、雨の日も風の日もビラをまいていた。排気ガスですすけた顔、安いビニール製の革ジャン、カモノハシのくちばしのような幅広の、ほこりをかぶった黒い靴は、1年中変わることがなかった。  
 腰から上だけを45度に傾けた変な姿勢て、無表情にビラを配っているその男を、貴志は「ひょっとしたらこいつはロボットじゃないだろうか疑ったことがある。ビラをまくために開発されたロボット。『ビラまきロボット』。そう思ってよく見てみると、彼の右耳から首の付け根まで、何やら白いコードのようなものが走っているのだった。
(あれば充電用のコードかもしれない)  
 貴志はその男に注目するようになった。時々立っていないことがあると、
(修理に出してるんだな)  
 と思ったりした。案の定復帰した時の彼は、顔のすすは少し取れ、安物ではあったがジャンパーも新しくなり、動きも軽快になっているのだった。  
 そこに謎を解く手掛かりがあるような気がして、彼が配っているチラシの店を訪ねてみたこともある。しかしその店は、『ヘアサロンロジック』という何の変哲もない普通の美容院だった。
「今日、サンダービラまき君いないね」
「残念! 見たかったなあ」  
 交差点で信号を待っていた時、隣のアベックの会話が耳に入った。貴志は、サンダーとは「サンダーバードのことではないだろうか」と思った。確かにあの男の動きは、サンダーバードの動きとうり2つだ。貴志は、自分以外にも彼のファンがいたことを知ってなぜかうれしくなった。
「私が、弔電を奉読させていただきます」  
 このアンドロイドの使命は、弔電を読み上げることにあるようだった。『弔電アンドロイド長谷川』は、そう言ってまた前傾45度にお辞儀をすると、周辺情報をコンピュータにインプットするかのように、座敷を360度、まばたきしない目でグルリと見回した。  

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18『一枚岩』

「あっ、ところで葬儀屋さん。あのう、白木のお膳なんですけど・・・」  
 貴志が言った。
「あっ、それでしたらこちらに」  
 二所谷は、そう言って持って来た段ボールの箱を開けた。
(あれっ?)  
 白い紙に包まれた真新しい白木のお膳だった。
「あのう、中身は?」
「はい?」
「あっ、いえいえ、中身ですけど・・・」  
 貴志が遠慮気味に聞いた。
「ああ」  
 そう言って二所谷は、白い包装紙を外してお膳をテーブルの上に置いた。
「ええと、これにご飯、これにおつけ、これに御新香ですね。この中くらいのと大きめのに何か一菜ずつです」
(そういうことじゃなくてさ)  
 貴志は落胆し、そしてすべてを合点した。貴志はそのお膳を持って渋々立ち上がると、台所に向かって歩き出した。
「すみません、中身は作ってくださいってことでした」  
 さっきとは打って変わって、萎縮した照れ笑いを振りまきながら台所に入ってきた貴志は、スミたちに向かってそう言った。
「ほらみろ!」  
 スミが敵を取ったように言った。
「んだべ、おらもおがしいと思ったんだよ」  
 のり子が言った。  
 貴志は彩と郁子にお膳を渡して、左手で拝みながら、
「これ、お願いします」  
 と、バツの悪そうな顔で言って逃げるように帰っていった。  
 彩はお膳に炊きたてのご飯と、できたてのササギとジャガイモのみそ汁を盛り付け、のり子が持ってきたたくあんを置いた。郁子はおかずの器の1つに、ササギとブロッコリーのおひたしを載せ、もう1つの器に、隣にあった総菜を置こうとして思わず手が止まった。
「何ですか? これ」
 『あれ』だった。彩はビクッとした。
(あっ、そう言えば郁子さん、さっきいなかったんだわ。どうしよう。私が作ったと思われたら・・・)  
 彩はとっさに自己防衛本能が働いた。
「それ、さっきのり子さんが揚げてくれたナスの天ぷらなんですよ」  
 心持ち『のり子さん』にアクセントを置いた言い方だった。
「ああ、これナスの天ぷらなんですかあ」  
 菜ばしでつつきながら郁子が言った。
「そうですよねえ、のり子さん。ねっ!」  
 彩がのり子に水を向けた。
「あん?」  
 のり子が振り返った。
「これ、これ。ナスの天ぷら・・・。ねっ! ねっ!」  
 彩が言った。郁子が一枚岩のようにくっ付いて離れない得体の知れないものを、のり子に見えるようにつまみ上げた。
「んだ」  
 のり子が言った。  
 それを黙って見ていたスミは、
「おめえ、やっぱり少し変わったどごあるな」  
 と言って、変人を見るような目でのり子を眺めた。  
 一枚岩になっている『とろみあんかけ風ベチャベチャくっ付きまくりナス』は、はしによるはく離はかなわず、結局包丁で適当な大きさに『はやす』ことになった。  
 こうして、どうにか白木のお膳は整い、例によってスミが、ここは俺の出番とばかりに、いんぎんにそれを祭壇に運んで行ったのである。  

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19『かつら』

 8時になってもまだマチは戻らなかったが、代わりに一三の妻かつらが到着した。かつらは元高校の国語教師だった。ロマンスグレーの髪を後ろで束ね、地味だが品のいい顔立ちと服装をしていた。
「皆さん、おはようございます!」  
 かつらはそう言って、元気よく全員に笑顔で挨拶をすると、見覚えのない郁子に向かって、
「はじめまして、宮下かつらです」  
 と言って頭を下げた。
「あっ、どうも、はじめまして。私、貴志さんのおいの嫁で奥田郁子です。よろしくお願いします!」  
 郁子も笑顔で頭を下げた。
「あらまあ、スミさん、のり子さん。今日は随分早くから頑張ってらっしゃってるんですってね」  
 かつらは、作業場の新聞紙に半ひざをついて言った。
「ああ、4時だったなあ」  
 スミは、新聞の社説のところを広げ見ながら難しそうな顔で言った。
「すごいわねえ。私も、今日は十六団子の作り方を勉強しておこうと思って来たんですよ。これ、伝承しておかなきゃと思ってね。今日はどうかよろしくご指導下さい」  
 かつらは嫌みなくそう言って立ち上がると、今度は彩に向かって、
「彩さん、昨日から大活躍なんですってねえ!」  
 と笑顔を向けた。
「いえいえ、とんでもないです。かえって迷惑ばっかり掛けちゃってるんですよ」  
 彩は謙遜した。
「アバいねえがら、てんてこまいでよ」  
 スミの悪態がまた始まりそうだった。
(アバ?)  
 一瞬、ポカンとしたかつらだったが、キュルキュルッと素早く頭を回転させると、
「まあねえ、ご遺族はいろいろ大変ですからねえ。こういう時こそみんなでサポートしてあげないと。さあ、じゃあ何からやるんですか? スミさん」  
 と言ってニッコリ笑った。
「おはようございます。割烹中川です。お膳を下げにまいりました」  
 勝手口で声がして、昨日とは違う若い男が中に入ってきた。
「どうぞ、お願いします」  
 彩が案内して空のお膳が運び出されていった。最後に、若い男が段ボールの箱を持ってきて言った。
「あのう、これは喪主さんから皆さんにということで朝のお弁当です。全部で10個あります。向こうにも10個置いてきました。えっと、それから、お昼の分ということで、手伝いの方の折り詰めが12個と、ええと、皆さんにも同じものが5つあります。お茶のペットは全部で30個かな、あります。ここに置いてよろしいでしょうか」
(うそっ!)  
 彩は驚いた。スミは、読むフリをしていた新聞を急いでたたむと、よっこらしょっと腰を上げた。そして、若い男の前にしゃしゃり出て、
「ごぐろうさん!」  
 と言った。  
 若い男が帰ると、スミはまた例によって弁当と折り詰めの中身をチェックした。  
 のり子がスミに聞いた。
「あいい、まだごっつおだが?」  
 スミは、
「なあに、てえしたごどもねえ」  
 と言いながら、朝のお弁当を10個、2回に分けてテーブルに運んだ。  
 のり子が、目をらんらんと輝かせながら弁当のふたを開けた。
「おおっ!」  
 お弁当というには贅沢なほどの、立派な会席料理だった。
「まんず、まんま食ってがらだな」  
 洋に食べさせるために座敷に戻った郁子をのぞいて、スミ、のり子、彩、そしてかつらだけになった台所で豪華な朝食が始まった。  

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20『はやすの意味』

 かつらは今食べてきたばかりだということで、弁当は開かずお茶を持って会食に加わっていた。
「何だこれ、でっけえシジミキャンコだな」  
 のり子が、見たこともないハマグリの酒蒸しをつまみながら言った。
「それはハマグリですね。まあ、この時期に珍しいわねえ」  
 かつらが教えた。  
 のり子は、一つ一つの料理にかつらの解説を求めた。
(それにしても、朝からこんなごちそうを食べていいんだろうか)  
 彩は、何だかそわそわして落ち着かなかった。  
 彩は弁当にはあまり手を付けず、モロッコインゲンとブロッコリーのおひたしを中心に軽く食べた。さすがに、のり子の揚げた天ぷらは、当人はもちろん誰からも見向きもされずに放置されていた。  
 彩はこの機会にと思って、かつらに聞いてみた。
「例えば、こういうのを切るときに、『はやす』って言いますよね?」  
 彩が、モロッコインゲンのおひたしをつまんでかつらに見せた。
「ええ、言いますねえ」
「あのう・・・疑問だったんですけど、どうして切るじゃなく『はやす』なんですか?」
「それはね、彩さん」
「はいはい」
「『サクラチル』ってあるでしょう」
「ええ、受験に失敗したときの電文ですね」
「そう、落ちるってストレートに言う代わりに『桜が散る』って言い方をするわよねえ」
「ええ」
「結婚式のスピーチで使っちゃいけない言葉。別れる、離れる、切れる、割れる・・・」
「帰る、戻る、終わるとかですね」
「そうそう、そういうのを『忌み言葉』っていうわよねえ」
「ええ」
「それと同じでね。切るっていうのは何だかねえ。血なまぐさいでしょ?」  
 かつらは、そう言って顔をしかめた。
「だから『はやす』になったのね」
「じゃあ、『はやす』って、もしかして、こう、ひげを生やすとかの『生やす』なんですか」  
 彩はあごに手をやりながら聞いた。
「そう」
「へえー! そうだったんですかあ・・・切るが生やすねえ」  
 彩は感心した。  
 スミとのり子は、無言で黙々と弁当を食い続けている。
(あっ! この顔『よせやい顔』だ!)  
 彩は思った。  
 『よせやい顔』とは、黒澤映画『素晴らしき日曜日』の中で、デートの時に主人公の女の子が見せる眉根にしわを寄せたとても沈鬱な顔のことで、周平と彩が発明した造語だった。男が「よせやーい!」と言って女の子の眉間のしわを広げるシーンからきている。
「あっ、よせやい顔だ!」  
 食いしん坊の彩は、食事中によく周平に言われたものだが、これは彩に限らず人がたまらなくおいしいものを食べているとき、その顔は必ずと言っていいほど『よせやい顔』になっているという不変的事実を彼らは突き止めていた。不思議なことに、『非常においしい顔』と『非常にまずい顔』は、極めて酷似しているのだ。
(この弁当、相当うまいんだな)  
 彩は思った。
「日本語って本当にデリケートよねえ。何もそんなにねえと思うようなことなんだけど、わざと反対の言葉を当てて縁起の悪い言葉を避けたり、表現を微妙にあいまいにしたり。まあ、結局のところそういう国民性ってことなんだろうけど、私はそういうところ好きなんだなあ」  
 かつらは国語教師っぽくそう言った。
「彩さんはご存じかもしれないけど、『スルメ』のことを『アタリメ』って言うでしょ?」
「スルと当たるですね」
「そう。葦わらの『アシ』は『ヨシ』とも言うわね」
「あっ、そうですね。悪しと良しですね」
「かつて映画のことを『キネマ』って呼んでたのもそうみたい。『死ねマ』じゃあ、ちょっと怖いですもんねえ」
「ああ、そうだったんですか。外来語まで変えちゃったんですね、日本人って」
「トイレもいろんな言い方があって」
「お手洗いとか、はばかりとか」
「そうね。『ご不浄』なんて素敵な言い方もあるわね」  
 黙々と弁当を食っていたのり子が、その話に反応して腰をむずむずさせた。
「おら、ちょっくら便所さ行ってくるわ」  
 のり子はそう言って立ち上がった。  
 かつらと彩は、顔を見合わせてクスッと笑った。
「でも、切るをはやすって言うのって、この辺でしか言わないような気がするんですけど。おばあちゃんたちが発明したんでしょうか?」  
 彩がもう一歩踏み込んで質問した。
「北前船って知ってる?」
「ええ、江戸時代から明治にかけて、この辺にも寄港していたあれですよね」
「そう。この辺のお米や杉を、天下の台所、大阪まで運ぶために河村瑞軒が作った航路よねえ。その船で、上方からいろんなものが運ばれてきたんだけど、その中には上方文化とか京文化みたいな文化的なものも多かったのね。そうそう、酒田には舞妓はんもたくさんいたんですってねえ。今もいるらしいのよ」
「そうなんですか」
「だから、そういうふうにして上方から入ってきた言葉だと思うんですよ」
「ああ、『はやす』ですか?」
「ええ。結構、京言葉も多いんですよ、この辺は」  
 かつらはそう言って、のり子の漬けたたくあんをつまんで口に運んだ。  
 ボリッ、ボリッ・・・。
「おいしい! これなんかも『ガッコ』っていうでしょ。『雅の香』なんて素敵じゃないですか」  
 かつらはそう言ってお茶を一口飲むと、
「そう言えば、周平さんのおばあさまの言葉は素敵でしたよ」  
 と言った。
「へえ、そうなんですか?」
「タマさんっていったかしら。何かに感激したときにね。『さても、さても、さても・・・』って言うの。まるで歌舞伎役者さんみたいでしたよ」
「へえ、何かかっこいいですね」
「ええ、『かたじげねえ』とか『不調法いだします』とかね。美しい日本語をお使いでした」
「へえー。あのう、もう一つ聞いていいですか?」  
 持ち前の好奇心に火がついた彩が聞いた。
「ええ、何かしら?」
「同じ『切る』でも、どうしてハサミで紙を切るときは『はやす』って言わないんですか?」  
 彩は、ふと浮かんだ疑問をぶつけてみた。
「なるほどね。いい目の付けどころね。これは恐らく文化の浸透性と関係があるような気が私はするの」
「文化の浸透性ですか?」
「ええ、人間やっぱり、まずは食べることじゃない?」  
 自分の弁当を食い終え、別の弁当にまで手を付けているスミを見やりながらかつらは言った。
「いろんな文化の中でも、最も早く、誰にでも定着する文化は『食文化』だと思うのね」
「そうです、そうです、その通りです!」  
 おいしいものには目がない彩が、目を輝かせてひざを打った。
「ねっ、だから当然、台所方面にまずは『はやす』が定着したんじゃないかしら」
(なるほど、それ真理かも)  
 彩はかつらの説に納得した。  

