「ことなとひまめのリレーエッセイ」

2004年6月から2005年1月までの田舎暮らし、介護の体験を振り返って、寒い冬、凍えるような奥座敷の部屋で、ストーブにあたりながら書いていた頃の原稿が出てきました。ボクらも忘れていた、初々しくも懐かしいエッセイです。

天使が舞い降りた 助けてケロッ! 三食デザート付き 庭のたけのこ 酒飲み天使 チョロQさん登場1 ことなひまめハーブ畑1 スイカとトミさん1 台風襲来 ハナさん 囲炉裏とおか炉 さんま友だち 稲田を散歩 親として 大工もやります ことなひまめ事務所 アオゲラータ 突き刺さる 雪下ろし


「待望の畑ができた!」

 家の裏に、庭続きになっている敷地がある。ことなのお母さんが元気だった頃までそこはよく手入れされた土にたくさんの野菜が実を結び、花が咲き乱れていたという。「ここに畑をもう一度作るんだ」とことなは張り切っている。もちろん私も。だってそれがやりたくてはるばる秋田まできたんだもの。目指すは自給自足、ダッシュ村の世界。採れたての真っ赤なトマトやイボイボガッツリの元気なキュウリ、つやつやとしたナスを井戸水であらってまるかじり。ざるに彩りよく盛ってさりげなくキッチンに置くだけで絵になりそうではないか。そして私はあくまでも「阿弥陀堂だより」の樋口可南子。しかし今、目の前にあるのは、いかにも放置されてヘソをまげたままのようなごつごつとした肌を剥き出しにした「地面」である。
「でも、俺が来たときはもっとひどかったんだよ。雑草ボーボーで、ホント、ただの空き地。ひまめがくるっていうんで、親父が張り切って毎日草取りしたんだから」
 そう聞いてなんだかちょっとジーンときた。3人で頑張って、ここが再び見事な畑に生まれ変わるさまを想像すると、むしょうに労働意欲が掻き立てられた。
「ところで、ここ、手で耕すんだよね?」
「うん。もちろん」
 かなり大変そうではある。いつかどこかで見た北海道の開拓時代の映像が浮かんだ。
 私の心を見透かしたのか、「欲張らないで、俺たちサイズの畑でいいじゃん」と隣でことなが言った。そう、ことなひまめサイズでいいんだもんね。とはいっても、最近運動不足で体力も落ちてるし、いくら小さな畑といっても、13年も手付かずの土を果たして2人と老人1人の力で耕せるものだろうか…。なにしろ「耕す」といっても、何からどうやればいいのか想像もつかないのだから。
 夕食のとき、ことながトシゾーにいよいよ畑作りを始めるのでどんな道具が必要かを聞いた。    
「マッカだべな。マッカ買って来っといんだ」
「なに? マッカ? マッカって何や?」
「耕すやづだ」
 私もことなも全くイメージできなかった。    
 翌日、例のスーパーセンターアマノに繰り出した。農作業グッツコーナーはかなり品揃えが充実している。なんとなく耕す道具ぽっぽいものが並ぶ列で私たちはあれこれと品定めを始めた。「鍬」だけはわかった。肝心の「マッカ」ってどれだろう。そんな名前が表示されているものはみあたらない。    
「これじゃない?」とことながかなり大きな声で言った。手にしているのは、巨大なフォークのようなものだ。そのものずばり、「フォーク」という名前だった。    
「きっとこれだよ、ほらよく映画とかでさ、開拓時代のシーンでこれ持ってる人いるじゃん。昔はマッカって呼んだのかもな。親父の言うことだから当てになんないし」
「そっか! あるある、みたことある」    
 私たちは迷わずそれを購入した。持ち手のところが赤く塗られていてなかなかかわいい。ついでに、農作業用の長靴も買ってもらった。私の足のサイズは22.5センチ。婦人用の売り場にはなぜか23センチからしか置いていなかった。この辺の女の人は足が大きいのだろうか? 仕方なく子供もののコーナーで物色。真っ赤に白い縁取り、おまけにリボン結びの飾り紐までついたカワイイやつにした。マッカとのコーディネートもこれでバッチリ。    
 家に帰り、テレビタイムで起きだしたトシゾーにさっそく買ってきたフォークを見せた。しばしの間があってから、トシゾーは表情を変えずに言った。「これでねな」。    
 結局翌日。私たちはまたスーパーセンターアマノに繰り出し、今度は手堅くお店の人に聞いて、やっとトシゾーの言う「マッカ」を手に入れたのだった。    