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21『言葉の乱れ』

「でも、最近は随分と言葉が乱れましたね」  
 かつらは残念そうな顔で話題を変えた。
「主人が嘆いてましたわ。言葉は心を表す鏡なのに、本来、人品骨柄が立派な人であるはずのお坊さんが、極めて乱れた日本語を使ってるって。嘆かわしいって漏らしてましたのよ。特に『マジこいて』には驚いたって。『こく』っていうのは、正しくは『やたらにすべきでないことを、はばかりもなく人前でする』っていう意味でしょ。それなのに、あれはおかしいって。テレビを見ててもいろんな間違いがありますものね。『サバこく』なんてね。変ですよね。サバはよむ、つまり数えるものであって、こくものではありません。そうそう、先日、立派な企業の経営者が、『赤こく』って言ってましたけど、あれは赤字を出す、とか赤字になるって言ってほしいですよね。何だかちょっとねえ、下品な感じがしますよねえ」
「屁こぐはいいのが?」  
 スミが突然話に飛び込んできた。
「それは正しいですよ、スミさん。おならはいいんですよ」  
 かつらが言った。
「でも、別の意味で食事中はどうかしらねえ」  
 そう言ってかつらが笑い、彩も吹き出しそうになった。
「ビックラこぐは?」
「それもいいですね」  
 そこへ、用を足したのり子が戻ってきた。
「あいい、スミ、おめえ、2っつ目でねえが!」  
 のり子が驚いて叫んだ。
「へん、ビックラこいだが!」  
 スミはそう言って、平然と2つ目の弁当を食い続けている。
「彩さん、『いいふりこく』っていう言葉、知ってる? そういう人のことを『いいふりこぎ』と言うんですけど」
「えっ? 何ですか、それ」
「いい振りをこく。つまり、見栄を張って格好つけてる人のことなんだけどね。関西弁では『エエカッコシイ』って言うのかしら」
「『いいふりこぎ』ですか?」
「ええ、ここの県民性は『いいふりこぎ』なんですって。この県が日本一美容室が多かったり、日本一自殺率が高いのは、この『いいふりこぎ』と無関係じゃないような気が、私はするのよね」
(うーん・・・)  
 彩は、自分をかっこ良く見せたいことと美容室が多いこととの関係は飲み込めたが、自殺が多いこととの相関関係までは上手く飲み込めなかった。
「この弁当見ろ!」  
 2個目の弁当を平らげたスミが言った。
(えっ?)  
 彩が弁当を見た。
「こういうごどやんのが・・・」  
 そう言ってスミは、後ろに手を突いてふんずり返った。
「ゲプッ!」  
 その拍子にゲップが出た。
「いいふりこぎっつうんだ!」
(なるほど)  
 彩がうなずいた。  
 その時外に気配がした。  
 彩とかつらが視線を向けた先に、草刈り機を肩に背負ってズンズン歩いてくる男たちの姿あった。もうすっかり外は明るくなっている。
「あっ、ダミ若勢が来ましたね。スミさん、私たちもそろそろ始めましょうかね」  
 かつらはそう言って、スミたちが平らげた弁当を片付け始めた。  

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22『ナマス』

 ダミ若勢たちは、8時に墓地に集合して全員で草を刈った。そしてそれが終わると、宮下家の墓をきれいに掃除する班と、ダミ行列の順路に沿って草を刈ったり、『ログジンジョ』という道標を付けたりする班に分かれ作業をしていた。先に戻ってきたのは前者の墓掃除班6人衆だった。  
 先頭を歩くのはこの班のリーダー格、東山益男だった。63になるこの男は、もっぱら林業を生業としながら、地元の猟友会にも籍を置き、かつてその筋の全国大会にも出場したことがある一級のスナイパーだった。以前この辺で撮影された映画『イダヅ』でも、山のガイド役をしたことがある。彼の家には、その時にもらった桜田淳子のサインが額縁に入れて大切に飾ってあった。
「周平、おめえ、クマの肉食ったごどあっか?」  
 散弾銃の銃口をのぞき込みながら、益男は得意気に言った。周平が村に戻ったばかりの頃、ウサギの子をもらうために益男の家に行った時のことだ。
「1回あるっす。昔、小学校の近くさクマ出で、誰だがが打って、そごの家でクマ鍋やって、確かそん時・・・」
「クマの肉、好ぎだが?」
「ああ、あんまり覚えでねっすねえ」
「シカの肉食ったごどあっか?」
「いや、ねっすねえ」
「うめどお!」  
 益男はニヤッと笑った。
「おら、毎冬、北海道まで行って打ってくる」
「シカだすか?」
「ああ、エゾジカだ」  
 益男は散弾銃を構えて銃口を周平に向けた。
「こうやって・・・」  
 カチッ!  
 益男は引き金を引いた。
「バンッ! だ」  
 周平が驚いてのけ反った。
「結構いるんですか? エゾジカ」
「ああ、いっぺえいる。道走ってれば何匹も出てくる。したらバッと飛び降りでバンッ! だ」  
 彼は冬ごとに北海道に行き、道ばたに現れたエゾジカを何匹もしとめて帰ってくるのだと自慢した。
「けっから!」  
 益男はそう言って巨大な冷凍庫を開け、5キロもある肉のブロックを周平に渡した。
「少し融げだどご、はやしてニンニグ醤油付けで食ってみれ」  
 益男は自慢する相手が欲しかったのか、それからしばらく、おのれの武勇談を周平に話して聞かせた。  
 それはおおむねこういうものだった。  
 俺は今ではクマとも素手で戦えるようになったが、こんな俺も小さい頃は軟弱だった。クマはおろかカエル1匹殺せなかった。俺がどうしてこんなに強くなったか教えてやろうか。  
 俺は小さい頃、ウサギ獲りに掛かって死んでいたウサギを食った。それが当たってばい菌が入り、肩のリンパ腺が腫れ、生死の縁をさまようような重篤な病にかかったことがある。俺は悔しくて、情けなくて、それからあらゆる修業を重ね、今ではどんな腐った肉でも食えるような頑強な体と内臓を作り上げたのだ。
「ほら見ろ! この通りだ」  
 そう益男は言って、シャツの袖をたくり上げてマッチョスタイルを作った。ダチョウの卵が入っていそうな腕だった。
「今だば、なんたら肉も好ぎんなった」
「何の肉、一番好ぎだすか?」  
 興味半分に周平が聞いた。  
 益男はニヤッと笑って、
「ナマ一番!」  
 と言った。
「えっ?」
「クマ、シカ、イノシシ、ウマ、タヌギ、ハグビシン、モグラ・・・」  
 そうやって益男はありとあらゆる動物の名前を挙げ、最後に、
「やっぱす、オナゴのナマ一番!」  
 と言って太い小指を突き上げた。  
 それから、益男はポケットからクチャクチャになったハイライトの箱を取り出すと、安っぽい百円ライターでタバコに火をつけた。ライターには、銀色のポップ書体で『フィリピンバー・アミーゴ』と印字されていた。  

 その年の夏、村の共同作業があった。  
 作業が終わってから、『慰労会』なるものが炎天下の公園で開催された。肉が焼かれ豚汁が振る舞われた。その席で益男は、紙コップになみなみ注いだ焼酎の中に、なんとナマの豚肉を入れて飲んでいた。これには周平も驚いた。  
 さらに驚いたのは、その向かいに座る金蔵だった。金蔵は、なんとビールの中に豚汁を入れて飲んでいた。
(これは、『豚汁のビール割り』と言うべきだろうか。はたまた『ビールの豚汁割り』と言うべきだろうか)  
 周平は見ているだけで気分が悪くなった。  
 やがて宴が進むにつれ、当然と言えば当然なのだが、2人は悪酔いしてお互いに絡み始めた。
「金蔵! この野郎! おめえ、おらのクマさ農薬飲ませだべ!」
「ッルッシェコノッ! クマイレバ危ネベッシャ、コノッ、バガ!」  
 クマがいれば危ないだろうというようなことを、ロレツの回らない舌で金蔵は言っていた。  
 益男は猟でしとめた親グマの子を、家の近くの犬小屋に入れて飼っていた。その子グマが、1ヶ月前に何者かによって農薬を盛られ殺害されたのだという。益男はその犯人が金蔵であるとにらんでいた。
「金蔵! いづがカダギとるがらな。覚えでろ! 農薬でねえど。これだど!」  
 益男はそう言って、いつもの銃口を向けるポーズで金蔵を威嚇した。
「ナヌッコノッ! 打デリュモンダラ打ってミュロッコノッ! このヘボクラッコノッ!」  
 金蔵も負けていなかった。  
 ヘベレケに酔った2人は、最後には取っ組み合いの喧嘩になった。村人は三々五々逃げ出したが、日が落ちて様子を見に行った周平は、そこに大口を開けた親グマが2頭、寄り添い合うようにして寝ている姿を目撃した。  

 彩が村に来てからのことだ。その益男が電話をかけてよこしたことがあった。彩が出た。
「あっ、シュ、シュ、シュッヘイさんいますか?」  
 彩の声に緊張した益男が、少しどもりながら標準語で言った。しかも『周平さん』とさん付けだった。
「はい、お待ち下さい」  
 周平が電話に出ると、益男は安心したようにいつもの口調になって、
「周平、ネットで売ってけねが?」  
 と言った。  
 以前、周平がインターネットでいろんなものが取引されていることを益男に教えたことがある。彼は何か売ってほしいらしい。
「えっ、何を?」
「マムスだ」
「マムシっすか!」
「ああ、1本!」
「1本?」
(ははあ、マムシの焼酎漬けのことだな)  
 周平は、この辺りで強壮剤としてよく飲まれている、マムシの焼酎漬けの瓶だと思った。
「いいっすよ」
「んだが、へば助かる」
「1本幾らぐらいで?」
「んっ?」
「あっ、最初なんぼくらいから?」
「ああ、値段が?」
「はい」
「適当にやってけれ」
「・・・」
「100円ぐれえでなんとだべ」
「それだば少し安過ぎねえすか?」
「んだが。へば200円でなんとだ?」  
 益男は、商取引に関しては案外弱気なところを見せた。
「はい、分かりました」
「んだば、今から持っていぐがら」  
 益男はそう言って電話を切った。  
 間もなくして、玄関に現れた益男を迎えたのは彩だった。
「キャーッ!」  
 彩が悲鳴を上げた。  
 驚いて周平が行ってみると、益男は生きたマムシを手からぶら下げてキョトンとした顔で立っていた。
「ナッ、ナッ、ナッ、ナマすかっ!」  
 周平が驚いて叫んだ。
「ああ、ナマだ。ナマ1本!」  
 残念ながら、オークションの規定上、ナマのマムシの出品はかなわなかった。  
 そのことがあってから、周平と彩はナマが大好きなこの男のことを『ナマス』と呼んでひそかに恐れるようになった。  

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23『ボンチン』

 クマのように大きな『ナマス』が、風を切って歩くすぐ後ろに、坊主刈りでボーリング球のように丸い頭、イヌに噛まれたあとがくっきりと残る団子っ鼻の小玉昭一が続いていた。  
 昭一は、小中学と周平の同級生だった。小学校の頃、勉強があまりできない昭一は、『ハカイマン』という担任に『ボンチン』というあだ名を付けられた。ボンクラでトンチンカンという意味だった。一方、顔が破壊されているという意味の『ハカイマン』というあだ名は、もともとボンチンが名付けたものだったので、ハカイマンとしてみれば、敵を取ったつもりなのだった。  
 ボンチンは頭に弱点があったが、それは必ずしも中身の弱点だけではなかった。彼は、なぜか頭部の損傷に遭うことが多かった。  
 小学校時代、周平たちは放課後になるとグラウンドに出て草野球をよくやっていたのだが、ボンチンがキャッチャーをやると、必ずと言っていいほどバットで後頭部を殴られた。なぜそうなるかというと、ボンチンはボールが自分の手元に来る前に、飛び出して取りに行ってしまうからだった。  
 ガヅン!  
 周平はグラウンドで何度この音を聞いたか分からない。その度にボンチンの後頭部には大きなコブができたが大事に至ることはなかった。ボンチンは石頭だった。  
 こんなこともあった。本来小さな頭のボンチンが、頭を倍くらいに腫らして学校に来たことがあった。話を聞くと、山奥に天然マイタケを取りに行ってスズメバチに襲われ、顔と頭を二十数カ所も刺されたのだという。普通の人間なら3回ぐらい死んでいるところだが、ボンチンはなぜか不死身と思われる奇跡の回復を遂げた。そういう意味では、中身の弱点とは反対に頭部自体は頑強だったと言っていいかもしれない。  
 周平には忘れられないボンチンのエピソードがある。  
 あれは、まだ周平の祖母、タマが生きていた時分のことだ。小学校の同級生を家に呼んで周平の誕生会をタマが催してくれたことがあった。  
 それは、周平の母さえ子が死んだ直後の冬であり、タマとしては周平を慰める意味があったのだろう。集まったのはボンチンを初め7〜8人の男子だったが、呼ばれた者のほとんどは一張羅の手編みのセーターなどを着て、普段とは違うちょっとよそ行きの格好をしていたのだが、ボンチンだけは、いつものつぎはぎのモンペをはいて、袖ぐりがテカテカになった普段着を着ていた。
「さでも、さでも、さでも。今日はよーぐ集まってけだなあ」  
 タマが目を細めて言った。  
 テーブルの上には、タマが作った赤飯や、いなり、太巻き、ぜんざい、トリの唐揚げなどの皿が所狭しと並んでいたが、何といっても全員の目をくぎ付けにしていたのは、巨大なデコレーションケーキだった、ケーキの上にはウエハースの家とカラフルなロウソクが11本立っていた。  
 こういうパーティーを一度も経験したことのない同級生たちは、顔を赤くしてもじもじしながら、緊張した面持ちで正座していた。
「ハッピバッテーツーユー!」  
 いきなりボンチンが歌い出した。  
 タマは、笑いながら慌ててロウソクに火をつけた。みんなはロウソクの火に目を奪われている。
「ハッピバッテーデアシュッヘー、ハッピバッテーツーユー!」  
 ボンチンは最後まで高らかに1人で歌い上げると、ニコニコ笑ってケーキに手を伸ばした。  
 バツッ!  
 タマがボンチンの手をひっぱたいた。
「待で、待で、まんず待で!」  
 タマが合図を出して周平がケーキの火を吹き消した。  
 パチパチパチパチパチパチ・・・。  
 タマが手を叩くと、みんなも一斉に手を叩いた。
「誕生日、おんめでど!」  
 ボンチンが叫んで、またケーキに手を伸ばした。  
 バツッ!  
 タマがまたボンチンの手をひっぱたいた。  
 ボンチンは、不可解そうにタマをにらんだ。
「さあ、まんず、みんながら、プレジェントだべ」  
 みんなは、もじもじしながらテーブルの下に手を伸ばした。全員がプレゼントとして持ってきたのは、雑貨屋で売っているお菓子の入った赤い長靴だった。
「あいい、かだじげねえなあ。さでもさでもさでもさでもさでも・・・」  
 タマは感極まって『さでも』を100回言うと、前掛けで目頭を押さえた。
「周平、いがったなあ」  
 タマはそう言って、赤い長靴を前掛けに抱えて立ち上がると、それを仏壇に供えた。そして、鉦を打ち、さえ子の遺影に手を合わせた。  
 ケーキがタマの手で切り分けられ、ミリンダオレンジとリボンシトロンの栓が抜かれ、ようやく乾杯の用意が整った。  
 タマが周平に目で合図を送った。
「今日は、みんな、ありがど」  
 周平が照れながら言った。
「かんぱーい!」  
 ボンチンが周平に成り代わって叫んだ。  
 バヅッ!  
 グラスを持ちながら、左手で伸ばしたボンチンの手をまた容赦なくタマが叩いた。
「まんず、手洗ってこい!」  
 タマが言った。  
 ボンチンの手は、黒光りするほど汚れていた。  
 最初、緊張していた同級生たちも、ごちそうを食べ、タマの話で盛り上がっていくうちに、だんだん普段の表情になっていった。
「ゲプッ!」  
 ボンチンは、大きなドクターペッパーゲップを1発してから、
「おらのニワドリの卵、うんめどう!」  
 と言った。口の周りにはクリームがいっぱい付いている。
「ケッツが裂げるぐれえ、うんめどう!」  
 ボンチンはそう言って腰を浮かし、自分のケツをポンポン叩いた。
(・・・)  
 全員、ポカンと口を開けてボンチンを見た。
「ボンチン、ケッツは初めっから裂げでるべよ」  
 ヤモリというあだ名の友だちが言った。  
 それを聞いていたタマは、涙を流して死ぬほど笑い、
「んだなあ。ケッツ裂げでねんば、あんべ悪いもんな」  
 と言って、前掛けで涙を拭った。  
 ボンチンはニヤッと笑うと、突然、大きな声で歌い出した。
「さあさ、みんなで小玉の卵を食べよう。ケッツが裂けるほーど、おいしい卵を食べよう!」  
 それは、テレビの『巨泉マエタケゲバゲバ90分』の中で流れている何かの曲の替え歌だった。  
 この歌は、家業『小玉とりっこ屋』のコマーシャルソングで、しかも自分が作詞したのだとボンチンは得意そうに言った。
「あいい、おらだば、ケッツ裂げるような卵食いたぐねえなあ」  
 笑いながらタマが言った。  
 帰る時間になり、みんなが帰り支度をして靴を履いていた時だった。なぜかボンチンの手には、仏壇の上に置かれていたはずのサンタクロースの赤い長靴が握られていた。
「あいい、このワラス! まんずまんず」  
 それを見とがめたタマが言った。  
 タマは、ボンチンの手から長靴を奪い取ろうとした。
「やめろ! バンバ。こらあ、おらのもんだ」  
 ボンチンはそう言って、タマに取られまいと長靴をギュッと握った。
「どれっ、よごせ!」
「やめろっ! バンバ!」  
 ビリッ!
「あっ!」  
 紙の長靴が裂け、お菓子がバラバラと土間に散らばった。  
 ボンチンは、散らばったお菓子を見詰めて言葉を失ったが、2秒後に、
「う、う、う、うっえーん!」  
 と泣いた。  
 タマは、ボンチンの肩をポンポンと叩いて散らばったお菓子を拾い上げると、それをみんなに分けてあげながら、ボンチンの手にも1つ握らせてやった。
「ああ、ああ、泣ぐな、泣ぐな。ほれ、おめえさ、ひとっつ多ぐやっからな」  
 そう言って、タマはボンチンの手にもう1つ、ラムネの入った包みを握らせた。  
 そんなボンチンだったのだが、彼は今、村でも一二を争う大事業家になっていた。家業の『小玉とりっこ屋』は『有限会社小玉養鶏場』と名前を変え、今では300羽を超えるニワトリを飼い、その卵を専用の販売車に積んで町場へ行商に行っていた。販売車のスピーカーからは、ボンチンが歌うあの歌が流れていた。  
 それだけではなかった。ボンチンは、天然ブナシメジや天然マイタケを販売する『小玉天然茸販売有限会社』という会社まで作っていた。かつて、漢字がまるでダメだったボンチンが作った会社名がオール漢字だったことは、もしかしたらコンプレックスの裏返しだったのかもしれない。いずれにしても、彼は金持ちになった。愛宕村の家だけではなく、高合町にも彼はもう一軒家があった。  
 こっちへ帰ってきた周平が、ボンチンの話を聞いてつくづく思ったことがある。それは『チャレンジ精神』ということだった。思えば、ボンチンは学校の勉強こそダメだったが、ピッチャーのボールが待ち切れずに取りに行ってバットでぶん殴られたり、誰も入らないような山奥に入っていってハチに刺されたり、自分でコマーシャルソングを作って売り込んだりと、事業家に必要なチャレンジ精神を小さい頃から持っていた。ボンチンは、そんな誰にもまねできない優れた才覚で、今日の成功を収めたのだった。  

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24『ゴルゴ』

 ボンチンの隣を内股でなよなよと歩くのは、本山優一という56歳の男だった。優一は、リストラに遭って7年前に大阪から戻っていたのだが、村での評判は極めて悪いものだった。
「優一は保育所で習うごどもサッパリでぎねえ男だ」
「んだ、まんづ、あいさづひとづしねべ」
「ああ、おらなんか『おはよう』っつうど、あっちゃ向いで知らんぷりしてるど」
「おらもだ。庭の植木切ってるど思って声掛げだら、こうやってアゴ上げで、フンッてなもんだっけ」
「好かねえ野郎だど、あの野郎。この前大根持っていってやった時も、『ありがど』でも『ほでまづ』(じゃあまた)でもねんだど。おら、あっだまさきたわ」  
 これは、彩が念仏の時に聞いたおばあちゃんたちの会話である。彩も身に覚えがあった。サカサマ商店に買い物に行った帰り、クルマを洗っている優一に彩は声を掛けた。
「こんにちはー!」  
 優一は完全に彩を無視した。ちょっとムッとした彩は、わざと至近距離まで近付いてもう一度、
「こんにちは、いい天気ですね」  
 と、顔をのぞき込むようにして言った。  
 優一は、青白い剃りあとを残すあごを、ツンと上に向けてソッポを向いた。
(やな感じー!)  
 彼の顔は、『ゴルゴサーティーン』ばりに劇画チックだった。パンチ佐藤のようなパンチパーマに、尾崎紀世彦のようなもみあげ、コウモリが羽を広げたような眉、麻雀の千点棒のような目、コメディアンが外人のものまねをするときに付けるようなワシ鼻、やや受け口気味にへの字に結ばれ、絶対に3ミリ以上開かれることのない薄い唇、そして山芋のように割れたあご。  
 その一方で、仕草はオカマのようにフニャフニャナヨナヨしていた。歩き方は極端に内股だったし、水道のホースを握る右手の指は、小指だけが安芸者のようにツンと立っていた。彩はその仕草に、映画『眺めのいい部屋』に出てくるセシルを思い出した。
「あの人、ちょっと苦手かも」  
 いつもの寝しゃべりの時、気持ち悪そうな顔で彩が周平に言った。
「何でなんだろうね。恥ずかしがりなのかなあ」  
 周平が言った。
「でもさあ、56にもなって恥ずかしがりじゃあ、ちょっと済まないよね」
「うーん」
「おばあさんたち言ってたわ。保育所で教えられたことが分かってないって、彼」
「えっ?」
「だからさ、朝起きたら『おはようございます』、ご飯を食べる時は?」
「いっただきまーす!」
「人に会ったら?」
「こんにちはー、こんばんはー!」
「人に良くされたら?」
「ありがとうございまーす! この辺では、どんもどんも。相撲取りは・・・」
「えっ?」
「ごっつあんです。マルハッチッ!」  
 周平は、マルハッチの高見山関の声まねで言った。  
 彩がクスクス笑った。
「悪いことしたら?」
「ごめんなしゃーい、もう二度としましぇーん!」  
 周平は子どものようにエンエンと泣きまねをした。
「よしよし、もうしないのよ」  
 彩は周平の頭をなでなでしながら、
「そうそう、そういうことを習うんだよね、保育所って」
「しつけだよな。それって親にも一番初めに教えられることかもね。要は、基本中の基本ってことだな」
「そうなのよ。それができないっていうのは、ちょっとね」
「うん、うん。他山の石にしよう」
「人のフリ見て、だわね」
「そう、反面教師」  
 2人は、彼を『ゴルゴ』とか『ウチマティー』とか『オカマティー』などと呼んで、自分たちの行動規範の反面鏡にするようにした。  
 内股で歩く『ゴルゴ』の後ろに、貴志と同級生の邦彦が、2人の若者と何かしゃべりながら歩いていた。3人は時折白い歯をのぞかせ楽しそうに笑っていた。  
 邦彦の向かって右側を歩いているのが、いかにもアスリートという感じの均衡のとれた体つきをしている槙原鉄平という23歳の若者だった。鉄平は、草刈り機のほかに重そうなリュックサックを背負っていた。彼は、派遣切りで半年ほど前に東京から戻ったばかりだった。  
 その反対側には、蛭川和彦というやはり派遣切りで横浜から田舎に戻った32歳の青年が歩いていた。  