 6月12日、快晴。いよいよ畑作りが始まった。    
 麦わら帽子に買ったばかりの真っ赤な長靴といういでたちで張り切って外へ飛び出した。    
「どお、どお?」    
 すでに準備に入っていたことなは、私の姿を見るなり大声で笑った。隣にいたトシゾーまでが控えめではあるが、笑っている。「そんなに変?」    
「ホント、農業1年生って感じ」

 まず、敷地の隅っこにことながマッカを振り下ろした。    
「重てえ。けっこう重いよこれ」    
「どれどれ、私もやってみた〜い」と受け取ったマッカは確かにずしりと重かった。うわあ、これを持ち上げて、振り下ろすわけね。3回もやればもうバテそうだった。敷地が果てしなく広く感じた。
「お、やってだな」
 私たちの騒ぎを聞きつけたのか、近所の人がニコニコしながら現れた。小柄なおじさんだ。ショウノスケさんというらしい。私たちが引っ越して来たことは、多分もう村中の人が知っているはずだったが、私は来てからまだケイコさんとケンゾウさん以外には誰にも会ったことがなかったので、ちょっととまどい、もじもじしかけた。そのとき、「なんと、、都会がら来て長靴が」とショウノスケさんが可笑しそうに笑った.そんなに変? 「頑張れ、頑張れ」とショウノスケさんは続けながら、なおも可笑しそうだった。    
 そんな騒ぎを聞きつけたのか、またもや一人現れた。後ろの家のショウザブロウさんだ。「お、畑が」。そういいながら私を見て、彼もやはり笑った。    
 ショウノスケさん、ショウザブロウさん、そしてトシゾーの3人は、サロン(軒先にことながどこからか引っ張りさしてきたジープの幌を日よけ代わりに張ったもので、実家からもらってきたケヤキの板で作ったテーブルをおいたら、なかなかいい雰囲気になった。私たちはそこをサロンと名づけた)につどい、麦茶なんかを飲みながら、私とことながマッカと格闘しているのをニコニコ顔で眺めていた。    

 暫くして、ショウノスケさんが「機械、動ぐべがな。なにしろしばらぐ使ってねものな」と言いながら家の方に歩いていった。何のことかわからなかったが、聞けばショウノスケさんの家に長い間使っていないトラクターがあるので、もしうまくエンジンがかかって動けば、この畑を耕してくれるということらしかった。  
 家の前の小道を、彼はトラクターに乗って颯爽と登場した。そして隣の空き地をいきなり越えて、我が家の畑に突入すると、前へ後ろへ、左へ右へ、自由自在にトラクターを操り、敷地の端まで行くととても巧みにくるりとターンして見せ、それはそれはカッコいい! 「チョロQ」っておもちゃがあるけど、まるであんな感じ。狭い敷地の中で大きなトラクターを運転するだけでもすごいことだと思うのに、トラクターには巨大な爪がたくさんついた装置が後ろについている。これを同時に上げたり下げたりもするのだから、なんて器用なんだろう。ショウノスケさんのトラクターは、ことなと私が目を丸くし、歓声を上げて見とれる目の前で、十数年ほったらかされていた土に容赦なく爪を立てて食い込み、ガラガラと耕していった。それはそれはすごい勢いであっという間に。マッカの出番はなくなってしまった。    
 トラクターによって長い冬眠から揺り起こされた土は、ごつごつと乾いた肌から黒々とした、いかにも栄養がいっぱいといった感じのつやと香りを放っていた。    
 とてもとてもありがたかった。考えてみれば、初心者2名と老人1名、1本のマッカで土をおこしていたのでは、畑ができるまで一体何年かかっていたことか……。あまりにも無知で頼りない農業1年生を見かねたのだろう。そして、ショウザブロウさんもショウノスケさんも、なんだかうれしそうだった。長いことただの荒れた空き地化していたところに手が加えられ、畑が蘇っていくことが、もしかしたらうれしかったのかな、なんて思う。「暫く休ませてただけあって、いい土だ」とショウノスケさんとショウザブロウさんが太鼓判を押してくれた。もりもり野菜が育ちそうだ。よし、頑張っていい畑にするぞ!