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25『鵺』

「んでは、今がら、あれをやる」  
 いつもの場所に進み出たスミが、いつもよりもったいを付けて言った。
(いよいよだわ)  
 彩は、とうとうその時が来たと思ってワクワクした。
「ああ、その前に・・・」  
 長身のかつらの目にもスミの姿は全く見えなかった。かつらは、キラキラした目で、期待に胸を膨らませながらスミの声を聞いている。
「ユンベ、おがしげな夢を見だ」
(あっ、あれだ)
「ヌエがいっぺえ鳴いでる夢だった」
(そう、人が死ぬのよね、その場合)
「ヌエが鳴くど・・・」
(そうそう、人が死ぬのよ)
「人が死ぬっつう・・・」
「あっ、それ迷信です!」  
 背後で声がした。
(あんた誰?)  
 全員が声の主を見た。  
 声の主は、
「あっ、すいません。これにお水1杯いただけますか?」  
 と言って、コップを彩に差し出した。
「ヌエっていうのは、平家物語なんかに出てくる架空の生き物です。サルの顔、タヌキの胴、トラの手足、しっぽはヘビってありますけど、そんな生き物いるはずありません」  
 二所谷は一気にまくしたてた。
(じゃあ、体はシュワちゃんで、顔はみのさんのあなたのことはどう考える?)  
 彩は素朴な疑問を感じた。  
 話の腰を折られたスミは、絶句したまま動かない。  
 沈黙の時間が数秒流れた。
「我は名を流すうつぼ舟に、押し入れられて淀川の、淀みつ流れつ行く末の・・・」  
 突然かつらが謡い出した。
(えっ? どうしたの?)  
 全員が驚いてかつらを見た。
「これ、ご存じ?」  
 かつらは二所谷に向かって聞いた。
「えっ? さあ」  
 彩に水をもらいながら二所谷は首を傾げた。
「これはね、『鵺(ぬえ)』という能の中の謡なんです」  
 かつらはそう言うと、二所谷の前に進み出た。
「淀みつ流れつ行く末の・・・。ここの所でこうね。『流れ足』という型があるんですけど、こんな感じです」  
 かつらは、そう言ってつま先を少し上げると、その足をスーッと横に流した。
「あっ、私ヌエですよ。ヌエだと思ってください。ねっ、こうして、ヌエが何だか遠くへ流されていく感じ、出てます?」
(うーん)  
 彩は首をひねった。  
 二所谷はジッとかつらの動きを凝視している。
「淀みつ流れつ行く末の・・・」  
 かつらは、もう一回その動きをやってみせた。
「やっぱりダメね。シテが私ではね」  
 かつらは、そう言ってフッとため息をついた。
「そんなことはありません!」  
 二所谷が感極まった声で叫んだ。
「素晴らしい演技でした!」
(えっ? そう?)
「素晴らしい!」
(そんなに?)
「ヌエは本当にいたんですね!」
(えっ? そういうことじゃ・・・)
「心得違いでした!!」
(わお・・・)  
 二所谷はかつらに向かって深々と頭を下げた。  
 突然のわけの分からない来訪者によって、話の腰を折られたスミだったが、このままでは団子リーダーのメンツがつぶれると思ったのか、面目躍如の大きな声を張り上げた。
「そういうわげだがら・・・」
(えっ? どういうわけだ?)
「けがのねえように!」
(何のこっちゃ!)  
 いよいよ『十六団子』の製作がスタートした。  

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26『十六団子スタート』

 彩はやかんにお湯を沸かし、ログゴの団子と同じ行程でスミが粉を調合し、例の行程をへて団子は練り上げられていった。
(さっきのログゴ団子の時に、こっちの分も一緒に作っとけば・・・)  
 彩が首を傾げたくなるほど、何一つ1回目と変わらない作業だった。
「なるほどねえ。こうやってこねるんですねえ」
「あっ、お湯に1回くぐらすんですか、そういうことですか」
「へえー、またこれをこねるんですねえ。わーっ、すごいすごい。熱くないんですか? 手が真っ赤ですよ、スミさん、大丈夫?」
「うわっ! もう1回くぐらすんですかあ! 念入りですねえ。『微に入り細をうがつ』ってまさにこのことなんですねえ。まあ、素敵! これ、絶対伝承しておかなきゃいけませんわねえ。重要無形文化財ものですもの、これ」
「ああー、なるほど。これをまたこねるんですね。ちょっと私もやらしていただいていいかしら。熱っ、熱っ、熱ーい!」
「あっ、熱いうちにこねなきゃならないんですか、そうですか。皆さん、よく平気でできますねえ。本当に手の皮が違うんでしょうねえ。ちょっと見せていただけます? わあっ! すごいわあ、硬いのねえ。のり子さんもいいですか? ああ、やっぱり違うわ。厚くって、ねえ。ふくよかな手をしてらっしゃる。やっぱり人間国宝の人の手は違うんですねえ。私にはちょっと無理かもしれない」  
 かつらの驚嘆と賞賛の声は最後まで止むことがなかった。今までは、ボールの水で手を冷やしつつ団子をこねていたスミも、こんなふうに褒められては、
「彩、水!」  
 とも言えなくなってしまい、最後まで手を真っ赤にして頑張っていた。のり子も同じだった。のり子は「アジ、アジー!」とさえ言わなかった。まさに『褒め殺し』だった。
(プッ! 2人ともおだてに弱いタイプなんだあ・・・)  
 彩は、2人をツンツンしたい衝動に駆られた。
「よっし! あどは分げで、丸めで、串さ刺して終わりだ」  
 大きな塊になった団子を前にスミが言った。
「すごいわあ!」  
 かつらがしみじみそう言って拍手をした。彩もつられて拍手をした。  
 スミとのり子は、それまで褒められたことのなかった悪ガキが、初めて人に褒められた時のようにモジモジしながら、おのおの所在なさそうにあっちの方角を見ていた。  

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27『田中貫太郎』

 その頃、家の外にある古井戸の周りには、ダミ若勢の第2班が到着していた。  
 ダミ若勢全体のリーダーである田中貫太郎は、身長が148センチしかない小柄な男だった。年齢は69歳、造園業を営んでいる。かつて自民党県連青年部に所属していたこの男は、人の面倒見が良く、村の自治会長を連続5期も務めている立派な人物だった。
「シュヘチョキッケ。サジュプ、クリフッサイガ」  
 ちなみに、これは「周平、ちょっと来てくれ。30分、栗を拾いにいこう!」というようなことを言っているのだが、これはもう、方言とかそういう次元をはるかに超えて、ほとんど宇宙人がしゃべっているような言語だった。とにかく、モゴモゴと超早口なのである。  
 ムスタキさんの言葉であれば、まだ何とか通訳が可能な周平であったが、さすがに貫太郎の言葉だけは通訳不能だった。
「オメダダ、オメダダ。ミダゴニャナ。サッサ、サッサ、オッチュ、オッチュ」  
 彩が、初めて貫太郎に会った時の第一声がこれだった。
(・・・)  
 彩はただ笑ってこう答えるしかなかった。
「ええ、お天気もいいですしねえ」  
 この宇宙人語を頑張って通訳するならば、「おめえ誰だ、おめえ誰だ。見たことないなあ。(以下不明)」ということになる。さすれば彩の返事は、彼の問いと大きくすれ違っていたことになる。  
 相手がこういうふうにトンチンカンな返答をしてしまうのには理由があった。彼は、福禄寿のような長い頭だったからだ。しかも、元大関大受の朝日山親方の頭の形そっくりのその長ーい頭は、全面的に光り輝く不毛地帯だった。  
 相手はまずその頭に圧倒される。そして、彼が機関銃のように言語を発する時の表情にやられる。それは何とも言えない、『無垢のほほ笑み』とも言うべき、この上ない極上の笑みなのだ。  
 本当なら、
「おい、おめえ、今何て言ったんだ?」  
 とか、
「すみませーん。もう一回ゆっくり言っていただけますかあ?」  
 などと聞き返せば済むことなのに、何となく聞き返してはいけないな、傷付けちゃいけないなという気持ちを相手に起こさせる何かがそこにあるのだった。仮に勇気を持って聞き直したとしても、たぶん同じだろうな、どうせ分からないだろうなというある種のあきらめもそこに働いていたのかもしれない。  

 貫太郎は3年前、NHKの全国ニュースに出たことがある。  
 アナウンサーが言った。
「山にヒルが大発生して、カモシカやクマが激減している愛宕村から生中継です!」  
 カメラが山の景色を追い、やがてアナウンサーと黄色いヘルメットをかぶった男がアップになった。
「ええ、今日はこの愛宕村の自治会長を務められる田中貫太郎さんにお話を伺います。田中さん、よろしくお願いします」
「アドモ。ヨロスッ、オッ・・・オーッ!」  
 ゴドッ!  
 突如画面から貫太郎が消えた。  
 彼は、身長を大きく見せようと『いい振り』こいて切り株の上に上がっていたのだが、お辞儀をしようとした拍子に、そこから落下してしまったのだった。  
 しかも、カメラマンが慌ててカメラを引いてしまったために、そのからくりもバレバレになってしまった。  
 この時、かぶっていた、というか上のほうにチョコンと乗っていた黄色いヘルメットが、コロコロと転がって沢に落ちていってしまった。貫太郎の光り輝く福禄寿頭が丸出しになった。  
 貫太郎は気を取り直して、
「サッサ、サッサ、オッチュ、オッチュ!」  
 と言いながら、また切り株の上に上がった。
「ええ、この山ヒルなんですが、一体いつぐらいから増え始めたんですか?」
「スハズネメ」  
 無垢のほほ笑みをたたえた顔で貫太郎が答えた。
「はい?」
「スハズネメダ」  
 この時、『7〜8年前』というテロップは出なかった。なぜなら、この番組は生放送だったからだ。不運だった。  
 アナウンサーは明らかに動揺した。その動揺ぶりがクッッキリとカメラに映し出された。気を取り直してアナウンサーがまた聞いた。
「このヒルに吸い付かれるとどうなるんですか?」
「フトガ?」
「エッ?」  
 アナウンサーはすがるようにディレクターのほうを見た。ディレクターは首を横に大きく傾げている。
「フートーガ・・・ですか?」  
 アナウンサーは、『無垢のほほ笑み』に『不屈のジャーナリスト魂』で対抗した。
「フト?」  
 無垢な福禄寿が聞いた。
「フト?」  
 アナウンサーが聞いた。  
 おうむ返しになった。
「カッスカ?」
「カッスカ?」  
 質問が重なり合っていた。
「クマ?」
(ああ、やっと分かったぞ。クマと言ったぞ。ということは。カッスカはカモシカのことかもしれない。フトは人のことだろう)  
 アナウンサーはやっと合点して安堵の笑みを漏らした。
「フトです、フト」  
 貫太郎は「ああ」という顔でまた無垢のほほ笑みを作ると、たった2秒の間に、次の約5〜60文字の言葉をはいた。
「シュワレバフグェル。ダマッテバダマナテスバシェバボダトヂル。ヒパレバハエル。チトマニャ。マゲフトダバスバグナオニャナ」  
 貫太郎は、カメラに向かって会心の無垢のほほ笑みを送った。
「・・・」  
 3秒間の間があった。その間アナウンサーの動きが止まった。  
 それは、出勤前に慌てて生卵掛けご飯をかきこんでいたお父さんをはじめ、全国津々浦々の視聴者も全く同じだったに違いない。ニッポン列島中の動きが止まった。  
 アナウンサーはベテランだったが、さすがにこれにはもうお手上げだった。『不屈のジャーナリスト魂』は、『無垢のほほ笑み』の前に完敗したようだった。  
 アナウンサーはチラッとディレクターを見やった。ディレクターはマキを入れた。アナウンサーは強引にまとめに入るしかなかった。
「そうですか。それじゃあ相当かゆくて痛くて、ねえ。死に至るほどのダメージがあるんですねえ。よく分かりました。クマやカモシカにとってもこれは脅威ということになりますね。はい、田中さん、今日はどうもありがとうございました。それでは、愛宕村の現場からスタジオにマイクをお返しします」  
 貫太郎は実は質問に完璧に答えていた。しかし、悲しいかな、それは誰にも伝わらなかった。いや、むしろ間違った情報が伝えられていた。  
 ちなみに、もし彼の言葉を通訳できる人がいて、正しいテロップが付いていたなら、こんな表現になっていただろう。
「吸われればふくれます。そのまま黙っておれば玉のようになって、しばらくするとボタッとひとりでに落ちるんですが、もし引っ張ったりすると腫れてしまいます。血も止まりません。傷負けする人だとしばらく治らないこともあります」  

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28『メモチョーさん』

 貫太郎と一緒に戻ってきたダミ若勢の第2班のメンバーは、やはり身長150センチ台の小柄な男3人衆だった。  
 彼らの共通性は背が低いということだけではなかった。全員、上顎犬歯と上顎犬歯の間の前歯が1本もないという極めて面白い顔をしていた。  
 その1人田崎十次郎は、貞子という奥さんに婿に来た65の男で、名前はなかなか立派なのだが、気弱なところがあっていつも貞子の尻に敷かれていた。  
 彼は足が極端に短かく、田植えの時に『トクナガ』という長靴を履いたりすると、ズボンがモコモコと股間にたぐまって、さながら『田んぼの中のムーニーちゃん』といったようなスタイルになった。
「おらのとうちゃんのはげ頭はなあ、メモ帳代わり使えるんだ」  
 ゴミ置き場の前で、貞子が彩にそう教えてくれたことがあった。
「メモ帳ですか?」
「ああ」  
 貞子は、そう言ってガハハッと笑った。
「電話してる時に、ちょっとメモしねばねえ時あるべ?」
「ええ」
「そういう時、『ちょっと、頭貸せ!』って呼ぶんだ」
「だんなさんをですか?」
「ああ、そごさこう書くんだよ。マジックで。電話番号どが」
「おでこにですか?」
「ああ」
「ええーっ!」
「広いがら書きやすいんだ。油性でねばダメだどもな。とうちゃん脂性だがら」  
 貞子はそう言ってまたガハハッと笑った。
「うっそー!」  
 彩と周平は、大変失礼なこととは思いながらも、あくまでも秘密裏に、田崎十次郎さんのことを『メモチョー』さんと呼んでいた。  

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29『チョロQさん』

 もう一人は、大宮健吾という68の男で、とにかくチョロチョロと良く動く働き者だった。  
 彼は、身長のなさをカモフラージュするためなのか、どこへ行くにも『燃える男の赤いトラクター』に乗っていた。ガンとギターこそ装備してなかったが、トラクターに乗ったときの彼は、『渡り鳥シリーズ』の小林旭のようにはつらつとしていた。周平たちは、その小回りの利く小気味いい動きを見て『チョロQ』さんと呼ぶようになった。
「日長ぐなったなあ」  
 チョロQさんは、彩たちを見つけると、トラクターの上からそう声を掛けた。彼は大変忙しい人だったので、それ以上の会話はできなかったが、いつも笑顔の口元からのど仏がのぞいていた。前歯がないせいだった。彼の声は、テノールボイスの小林旭とは反対に、大変美しいバリトンボイスだった。「日長ぐなったなあ」は、秋になると「日短ぐなったなあ」になった。  
 『チョロQ』さんのトラクターの後ろには、耕すためのアイテム、刈り取るためのアイテム、運ぶためのアイテム、整地するためのアイテムなど用途に応じてさまざまな装備が連結された。  
 たまにトラクターを降りたときの彼は、草刈り機、除草機、草飛ばし機などのアイテムを自分自身の体に装着し、ギャングのような黒いサングラスをかけて作業に当たっていた。その姿から、周平たちは彼を『チビッコギャング』もしくは『チビギャン』とか『機動農夫ギャンダム』という呼び方をすることもあった。このように、たくさんの名称を持つ彼ではあったが、ここでは便宜的に『チョロQ』ということで統一したい。  

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30『タワス』

 最後の1人が、『タワス』と呼ばれている花山幸男だった。
「ワダスのスゴド(仕事)は、報道関係!」  
 タワスはシブい顔でそう言って、村に来たばかりの彩に自分を紹介した。
「へえー、そうなんですかあ!」  
 タワスは驚いた彩を見てニヤッと笑った。シブかった報道関係者の顔が、一瞬にしてお笑い関係者の顔になった。タワスはその顔のまま、
「何とが、ミニテヌスさ出でけらいにゃが?」  
 と言った。
(ミニテニス?)  
 彩は首を傾げた。
「10月10日。体育の日に大会あるんだども、メンバーいねくてや」  
 タワスは彩に拝むまねをした。お笑い関係者の顔が、今度は物乞い関係者の顔になった。  
 タワスは体育部長という村の役職を拝命していた。『町内対抗ミニテニス大会』は、村別の対抗戦方式で行う全町挙げての一大イベントなのだった。
「でも、ミニテニスなんてやったこともないんですけど・・・」
「いった、いった。ズンズどバンバばりだ」
「はあ・・・」
「勝ぢ負げ関係ねえがら」
「え、ええ・・・」
「参加するごどに意義があるってがあ!」  
 タワスは、そう言って大きな口を開けてまた笑った。ちょっと断りがたいような、あまりにも愛嬌のある顔だった。ゴジラの子どものミニラのような円谷プロ系の顔だった。
「ええ、まあ、周平さんと相談してみます」
「おう! 何とが頼む!」  
 彩はいつもの寝しゃべりの時に、周平にこの話をした。
「本当に困ってたみたい、タワスさん」
「年寄りばっかりで、若いメンバー集まらないんだろうな」
「私たちが若い部類なんだもんね」
「ほんと、ほんと」
「ところで、なんで『タワス』なの? あの人」
「ああ、昔から彼、口癖があってさあ」
「口癖?」
「うん。『ワダスはタワス』って」
「えっ? 何それ」
「ほらっ、回文っていうんだっけ。上から読んでも下から読んでもっていう」
「ああ、ヤマモトヤマみたいな」
「そうそう。タケヤブヤケタとかね」
「えっ? でも『ワダスはタワス』は違うんじゃない?」
「えっ?」
「ス・ワ・タ・ワ・ス・ダ・ワでしょ。下から読んだら」
「あっ、本当だ。あれ回文じゃないんだ。へえ、今まで気付かなかった」
「でも、タワスさんってそっから来てるわけね」
「そうそう。あの人、何だかそういう、とぼけたとこあるもんね」
「うんうん、顔も面白い」  
 彩がクスッと笑った。
「そう言えば、今日『ワダスは報道関係者だ』って言ってたけど、そうなの?」
(報道関係者?)  
 周平はプッと吹き出しそうになった。
「なるほど、そういう言い方もあるか」
「えっ?」
「確かに、新聞配達も報道関係者に違いない」
「えっ? じゃあ、新聞配達なの、あの人」
「そう」  
 プッ!  
 2人は同時に吹き出した。  

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31『ミニテニス』

 10月10日、周平と彩はミニテニス会場にいた。  
 かろうじて5組10人のメンバーを集めたタワスだったが、メンバー招集の大変さを物語るかのように、その中には監督である自分自身の名前も含まれていた。彼は、新聞屋から支給されたと思われる『山田新聞店』と書かれたTシャツを着、グレーのオヤジジャージをはき、足はなぜか裸足だった。  
 缶ジュースの入った袋を持ってペタペタと音をたててやってきたタワスは、メンバーに向かってこう言った。
「ワダスはハダス!」  
 タワスは新しいキャッチフレーズを編み出したようだった。  
 この大会は、過疎の村が集まって行われることもあって、ほとんどのチームが平均年齢65歳を超えていた。この日の最高年齢は94歳の真橋村のユキノというおばあちゃんだった。
「すごいねえ。何か俺たち出たら反則っぽいよ」  
 年寄りだらけの会場を見回しながら周平が言った。
「うんうん、これで負けたら、かなり恥ずかしい感じよね」  
 彩がラケットの上でボールを弾ませながら言った。  
 その中で、愛宕村のチームはまだ若いほうだった。タワスがセレクトした愛宕村チームのメンバー構成は次のようなもので、平均年齢は53歳だった。

1 星野周平&彩コンビ  
2 田崎十次郎(メモチョー)&貞子コンビ  
3 花山幸男(タワス)&カネ子コンビ  
4 大宮健吾(チョロQ)&初子コンビ  
5 剣持貴美雄(ガリム)&真奈コンビ

 ちなみに、『メモチョー』と『タワス』と『チョロQ』は、ダミ若勢における『歯欠け3人衆』だったし、『ガリム』は、ムカデ競走の時に紹介したように、げっ歯類の歯を持つファイターだったので、周平たちを除けば、このチームは『歯』に特徴があるといってよかった。  
 2回戦までは、全コンビが無傷の完全勝利だった。3回戦でちょっとしたハプニングが生じた。試合中にタワスの足がつってタワスコンビが負けたのである。相手は80ぐらいの老夫婦だった。さらに3勝1敗で迎えた最終セットでは、ガリムが調子に乗って、アクロバット的な打ち方をしてネットに引っ掛けまくったためにあっさりと負けてしまった。相手は同じく80過ぎの夫婦だった。試合は3勝2敗で辛くも逃げ切ったが、タワスはつった足をマッサージしながら、
「貴美雄、バガっこのっ!」  
 と言って、戻ってきたガリムの頭を思い切りひっぱたいた。ガリムはげっ歯類の歯を出してニヤニヤしながら、
「オイーッス!」  
 と言っておちゃらけた。
「ねえ、ガリムさんの奥さんって若いね」  
 タオルで汗を拭きながら彩が周平に言った。
「うん、セーラー服着たら高校生に見えなくもないな」
「どう見ても親子って感じよね。でも、何か暗くない?」
「うん、あんまりしゃべんないもんね。それにしても、いつの間に奥さんもらったんだろう」
「ガリムさん、何だかうれしそうだね」
「うん、何だかはしゃいでるな」  
 試合はいよいよ準決勝へと進んでいった。  
 準決勝は思わぬ展開になった。  
 トップバッターの周平&彩コンビが負けてしまったのである。相手は、さすがにここまで駒を進めてきただけのことはある強力チームだった。しかも、トップにはその中でも最も若い20代の新婚コンビを起用してきた。この試合では、彩がやや足を引っ張ってしまった感があった。
「大体、私今までスポーツなんか、ほとんどやったことないんだからさあ」  
 彩が言い訳した。
「しょうがないよ。俺たちの半分以下だからな。相手の年齢がさ」  
 周平はそう慰めながらも顔に悔しさをにじませた。  
 いきなり出ばなをくじかれた愛宕村チームではあったが、その後の挽回がすごかった。『歯欠け3人衆』は、必死の形相で相手に食らいついて、なんと3連勝してしまったのである。この試合は、相手が本来の力を出せないまま負けてしまった感があった。
「あの歯にやられたな」  
 周平が分析した。
「うん、あの顔見てると力入んないよ」  
 彩はクスッと笑った。  
 しんがりのガリムは、ヘラヘラとまたふざけた打ち方で完敗した。
「貴美雄! おめえイヅンバン下手くそだ!」  
 タワスは、ヘラヘラ頭をかいて戻ってきたガリムに、裸足の足で思い切りけりを入れた。  
 彩に声を掛けた時、「勝ち負けは関係ねえ、出場することに意義がある」と言っていたタワスは、準決勝に勝ったこの辺りから急に豹変し始める。  
 彼は決勝戦を前に、メンバー全員を集めて円陣を作ると、真剣な顔でこう言った。
「こごまできたら勝ぢにいぐど!」  
 歯欠け3人衆たちは皆真剣にうなずいている。ガリムだけがニヤニヤにやけている。
(えっ? マジ?)  
 勝負事に弱い彩は、勝ちにいくという言葉を聞いてドキッとした。
「メンバー入れ替える!」
(えっ? そんなことできんの?)
「周平!」
「あっ、はい」
「おめえのかあちゃん、何とがなねが?」
「・・・」  
 周平は言ってる意味が分からない。
(えっ? 何? 私?)  
 彩がポカンと口を開けてタワスを見た。
(何とかなんねえかって、何それ。下手ってこと?)  
 自尊心を傷付けられた彩は少しムッとした。
「メンバーチェンズだ!」
(ちょっと、何よそれ。私はあなたに請われて、拝まれて出てやったんじゃない!)
「かあちゃん、線審やってけれ!」  
 線審は、各チームから1名出すことになっていた。
(線審? ちょっと、ちょっと。どういうことよ。私に線審やれってか)  
 いろいろな感情がごちゃ混ぜになった彩は、思い切りふくれてタワスをにらんだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってけねすか!」  
 同じくいろいろな感情がごちゃ混ぜになった周平が、タワスに向かって言った。
「せば、俺も外れるってごどだすな」
「ダメだ。おめは出でもらわねば困る」
「だども、夫婦でねばダメなんだすべ?」
「いいがら。今相手連れでくっから」
(相手? 連れてくる?)  
 周平と彩は驚いて顔を見合わせた。ガリムは相変わらず若い真奈の隣でニタニタにやけていた。
(ちょっと、にやけてる場合じゃないわよ。あなただって替えられる可能性あるんだからね!)  
 彩はガリムに八つ当たりしたい衝動に駆られた。  