   

「個性的老人」

 僕の父、トシゾーについて書く。父ではあるが、一個の風変わりな生物の解析といってもいいだろう。むしろそういう視点でおもしろおかしく分析してみたいのだ。トシゾーは良くも悪くも変わった生き物だ。彼は、まず病人かどうか非常に怪しい。一応介護認定を受けて病人らしい素振りを見せてはいる。彼を診断した医者の所見によると、彼はパーキンソン氏病の疑いがあり、ウツ病患者に属するらしい。そんなわけで、介護認定を受けたのだが、これはどうも怪しい。僕らが見ている限り、多分にそれは誤診と思われる向きもある。    
 以前は確かに舌が痺れ、手が震えていたときもあった。だけど、こっちに来てからの彼は、全くそういう症状はないのだ。むすり食欲旺盛、顔の色艶もいい。頻尿であることぐらいが気がかりだが、それとて、あれだけ飲んで食っていれば、むしろ健康の証。当たり前のことだと思う。こちらに来て医師の診察を受けたときには、内科的にはどこも悪いところはないとお墨付きをもらったのだから。    
 それなのに、いつも寝ているし、家から一歩も出たがらない。そしてほとんどしゃべらない。こちらが話しかけてもほとんど聞いておらず、「はっ?」とすっとんきょうな声を上げて切り返すか、2〜3回質問したあげく、「んだな・・・・・・」と言ったきりで会話の腰を折ってしまうこともある。そんな時、僕とひまめは目を見合わせて「仮病だぁ」と思うのである。つまり、彼はずっと病気のままで楽をして面倒を見て欲しいだけなのではないかという疑念が沸き起こるのである。    
 病気の信義はさておき、トシゾーの昔を知る村の人の話は、彼の本質的性格を知る手がかりになるだろう。9人兄弟で後妻の長男として生まれたトシゾーは、子どもの頃から家に閉じこもって本を読んでいる人間だったようだ。外で遊ぶこともなく、部屋で本を読んだりするのが好きで、あまり友だちもいなかったとは、彼を知る人の証言だ。今で言うひきこもりの傾向は昔からあったと思われる。従って、その性格的なものはいまだに変わらず残っていると考えると合点がいく。今の病気は、もともと持っていた性格に起因するのではないかと思う。僕たちはトシゾーにイラ立つことが多かったのだけど、病気だと思えば止むを得ないとあきらめ、言い聞かせてきたことも、そう考えると納得できる。同時に彼の怠慢がクローズアップされ、よけい腹立たしくもなるのである。でもまあ、飯の好き嫌いがあるわけでもなく、何ひとつ不満もいわないし、要求を出すわけでもないので、こちらが割り切って付き合えば問題はないのかもしれない。独特の体臭や不潔なコップ、全体としての暗〜い感じを除けば・・・・・・。    