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32『いらっしゃーい』

 タワスは、自分のかばんを開けてケータイを手に取った。
「あっ、もすもす」
「はいっ! くりのき鍼灸院です」
「勇子さん、お願いすます」
「はいっ! ワタクシでございます」  
 ハキハキした標準語の声だった。
「あっ、勇子が。おいだ、おいだ」
「はいっ?」
「おいだって。分がっぺ?」
「分かりませんが。どちらさまでしょうか?」
「タワスだ、タワス。ワダスはタワス」
「なんだ、おめが」  
 声が急に無気力な方言に変わった。
「ちょっと来らいねが」
「いづ」
「今」
「なしに」
「ミニテヌス」
「どさ」
「体育館」
「なして」
「メンバーいね」  
 簡潔な質疑応答だった。
「ダメだ。今仕事中」
「少しスンマだ。決勝だげ」
「決勝?」
「んだ」
「ほがの人いるべ」
「いるどもヘダだ」  
 タワスはそう言いながらチラッと彩を見た。  
 彩は激しくムッとしてほっぺたを膨らませた。
「おめでねばダメだ」
「・・・」
「おめしかいね」
「おらしか?」  
 相手は『おめしかいね』に反応したようだった。
「んだ。何としてもおめでねばね」  
 今度は『おめでねばね』に反応したようだった。
「仕方ねな。今行ぐ」
「おう、頼む」  
 タワスは、どうやら交代要員を口説き落としたようだった。
「でも、急に相棒が替わったらルール違反でねすか?」  
 周平が食い下がった。  
 タワスは、歯のない前歯を手で隠しながら周平の耳元に来ると、
「今離婚すて、今再婚すたごどにすっから」  
 と小声でささやいた。
(・・・)  
 周平は天を仰いだ。  
 勇子はナマスと同級生の63歳の女性だった。彼女は一人っ子で、いい年をしてわがまま勝手なところのある世間知らずだったが、一方で、曲がったことが大嫌いな正義感と、「私に任せナッサイ!」というような親分肌も強く持ち合わせていた。  
 愛宕村の人が鍼灸院に来ると、彼女は自分の職権で特別の便宜を計ってくれた。便宜と言っても、ちょっとだけ診療の順番を前にしてやることくらいなのだが、
「あいい、勇子。ありがどなあ」  
 などと拝まれると、勇子はこの上ない喜びを右ほおに押し留めながら、
「なんも気にすんな。まだやってけっからよ。みんな同じ村の人でねえが」  
 などと、大所高所に立った物言いをするのだった。  
 単純と言えば単純な、善行と言えばもちろん善行なのだが、それを受ける側が一の感謝に対して、与えた側が百の自己満足を得ているというようなところが、たまにありがちな『少し勘違いですよー的ボランティア精神』に通じるものがなくはなかった。
「いらっしゃーい」  
 受付で村の人を見つけると、彼女は「お線香」と発音するときのイントネーションで、そう声を掛けた。オープニングで桂三枝がタイトルコールする『新婚さんいらっしゃーい!』の、あの感じである。  
 周平と彩は、彼女をそのものズバリ『いらっしゃーい』と呼んでいた。  
 いらっしゃーいが到着したのは電話から15分後だった。
「いらっしゃーい!」  
 いらっしゃーいが言った。  
 しかし、それはむしろこっちのセリフだった。
「おめだぢ決勝まで残ったってが。ごぐろうさん! あどは心配ねえ。おらさ任せろ!」  
 またしても大所高所に立った言い方だった。  
 決勝戦の開始時間が大幅に遅れていた。腕時計を見ながら審判が言った。
「さあ、愛宕村チーム。急いでください!」
「ちょっと待で!」  
 いらっしゃーいはそう言って審判をにらみ付けると、不似合いな薄いピンクの診療着をバッと脱いだ。診療着の下は、もっと不似合いな大岡越前守のような桜の花吹雪模様がプリントされたTシャツだった。下半身方面はといえば、この業界特有の丈の少し詰まった白い綿の細いズボンと、やはり業界ならではの3足980円の白いスクールソックスのようなものと、1足1500百円ぐらいの黒いオヤジサンダルを履いていた。
「相手誰や?」  
 いらっしゃーいがタワスに聞いた。
「おう、高合5区だ」  
 タワスが相手チームの名前を言った。
「んでね、おらの相手だ」
「ああ、周平だ、周平」  
 タワスが答えた。
(それを言うなら、相手じゃなく相棒だろう)  
 線審の腕章を付けた彩は、ちょっとふくれていらっしゃーいとタワスをにらんだ。  
 審判がイライラしてまた叫んだ。
「さあ、愛宕村チーム。急いで下さーい!」
「待で! ちょっと体ほぐさねばね」  
 いらっしゃーいはそう言って、何やらあんま系のおかしなストレッチを始めた。  
 ひんしゅくの目が相手チームからも注がれていたが、いらっしゃーいは全く動じる気配もなく、15分もかけて念入りにあんま系ストレッチで体をほぐすと、周平に向かって気合いを掛けた。
「よっし! 周平行ぐど! 集中、集中!」  
 試合が始まった。  
 周平は、即席のこの相棒とサッパリ息が合わずミスを連発した。集中どころではなかった。結局、全くいいところのないまま、無得点のままあっさりと試合は終わった。  
 いらっしゃーいはここで、自分勝手な性格をもろ前面に出して、
「あどやってけれ。おら仕事あっから」  
 と言って、ラケットをタワスに放り投げると、そのままプイッと仕事場に帰ってしまった。
(ちょっと、何よ。勝手な人ね! 私のほうがまだ良かったんじゃないの?)  
 彩はプリプリしながらいらっしゃーいの後ろ姿をにらんだ。  

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33『トランポリン大会』

 次のメモチョーコンビの時に思わぬアクシデントがあった。妻の貞子が、上がったボールを打とうとしてバックした時に足元が滑り、後頭部から真っ逆さまに床に落ちてしまったのだ。  
 ゴドッ!  
 やばい音がした。なかなか立ち上がれない貞子を見て、愛宕村チームはもちろん相手チームにも緊張が走った。線審の彩が駆け寄った。
「大丈夫ですか?」  
 貞子は、もうろうとしたまま立ち上がろうとした。
「動かないほうがいいかと・・・」  
 彩が言った。夫のメモチョーも隣で心配そうに見詰めている。その時だった。
「貞子! ほれっ、起ぎで跳んでみろ!」  
 非常に軽薄な声が飛んだ。ガリムだった。声の主は、げっ歯類の歯をむき出しにしてニヤニヤと挑発するように笑っている。  
 貞子は少しずつ身を起こした。
「よう! 貞子、ほれっ、立って跳んでみろ!」  
 彩はその無神経な男をにらみ付けた。  
 貞子はヨロヨロと立ち上がった。
「あっ、無理しないほうが・・・」
「ようよう! 貞子、ほれっ、ほれっ。ポーンて跳んでみろ! こうやって、ポーンて!」  
 ガリムは自分でもポーンと跳んでみせている。
(ちょっと、何なの、この出っ歯!)  
 彩はムカムカしてきた。
「あいい、おめだぢ、いい男に見える」  
 貞子が言った。
(えっ?)  
 彩はビックリして貞子を見た。  
 貞子は焦点の合わない目で会場を見回した。
「あいい、いいオナゴもいっぺえいる」
(うそっ! ちょっとやばいんじゃない)  
 彩は心臓がバグバグしてきた。  
 全員が、彩と同じ気持ちで貞子の動きを凝視した。
「あいい、頭狂ったんだべが」  
 貞子はそう言って、フラフラしながらグルリと彩の周りをひと回りした。
「よう! 貞子、ほれほれっ! ポーンって跳んでみれ! こやって、ポーンって!」  
 ガリムがまた挑発した。
(出っ歯、しつこい!)  
 ガリムをにらみ付けながら、彩が貞子の肩に手を置こうとした。その時だった。
(うそっ!)  
 貞子が跳んだのである! ポーン、ポーンと。  
 それに合わせて向こうではガリムも跳んでいる。  
 ポーンッ、ポーンッ・・・。  
 ポーンッ、ポーンッ・・・。  
 跳躍を繰り返すうちに、2人はどんどん高く跳べるようになっていった。ガリムにいたっては、手を左右に開いたり閉じたり、開脚跳びまで繰り出している。
(ちょっと待って。これじゃあまるでトランポリン大会じゃない。どうでもいいけどなんて上手いの! 2人とも)  
 彩ばかりではなく、会場の人全員が2人の演技に見とれていた。  
 その時、突然貞子がパタッと演技をやめた。開脚跳びをしていたガリムだけが、文字通り宙に浮いた格好になった。
「おっ! 治ったえんたな」  
 貞子が言った。
(治ったの? 本当?)  
 彩が貞子の顔をのぞき込んだ。
「とうちゃんのハゲも・・・」  
 貞子はそばにいたメモチョーのおでこをパチパチ叩いた。
「歯欠げも・・・」  
 貞子はメモチョーの口をベーッと広げた。
「分がるもの。うん、治った、治った」  
 貞子が言った。
「よう! 貞子、治ったがあ?」  
 空中で大きく脚を開いた開脚ストラドルの体勢のままガリムが叫んだ。
(サッパリ・・・分からない)  
 彩は首を傾げながら線審の位置に戻った。  
 メモチョーコンビは勝った。このアクシデントによって、相手がこっちのペースに完全に飲まれてしまったことが明らかな勝因だった。  

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34『好きよキャプテン』

 3番手のタワスコンビは負けた。タワスが足の指をねんざしたのが敗因だった。「ワダスはハダス」では勝てないことが証明された。  
 4番手のチョロQコンビは勝った。相手のおじいさんがトイレに行ってなかなか戻ってこなかったことによる不戦勝だった。おじいさんはチームメイトに理由を聞かれ、
「やあや、便所さ入れ歯落どしてや」  
 という短いコメントを残した。  
 いよいよ優勝をかけた最後の大一番が始まった。  
 ガリムは燃えていた。頭には『必勝!』と書かれた白い鉢巻きまでしている。
「真奈ちゃん、全部俺さ任せろな。黙って立ってればいいがらな」  
 ガリムはそう言って真奈にウインクを送った。  
 情報筋の話によると、相手チームのしんがりは、リリーズの『好きよキャプテン』を地でいくカップルだということだった。歌詞と違うのは、彼らは失恋でなく中学校からの初恋を見事に成就させたことであった。

 

 そういう青春さわやか系のカップルに比べて、ガリムカップルはどうもいまひとつさわやかさを欠いていた。その理由は、あまりにもかけ離れた年齢差ということもあったが、真奈という若い女性が持つ、どことなく暗ーい雰囲気にあるようだった。  
 固い純愛で結ばれた『さわやか系カップル』は、テニスの素養はもちろん、息も双子のリリーズのようにぴったり合っていた。  
 それに対し、高い金銭で結ばれた(と思われる)『出会い系カップル』のほうは、どことなく不純なムードが漂っていたし、息がぴったりどころか、ガリムの荒い鼻息だけが一方的に吹きまくっているという感じだった。  
 下馬評では『さわやか系カップル』の楽勝かと思われていた。しかし、勝負というものは分からないもので、『出会い系カップル』が意外な健闘を見せていた。  
 ガリムはげっ歯類の特徴である俊敏な動きで、リスやネズミのようにコート中を動き回った。さっきトランポリンで筋肉をほぐしたことも奏功しているようだった。
「真奈ちゃん、いい、いい。俺取る!」  
 そう言ってガリムは、真奈の真ん前に来たボールまで打ち返した。『デシャバリータ』の本領発揮だった。真奈は、途中からしらけてラケットを振らなくなってしまったので、ガリムはたった1人で戦っていたようなものだった。
「いい、いい、俺だ、俺だ」
「真奈ちゃん、いいよう、いいよう。真奈ちゃん、大丈夫だよう!」
「あっ、それ、もーらいっ!」  
 そんなふうにして、ガリムはどんな球でもガリムリ取りに行ったため、さすがの相手も少し根負けした感じになった。
(私たちはネズミと戦っている・・・)  
 『さわやか系カップル』はそう思ったに違いない。会場にいた観客も、ネズミの動きを追うイヌのような目でそれを見ていた。  
 しかもガリムは、真奈にいいとこを見せようと、サーブの時に例のトランポリンの開脚跳びまで試みた。誰もが初めて見るサーブだった。そしてそれが不思議とよく決まった。
(うわっ! また入った!)  
 線審の彩は、目の前で鋭く決まるサーブを見ながらうなった。  
 ガリムは、わけの分からないアドレナリンが出ているようだった。  
 こうして第1セットは、あっという間に『出会い系カップル』が勝った。番狂わせだった。  
 チームメンバーに拍手で迎えられたガリムは、げっ歯類の歯をむき出しにして、
「軽い、軽い!」  
 と言った。
(確かに軽いわ、あんたの体。ついでに頭も)  
 彩は思った。
「よっす、あど1セットだ。貴美雄、頼むど!」  
 タワスがガリムに檄を飛ばした。
(さっきまで『貴美雄が一番ヘタだ』って言ってたくっせえに)  
 彩は、線審の旗を乱暴にパタパタさせた。  
 第2セットが始まった。  
 相手はやはりただ者ではなかった。げっ歯類の特徴を逆手に取る戦法を取ってきたのだ。それは、ボールをわざと高く上げて返すという戦法だった。高く上がったボールは、落下するまでに時間がかかる。そのため、せっかちなガリムは、ボールが落ちてくるのを待ち切れずにガリムリ打ちにいってしまうだろう。その結果、『必ずワンバウンドの後打たなければならない』という競技ルールに違反するだろう。  
 なるほど、よく考えられた高度な戦術だった。  
 案の定、ガリムは違反を連発した。彼は、ネズミ捕りに掛かるときのネズミのように、高いボールに飛びかかっていっては相手のわなにはまった。
「貴美雄! バガッ! 球落ぢでがら打で!」  
 タワスがイライラして叫んだ。
(あーあ、所詮はネズミね)  
 ネットに引っ掛かったボールを見ながら、彩はクールにそう思った。
「チックショー!」  
 ガリムの大声が途切れることはなかった。  
 6対0。第2セットは1点も取れずに完敗した。  
 肩を落として戻ってきたガリムにタワスが言った。
「貴美雄! おめえ、やっぱすイヅンバン下手くそだ!」
(おいおい、どっち?)
「んだって、テンプラばっかし打ってくるんだおん」  
 ガリムが悔しそうに言い訳した。
「バガッこの! ちゃんと球落ぢでがら打でばいいべ。待って、待って、こう」  
 タワスがラケットを持って、スローモーションで見本を見せた。
「高い球来たら、こっちの人打でばいいんでねえが?」  
 タワスの妻、カネ子が言った。
「んだんだ。こっちの人さ任せればいいんだ」  
 チョロQの妻、初子も、その意見に賛成した。
「あいい、あんだ名前何ていうんだっけ?」  
 カネ子が真奈に聞いた。
「真奈ちゃんだ」  
 ニヤニヤしてガリムが答えた。
「あいい、貴美雄。おめえ、いづのこま結婚したんだ?」  
 貞子が聞いた。  
 ガリムは、ニヤニヤした顔で真奈をチラッと見た。
「結婚?」  
 真奈がキョトンとした顔で言った。
「まんず、まんず。いいがら、いいがら」  
 タワスが話をさえぎった。
「さあ、時間だ、時間だ。まずそういうわげで、高い球上がったら貴美雄は打だねえで、かあちゃん打づごど!」  
 タワスはそう言って、強引にこの話題を切り上げた。  