 トシゾーが病気であることは、ことなから聞いて知っていた。しかし、トミさんとトシゾーを連れて一足早く秋田での生活を始めた頃のトシゾーは、トミさんの痴呆症状があまりにもひどかったためなのか、トシゾーの方はむしろことなを助ける行動言動さえ見られると聞いていたこともあり、ちょっとピンとこなかったのも正直なところだった。電話でトシゾーの様子を聞くと、決まって「今寝でる」ということなの答えが返ってくるのにも、そんな四六時中寝ていられる人間がいるわけない、と半信半疑だった。でも、それは本当だった。    
 朝ご飯の支度をする頃に起きてきて、TVを眺めながら新聞を読む。美味しそうに朝食を平らげる。そしてその次にとる行動は就寝であった。    
「うそ、うそ、今起きたばかりじゃん。やっぱり病気なのかな?」  
 数時間後、昼ご飯の用意をして声をかけると起きだす。美味しそうにペロリと平らげる。そして、次はまた寝る、のである。夕方、4時ごろになると夕刊をもって起きだす。晩酌をしながら夕飯が出来るのを待ち、デザートまでをペロリと平らげる。お風呂に入り、そしてまた、寝る。    
 標準的毎日のスケジュールはこんな感じ。    
 24時間のうち、少なくとも20時間はベッドの上というのを目の当りにして、内心すごく驚いた。たしかに病気で入院している人とかならありえる話だ。しかし、納得できないものが残る。だって、元気なんだもの。顔色もいいし、足腰もしっかりしてるし(もちろんシャンシャン歩ける)食事の量は私が知っている75歳のどの老人にも負けないくらいだ。好き嫌いもない。和洋中なんでもOK。常にカンショクだ。    
 読書を勧めたこともあった。散歩や昔からやっていたという俳句作りも勧めてみた。三日坊主に終わった。唯一飽きないのがベッドに横になることらしい。後になって、いろいろ分ってくるのだが、トシゾーに対する最初の驚きは「よく寝られるもんだ」ということだった。

「マサハルさん」

 マサハルさんとの出会いは、かれこれ1年前になる。もっとも僕が小学校のときに飼っていたウサギを交配させてもらうために、当時中学生だった彼に会ったことがあったので、全く面識がなかったわけではない。だけど僕は高校をでて村を離れたわけで、マサハルさんの記憶はそこで途切れていた。2月の寒いさなか、僕は医者から絶食を言い渡されるほどの下痢と発熱を押して介護を始めるための準備に村を訪れていた。厳寒の中での、家の普請の話はまたあとでするが、とにかくもう僕は憔悴していた。    
 普請の段取りを終え、車もなかったから僕はへとへとになった体で仙台へと戻るために村のバス停で1日5本しか走っていないバスを待っていた。そのとき、白いトラックが僕を通り越したところでいきなり止まった。車の中でなにやら呼んでいる声がした。僕があわてて近寄ってトラックの中を覗きこむと、「おい、おめサブロヘの・・・。乗ってあべ」とぶっきらぼうに言われた。僕ははじめ、さっぱり誰だかわからなかったが、大きなリュックを抱えてそれに乗り込んだ。その人は、トラックを走らせながら「俺どごわがるが?」と聞いてきた。「はあ・・・」ぼくはさっぱりわからなかったが、なんとなく横顔に見覚えがあった。それで聞いてみた。    
「もしかして、キヘイの・・・」
「んだ、マサハルだ」
 と、急にニヤッと笑って横目で僕をチラっと見た。それから町に着くまでいろんな話をした。僕もこっちに来た訳を話し、礼を言って別れた。それがマサハルさんとの再会だった。 マサハルさんは僕より6つほど年上だったが、村で大工をしていて、困ったことがあったら相談しろとも言ってくれた。    
 それからひと月ほど仙台で引越しの準備をして、再び村に来たとき、これから住もうとしている家のあまりの荒廃ぶりに僕は頭を悩ませていた。そのとき、マサハルさんのあの時の言葉が浮かんできた。でもお金がない。それでも相談だけはしてみようと思って電話をした。マサハルさんは、その夜すぐに来てくれた。そして家の中を見回して、あまりにもひどい有様に深く同情したようだった。    
「おめ、これだば住めるもんでねえべ」
「んだども、金ねえもんな・・・」
 そう言うとマサハルさんは、    
「なに、年寄りの部屋ど台所ばりだばそうもかがんねや」
 と言った。    
「ほんとに銭ねえもんな」
 と、僕がまた言うと、    
「床と天井の材料代ぐれだばあんべえ。あど、余ってる資材もあるがら、やってやっと」
 と、言ってくれた。    
 僕が持っているありったけの金額を言ったら、マサハルさんはあきれたようにちょっと笑ったけれど、「いい、ほいでいい。なに多少床の色違ってもいいべ」    
 と、それから1週間ほどで見違えるような部屋を3つ作ってくれた。僕も一緒にゴミを焼いたり釘を打ったりして手伝った。せめてもの恩返しのつもりで。    
 完成してお金を持っていったとき、マサハルさんがぼそっと「大工に消費税はいらねえ」と言った言葉がカッコよかった。    
 それから僕はしばらくの間、買物や役所への用足しに、家から持ってきた、時々ガタガタいってハンドルがはずれるようなぶっこわれた自転車に乗って出かけた。だけど、さすがに荷物が大量だったり、ばあちゃんたちを病院に連れて行くときや雨の日はバスやタクシーを利用しなければならず、特に精神科の病院は秋田まで行かなければならなかったので、そんなときはタクシー代だけで往復1万円近くもかかったので、この先どうしたものかと胸を痛め、財布も痛んだ。そんな時だった。またしてもマサハルさんから電話が来た。    
「おめえ、ばっちゃんの病院さ何で行ってる?」    
「はあ、タクシーだすなあ・・・・・・」    
「クルマっこいらねが?」
「えっ? いやあ、銭っこねえもんねえ」
「なんもタダでけっから」
 これにはたまげた。しかもその会話の10分後にはマサハルさんがクルマでやってきて、「早ぐ乗れ」と促され、あれよあれよという間にそのクルマがあるところに連れて行かれた。    
 そのクルマは四輪駆動の軽自動車だった。足回りに多少の錆びはあるものの、まだ立派に乗れる代物だった。マサハルさんは「そいず、けっから。車検まだ半年あっから、乗れ」と言い置いてさっさと行ってしまった。後に残った僕は、そのクルマに乗り込み家に帰ることになった。窓を全開にして山林を走っている時、やったぁ〜! と叫んでしまった。こうして我が家にクルマが仲間入りした。このミラちゃんにはどれだけ助けられたかわからない。  