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35『ゲームセット!』

 最終セットが始まった。  
 ガリムの動きに制約が付いたことで相手の戦術にも狂いが生じた。試合は接戦にもつれこんだ。  
 5対5。両者譲らないまま最後の1点勝負となった。
「貴美雄! あど1点だどう!」
「頑張れー! 集中、集中!」
「負げだらぶっ殺すどお!」  
 応援にも熱が入ってきた。
(すごい! こんなに白熱するものだったんだ)  
 旗を持つ彩の手は汗ばんでいた。
(お願い! 微妙なとこにだけは打たないでよ)  
 彩は線審の重責を感じて足が震えた。  
 相手のサーブだった。ボールは緩い弧を描いてガリム側のコートに入った。  
 ガリムははやる気持ちを抑えて、ワンバウンドしてからそれを打ち返した。  
 ボールは直線で相手のコートにインした。  
 元キャプテンがそれを鋭く打ち返した。  
 ボールは、真奈の左側前方のラインすれすれに落ちた。  
 真奈は反応できない。  
 ピッ!  
 主審の笛が鳴った。全員の視線が線審の彩に注がれた。  
 ミニテニスは延長がないため、この判定で勝負が決してしまう場面だった。
(えっ? 何? 私? えっ? えっ?)  
 彩は無我夢中で旗をコートの中に差し出した。『イン』の判定だった。  
 味方チーム全員の刺すような視線が彩に注がれた。
「今、入ってねえべよ!」
「アウトだ、アウト!」
「彩、どご見でんだ!」
「こらっ! ボヤッとすんでねえ!」  
 思い切りやじが飛んだ。当然といえば当然だが、それは全部味方からのものだった。  
 ガリムはげっ歯類の歯をむき出しにして、
「絶対入ってねえ。神懸げで入ってねえ!」  
 と言って、彩の頭の上でラケットをビュンビュン振り回した。  
 彩は泣きそうになった。  
 主審が相手側に手を挙げようとした、その時だった。
「ああ、今入ってませんね。少し外れてました」  
 キャプテンだった。「あ、さてー」の小林完吾ばりの渋いが優しい低音だった。『さわやか系カップル』は、最後までさわやかでフェアーだった。文字通り「生きることと恋」を教えてくれそうなタイプだった。そのキャプテンにあこがれていた『ひとつ下級生』もまた、そんな夫を誇らし気な目で見詰めていた。さわやかなスポーツマンシップだった。麗しいスポーツマンカップルだった。  
 主審は副審を呼んで少し協議した。全員の注目の中で主審はコールした。
「ノーカウント!」  
 ゲームは5対5からの再開となった。  
 ガリムは鼻穴を広げて興奮していた。  
 スポーツマンのキャプテンがサーブを入れた。少し浅いポップフライだった。  
 ガリムは猛然とダッシュしてボールに追いつくと、思い切りラケットを振った。  
 ボールはまだ上空にあった。
(あっ!)
(終わった・・・)  
 味方チーム全員がそう思って落胆した。
(やりい!)  
 線審の彩だけがホッと胸を撫で下ろした。  
 その時だった。  
 バンッ!  
 ガリムのふた振り目がバウンドしたボールにヒットした。そのボールは相手コートに着地した。
(うそっ!)  
 彩は焦って線審の旗を強く握りしめた。
「おーっ!」  
 味方チームからどよめきが漏れた。  
 ひとつ下級生が難なくそのボールを打ち返した。ボールは高いフライになって真奈の前方に飛んできた。  
 真奈がゆっくり振りかぶった。そして思い切りラケットを振り抜いた。  
 バリリンッ!  
 聞きようによっては美しい音がした。ハープの音色に少し似ていた。
「ゲームセット!」  
 主審がコールし、高々と右手を挙げた。  
 さわやかカップルはハイタッチをして抱き合った。最後まで絵に描いたようなさわやかさだった。  
 味方チームは早々と帰り支度を始めていた。彩もホッとして線審の旗を主審に返した。  
 コート上には、フェイスがボロボロになったラケットを手に持った真奈と、げっ歯類の歯に糸をぶら下げたガリムが取り残されていた。
「チッ、チッ、チックショー!」  
 ガリムはそう叫ぶと、転がっていたボールを拾ってげっ歯類の歯でかみちぎった。  
 真奈が手を差し出しながら言った。
「2万円!」  
 想像通り真奈は、ガリムがいい振りをこくために『出会い系サイト』で調達した偽装妻だった。タワスには、偽装婚をそそのかした『偽装ほう助』の疑いが残った。  

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36『ウツギの串』

「スミさん、串っていうのは?」  
 かつらが聞いた。
「あん? ウヅギの棒っこだべ」  
 スミが答えた。
「ウツギって、あの、きれいな白い花がたくさん咲く木ですね」  
 彩が言った。
「んだ、どごさでもある木だ」  
 彩は家の台所から見えるウツギの木が、5月頃一斉に小さな白い花をたくさん付けるのを思い出した。同時に、白い団子が鍋の中でプカッと浮いてくる残像も頭をよぎった。
「串の手配はできてるのかしら?」  
 かつらが言った。
「ああ、ダミ若勢が用意すっこどになってる」  
 スミはなぜかかつらには従順だ。
(私が聞いたら『彩、おめえ、偉ぐなったな』と言われそう・・・)
「あらっ、じゃあ、皆さんおそろいのようですから、聞いてきましょうかねえ」  
 かつらが言った。
「ああ、彩、聞いできてけれ」  
 スミが彩を指名した。
(はいはい。私の役はただの使いっ走りですよーだ)  
 彩はちょっといじけて立ち上がった。
「じゃあ、彩さんお願いねえ」  
 かつらはニッコリ笑って彩を送り出した。  
 彩は外へ出て、ダミ若勢がたむろしている古井戸のところにやってきた。
「おはようございまーす。どうもご苦労さまです」  
 全員が振り向いて彩を見た。
「おっ、おはよう。彩ちゃん、来てだが。周平もいっぺ」  
 ボンチンがまず声を掛けた。
「彩っ、おっ!」  
 メモチョーが片手を挙げた。
「彩サンオハヨウゴザイマス」  
 ふざけた調子でそう言ってタワスが笑った。歯がなかった。
「オス!」  
 照れながら小さい声でナマスが言った。
「オメナジキタ。シジガハジガ。ア?」  
 7時か8時か何時に来たか聞きたかったのは貫太郎だった。当然のことながら彩は4時とは答えられなかった。
「おはよう!」  
 バリトンの声はチョロQだった。  
 彩の知らない2人の若者たちも、「おはようございます」と標準語で言って頭を下げた。  
 1人だけ、あっちの方向を見て彩を無視した男がいた。ゴルゴだった。
「すみません、十六団子を刺す串はありますか?」
「串が?」  
 全員が責任者である貫太郎を見た。  
 貫太郎は、縄をなっていた手を止めて、
「サッサ、サッサ」  
 と言いながら顔をしかめて、福禄寿の額を自分でピタピタ叩いた。
(どうやら、『しまった! 忘れていた』っていうポーズのようだ)  
 檀ふみのように彩は、貫太郎のジェスチャーから意味を連想した。
「マッソ、ウヅジキナダデトッキッケ」
(・・・)
「マッソ、マッソ」
(何? イタリア語?)  
 彩は次の行動を見守った。  
 動いたのはナマスだった。ナマスはズンズン垣根に向かって進んでいくと、腰に提げたナタでウツギの木を何本か切って持ってきた。
(ということは「ウツギの木を切ってこい」とナマスさんに命じたんだな。ナマスさんは確か益男っていう名前だったはずだから、マッソは益男って言ったのかも。それにしてもナマスさん、よく解読できたものだ)  
 彩は感心した。2人の若者も彩と同様の顔をしていた。
「今持っていぐがら、彩ちゃんあっちゃ行ってでもいいど」  
 ボンチンが言った。  
 彩は、
「すみませーん。じゃあ、お願いしまーす!」  
 と言って台所に戻った。  

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37『しゃべってみろ!』

 ウツギの木を削って作った串は、それから間もなく届けられた。持ってきたのはゴルゴだった。  
 ゴルゴは、例によって何のあいさつもなく台所に入ってくると、4本の串をスミにポイッと渡した。
「おい! おめえ、口ねえのが!」  
 串を手に取ったスミが言った。
「・・・」  
 ゴルゴはプイッとそっぽを向いた。
「おめえ、いい年してあいさづもでぎねえっつうでねえが」
「・・・」
(そうだそうだ。言ってやって、言ってやって)  
 彩は心の中でスミを応援した。
「あいさづでぎねえつうごどは、こっ恥ずがすいごどなんだど」
「・・・」
「おめえぐれえの年になっと、誰も教えでくんねんだ。みんな陰で笑ってるだげなんだど。おめえ笑われでるんだど。おお、こっ恥ずがすいごだ」
(そうだそうだ!)  
 彩は思った。
「いいが、おめえも村の人間だど思うがら特別に教えでやる。あど、二度ど言わねえがら耳の穴カッパラッテよーぐ聞いでおげよ!」
(スミさん、それを言うなら『かっぽじいて』!)
「ありがどござります」
「・・・」
「申す訳ござりましぇん」
「・・・」
「おはようさんでござります」
「・・・」  
 スミは、それから思いつくだけのあいさつ言葉を並べていった。
「おらの屁臭がったべ、ごめんごめん」  
 スミは、日常生活のかなり具体的な用例まで挙げて、最後に、
「ほれっ、しゃべってみろ!」  
 と言った。
「ありがどござります。ほれっ、しゃべってみろ!」
「・・・」
「しゃべれ!」
(しゃべれ、しゃべれ!)  
 彩はジッとゴルゴの口元を見ている。
「・・・」
「ありがどってしゃべってみろ! このバガッ!」
(そうだ!)
「・・・」  
 ゴルゴは依然そっぽを向いたままだ。  
 黙って聞いていたかつらは、
(これは無理だわ。小学生に諭すのとわけが違うもの)  
 と思って止めに入る態勢になった。
「あいい、『ありがど』でねえったって、『どんも』でもいいべや。なあスミ」  
 的外れなことをのり子が言った。それはゴルゴにとって決して助け舟になるようなものではなかった。  
 スミは追撃の手を緩めなかった。
「さあ! ありがどでもどんもでも・・・」
「ども・・・」  
 ゴルゴは小さな声でそうひと言つぶやくと、いきなり向きを変えてバーッと駆け出していった。
(えっ? ちょっと、何? 今言わなかった? ねえ、ゴルゴがあいさつしなかった?)  
 彩は驚いて目を丸くした。
「まあまあ、スミさん、立派だわあ。教師だった自分が言うのも手前味噌なんだけど、人を教化するって大変なことなのよねえ。ましてやいい年をした大人に教えるってことはとても勇気が要ることだわあ。最近は、そういうことをすると、逆切れする子どもや親がいるし、PTAなんかでも『モンスターペアレント』っていう、何て言うんでしょう。とっても怖い人たちがいましてねえ。もちろん、教師側にも問題はあるんでしょうけど、それにしても今の教師はおびえて何もできないんですよねえ。昔は、もっと教師自体に権威があったし、地域の大人たちもスミさんみたいに叱ったり教えたりしてましたものねえ。悪いことは悪い、いいことはいいって。そういう意味では昔の子どもたちのほうが幸せだったと思いますねえ」  
 かつらは、日頃思っていた『教育への憂い』みたいなものを一気に語った。  
 確かに彩も愛宕村に来て感じたことは、地域社会に暮らす人たち同士の距離がとても近いということだった。いつも顔が見える距離に村人全員がいるということは、プライバシーがないようなものだし、うるさい干渉にさらされることも多い。反面、かつらが言ったような、村全体で他人に関わっていけるというメリットもあるし、防犯という意味でもそれは大きく役立っていた。村人の誰一人として家に鍵をかけて外出する人がいないのもいつも近所の人の目が、セコムの役割を果たしていたからだった。
「モンスタって何だ?」  
 忘れていた頃にのり子が聞いた。
「それはね、怪物っていう意味ですよ」  
 かつらが教えた。
「おっかねなあ、ペリカンって何だ?」  
 のり子がまた聞いた。
「ああ、ペアレントは親ごさん、父兄っていう意味ですね。怪物のような親です。わあ、怖いですねえ」  
 かつらが怖い顔をした。
「このバンバのごどだな」  
 のり子がスミを指さして言った。
「確かに」  
 かつらと彩は顔を見合わせて同時に吹き出した。
 十六団子はいよいよ最終段階を迎えた。塊は16等分され、その一つ一つは楕円形の大判型に成形されていった。厚み2センチ、縦15センチ、横7〜8センチくらいの立派な大判だった。  
 スミはゴルゴが持ってきたウツギの棒に、それを4つずつ串刺しにしていった。
「わあっ! できましたね!」  
 彩が思わず叫んだ。
「これは是非、記録して伝承しなきゃ!」  
 かつらが持ってきていたカメラを向けた。
「さあ、スミさん、のり子さん入って、入って。あっ、彩さんもそれ持って。そうそう」  
 パチッ!  
 その写真にはふんずり返ったのり子と十六団子を持った彩は写っていたが、スミはどこにもいなかった。  

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38『団子ルール』

「貫太郎、それ何の縄だ?」  
 ボンチンが聞いた。  
 貫太郎は、不器用な手付きで何やら縄をなっている。
「ア? コイガ? ハナデェコダ。ムガッサバワッシダサナマバナモダシェダモダドモ、イマダバコッテデャココシャルタ」  
 槙原鉄平と蛭川和彦が、ポカンとした顔で貫太郎の話を聞いていた。それを見ていた第2班のリーダーのナマスは2人にこう通訳した。
「花の台っこだ。昔はワラシさ生花持だせたもんだども、今ワラシもいねがらその代わりだ」
「なしてそう手あんべ悪いって。パッパどやればいいべ」  
 なかなか上手くなえないでいる貫太郎にタワスが聞いた。
「ア?」  
 貫太郎は、チラッとタワスを見上げて言った。
「フンダリ。フンダリ。フツミギダベ。コエダバフンダリダタ」  
 ポカンとしている若者にまたナマスが解説した。
「普通だばあれだべ、右でなうべ。んだども、これは左ないでなわねばねた」  
 なるほど、という顔で若者がうなずいた。
「ソシギンズギダバ、ンナギャグダタ。キタマグラモソダベ」
「葬式ノトキハ皆逆ニナルデショ。北枕モネ」  
 今度はタワスがふざけた口調で解説した。  
 鉄平と和彦はプッと吹き出しつつ大きくうなずいた。  
 貫太郎は縄をない終わると、それで3本足の花台を5つ作った。そして台の上に造花を1本ずつ挿した。
「ユッジ。ダンゴデッダガミッコイ。デッダラモラッコイ」  
 貫太郎はゴルゴ優一に向かって指示を出した。「団子ができてたらもらってこい」という指示だった。
「ショッジ。タッショバテコイ」  
 貫太郎は次に、ボンチン昭一に向かって指示を出した。「貴志を呼んでこい」という指示だった。  
 ゴルゴとボンチンはすぐに行動を起こした。
(なぜ分かるんだ?)  
 鉄平と和彦は、自分たちが異次元の世界に迷い込んだ感覚を覚えていた。  
 ゴルゴは台所に顔を出すと、少し照れくさそうではあったが、
「あっ、ども」  
 と言った。みんながビックリして振り返った。
「あっ、ども。団子できましたか?」  
 ゴルゴが小さな声で聞いた。スミは、
「おう、優一、おめ口あっていがったなあ」  
 と言った。
「ども」  
 ゴルゴが言った。
「んだ、そうやって練習すろ。練習すてればしゃべれるてが」
「あ、ども」
「ほら、団子こさある。持っていげ!」
「あ、どもども」  
 ゴルゴは団子を4串手に持った。小指がオカマチックに立っていた。そして彼はそれからこう言った。
「あ、ども、ども。ありがとう・・・ございました」  
 そしてゴルゴはなんと笑ったのである。麻雀の千点棒がゆがんだのである。笑ったゴルゴの顔を想像していただきたい。多分コミックでは一度も見せたことのない表情ではないだろうか。
(おーっ!)  
 かつらは思わずカメラを向けた。  
 パチッ!  
 漫画史に残る1枚だった。
(でも・・・)  
 彩は思った。
(これはこれでちょっと怖いかも・・・)  
 一方貴志を呼びにいったボンチンは、玄関の前で献花の位置を直していた周平と行き会った。
「よう、周平、ごぐろうさん!」
「よう、ボンチン。おめえこそ、ごぐろうだな」
「さっき、彩ちゃん来てだっけや。相変わらずめんこいなあ」
「ははっ、なあに、ジョアンちゃんのほう、よっぽどめんこいべや」
「だめだ、タルだ、タル。これこれ」  
 ボンチンはそう言って、周平が持ち上げていた大きな献花の鉢をポンポン叩いた。周平はおかしくて思わずそれを落としそうになった。
「タガスさーん!」  
 座敷に向かってボンチンが叫んだ。
「はいはい、何でしょう」
「ちょっと来てけねすか? 貫太郎呼ばってるす」  
 貴志はサンダル履きで表に出た。
「周平、おめえもちょっと来てみれ」  
 ボンチンが言った。
「おお、おもしぇそうだな」  
 周平も貴志の後を追った。  
 古井戸の周りには男衆が大勢集まっていた。その中で貫太郎が言った。
「タッシ、モシュオベデゲヤ。イガ、ハガサッタラハガンヨッスミッサフトッツヅオゲ。イガ、コステフトッツヅオグタ。イガ」  
 貫太郎は棒で地面に大きく墓の絵を描いた。貴志はポカンとしている。それを見て取ったタワスがおちゃらけた調子で通訳をした。
「タカスさん、これは喪主が覚えでおぐごどですよ。いいですか。墓に行きますたら墓の4隅さ、1つずつこう置いてくださいね」
「ああ、なるほど。十六団子を置くんですね」  
 と貴志。  
 貫太郎は、
「ンダダ」  
 と言って無垢のほほ笑みを浮かべると、今度は十六団子のひと串を持って貴志に見せ、
「タッシ、イガ、ケルッギコシテフタッシテ・・・」  
 と言ってナマスに目で合図を送り、
「コシテ、フタッシテ、フパテ・・・」  
 と言った。串に刺さった4つの団子のうち、一番上の団子の両端を貫太郎とナマスがそれぞれつまんでシミュレーションしている。
「タガスさん、最後に帰る時は、こうやって団子を2人すて引っ張ってくださいね」  
 タワスが解説した。
「はあはあ、なるほど」  
 貴志は理解した。
「タッシ、イガ、コシテフパテ・・・」
(あっ!)
「サッサ、サッサ」  
 貫太郎は小鼓を叩くような手付きで、福禄寿の額をパチパチ叩いて動揺した。  
 2人の手にはちぎれた団子の片割れが握られていた。シミュレーションのつもりで、引っ張るまねをしていた団子が本当にちぎれてしまったのである。貫太郎は動揺を打ち消しながら話を続けた。
「イガ、タッシ。シタッコイメツブテウッサナゲレ。イガ、コステ・・・」
(あっ!)  
 団子が本当に後ろにぶっ飛んでしまった。  
 慌ててチョロQがそれを拾いに走った。
「タガスさん、タガスさん。そうしたら目をつぶって後ろに向かって投げてくださいね。お願いよ」  
 タワスは余計なフレーズまで付け足した。
「ええ、ええ、よく分かりました。でも、これは一体どういう意味があるんですかね」  
 貴志が貫太郎に聞いた。貫太郎はチョロQが拾ってきてくれた団子の片割れの泥を落としながら、
「ギョギワリベ、フタッステフパタリナゲダリヒバ」  
 と言った。
「行儀悪いでしょう。2人すて引っ張ったり投げたりすれば」  
 タワスが言った。
「ソシギンズギダバ、ンナギャグダタ、ママサハスタッダリスベ」
「葬式のときは皆逆になるでしょ。ご飯にはし立でだり」
「なるほど、じゃあ、墓の4隅に置くのはどういう意味ですか?」  
 貴志がまた聞いた。
「マユゲダベナ」
「魔除けでしょうね。ワダスはそう思いますよ」
「なるほど。じゃ、4本の串に4つずつ団子を刺すっていうのはどういう意味があるんですかね」  
 貴志の興味は尽きなかった。貫太郎はしばらく考えていたが、
「ソダバシャネ」  
 と言った。
「それはワダスも分かりませんわ」  
 タワスがおちゃらけて言った。  
 貫太郎は周平に目を留めると、
「シュヘ、ショエバオメハッサヘテッジギ、ズチャスダベ。アジギオアメフテナ」  
 と言った。周平はタワスの通訳を待った。タワスは、ちょっと不安な色を顔に浮かべて貫太郎の元へ行くと、首を傾げて何か聞いていた。それからタワスは「ああ、ああ」とうなずきながらこう言った。
「周平さん、そう言えば、あなたがおなかさ入っている時、おずいさんが死んだでしょう。あの時大雨が降っていますたのよ」
(へえ)
「ムッシノダミダバジョリハデエタモダ」  
 周平はタワスを見た。
「昔のダミ行列はみんなわら草履を履いていったものでしたわ」  
 通訳がややオカマチックになってきた。
(へえ、そうなんだ)
「ケルミヅヌガテアスンナガッパガッパテナトモカトモヨデニャガタ」  
 周平はすがるようにタワスを見た。タワスはまた貫太郎の耳元で何か確認をして言った。
「帰る道がぬかってね、足がみんなガッパガッパってなってね、何ともかんとも大変でございましたのよ、おほほっ」  
 タワスがしなを作るとそこにいた全員が爆笑した。  
 貫太郎は、
「サッサ、サッサ、オッチュ、オッチュ」  
 を連発しながら、割れた団子の修復作業に入っていた。  

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39『ヌエの夢』

「スミ、おら帰るど。もはや9時だもの」  
 時計を見ながらのり子が言った。
「ああ、大丈夫だ。あどはおらだぢさ任せろ」  
 スミは十六団子の早期完成で余裕をかましている。
「あらっ? のり子さんお帰りですか?」  
 かつらが言った。
「ええ、何でも息子さんが来られなくなって、のり子さんが葬儀に出席するらしいですよ」  
 彩がのり子に代わって答えた。  
 のり子は帰っていった。  
 窓の外に向けた彩の視界からのり子の姿が消えると、今度は入れ替わりに白い頭巾をかぶった尼僧が姿を現した。尼僧はいつものようにのんびりゆっくりではなく、急速にズンズンと近付いてきた。
(えっ? どうしたのかしら)  
 彩は胸騒ぎがした。同時に、
(なんだ、この人、早く歩けるんじゃない)  
 とも思った。  
 マチはバタバタと音をたてて、息も絶え絶えに台所に飛び込んできた。
「た、た、た、大変なごどなった!」  
 頭巾をかぶったままマチが言った。
「なした、マチ!」
「どうしたんですか?」  
 スミと彩の声が重なった。
「き、き、き、金蔵、きゅ、きゅ、きゅ、救急車で運ばれたど!」
(えっ! ムスタキさんが!)
「し、し、し、心臓、と、と、と、止まってだど!」  
 マチはそう言って荒い息を少し整えると、
「あ、あ、彩ちゃん、おらさ水一杯けれ!」  
 と言った。マチは彩からもらった水をゴクリと飲むと、
「あいい、おら、ドギドギして何もかんもなにゃは」  
 と言って、ガクガク震えている足を押さえた。
「ほ、ほ、ほ、ほんとだが! マチ!」  
 スミはヨロヨロと立ち上がってマチの元に来ると、
「き、き、金蔵死んだってが!」  
 と言ってマチの手を握った。そして腰砕けのようにガクッと床に倒れ込んだ。
「まだ分がらねども、とにかぐ心臓止まって今病院さ運ばれだんだど」
「して、タ、タ、タマヨは、タマヨはなとしてる?」  
 床に倒れたままのスミが言った。
「タマヨ、腰抜がして家さいるど。正夫、病院さ付いで行ったんだど」  
 スミは、マチの手を握って立ち上がろうとしたが、腰が抜けて立ち上がれないようだった。
「ああ・・・」  
 低い声でスミが言った。
「ヌエの夢・・・」  
 彩もかつらも、掛ける言葉を失うほど2人は激しくショックを受けていた。  
 特に、顔面蒼白になったスミは、入れ歯をガクガクさせながら完全に腰を抜かしていた。よく見ると、モンペの股の辺りに黒いシミができていた。
「と、と、とにかぐ、タマヨの家さ行がねばね!」  
 スミは、そう言ってもう一度立ち上がろうとしたが、腰からよろけて倒れ込んだ。
「あいい、まんず少し落ぢ着いでがらだ、スミ」  
 マチが声を掛けた。
「ダメだ、ダメだ。おら、ドギドギして何もかんもは・・・」  
 スミは、そう言って床にペターンと横になった。  
 そこへまた二所谷が顔を出した。
「あのう、すみません。ここにもう1杯お水もらえますか?」  
 二所谷はそう言って彩にコップを差し出すと、足元に転がっているスミを見下ろして、
「どうしました?」  
 と言った。
「えっ? ええ、ちょっと不幸というか・・・」  
 彩が中途半端な答え方をした。
「不幸? ご近所ですか?」
「あっ、いえ。まだ不幸と決まったわけでは・・・」  
 慌てて彩が打ち消した。
「その方、決まってますか?」
「えっ?」
「もし、よろしければ紹介いただければ幸いですが」
(ちょっと、ちょっと、ちょっと!)  
 全員のひんしゅくのまなざしが二所谷に注がれた。  
 しかし、二所谷はそのまなざしにひるむどころか、
「ここに名刺を置いておきます」  
 と言って、コップを持っていってしまった。  
 そのやり取りを床の上からジッと眺めていたスミは、やや落ち着いたのかゆっくりと立ち上がって、
「マチ、一緒に行ってけれ」  
 と力なく言った。  
 こうして団子リーダーはマチに手を引かれながら、よろめくような足取りでタマヨの家に向かったのである。  
 あとにかつらと彩が残された。
「まただわ」  
 かつらがボソッと独り言を言った。
「えっ?」
「あっ、いえいえ。ねえ、あの方に限って、ねえ」  
 かつらは慌てて繕うようにそう言ってから、自分の家の茅葺きをやってもらっていた頃の金蔵の思い出話をした。
「あの方、屋根を葺いている時に、足を滑らせて地面に腰から落ちたことがあったの。みんなが驚いて駆け寄った時、あの方は倒れながらもこう言ったの。満面の笑みでね。『何でもない。でも、頭から落ちればもっとよかった』って」
「えっ?」
「バカも少し治ったべって。あの方は、それから2日休んだだけで現場に復帰したのよ」  
 かつらはそう話してから、
「あの方に限って大丈夫ですよ」  
 と言ってニッコリ笑った。
「そうですね」  
 ムスタキさんのあの独特の容姿と言葉を思い浮かべながら、彩は切にそう願った。(まだまだ続きます!)  

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●『第2部第2章』へ続く

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