「鴨鍋初体験」

 向かいの町内会長であるケンゾウさんに、新しく出来た集会所の氷止めの注意書きの作成を頼まれて、ことなと2人でパソコンに向かっていた時だった。めったに鳴らない電話が鳴り、ことなが出て、「今ちょっと頼まれた仕事してたけど、んだすか、じゃあ後で」と言っているのを私は脇で聞いていた。電話の主はマサハルさんだった。なんでも「鴨鍋食ったごどあっか?今晩食わせっからかあちゃんと一緒にこい」という誘いだったという。    
 氷止めの注意書き作りは気になるものの、鴨鍋の一言にグラリときた。私は鴨鍋というのを食べたことがない。なにかの小説ですごくおいしそうな描写をよんだことがあって。密かに一生に一度食べてみたい、と憧れていた。憧れていたのはことなも同じだったようだ。    
 急に仕事の手が早まった。約束の六時、ことなと私はマサハルさんの家に向かった。仏壇がある広い座敷に通された。テーブルの上には、グツグツと音を立てている。なべ、なべ、なべ。醤油のいい香りがしていた。ドキドキした。この鍋の中は一体どうなっているんだろう?蓋を取ってしまいたい衝動を抑えるのが大変だった。気前良くビールや日本酒を運んでいたマサハルさんが向かい側にドスンと座り込み、無造作に鍋の蓋を取った!    
 ウワ〜、思わずことなと私は同時に歓声を上げた。ネギ、とうふ、牛蒡が煮える中にかものガラが見え隠れしている。マサハルさんはそこにこれまた無造作に鴨の肉を入れた。グツグツグツグツ・・・。今日の鴨肉は大潟村でせっせと田圃の虫を取って一生懸命働いてきた「合鴨」だという。彼は今朝絞め潰して今夜のご馳走となったわけだ。合鴨は外側の毛(羽毛)の中に、産毛をいっぱい蓄えているそうで、それを毟るのが面倒くせえんだ、とマサハルさん。想像するとちょっと躊躇を覚えたが、漂う香りにそれはすぐにかき消された。    
「遠慮しねえで食え」というマサハルさんの言葉を合図に、ことなとわたしは器に具とつゆを取り分け湯気が運ぶ香りを大きく一つ吸い込んでから、まずスープを啜ってみる。
「う、う、うめえ〜」
 同時に声が出た。「田舎の料理だ」と自嘲気味に話すマサハルさんだけど、それは彼特有の照れであり、鴨鍋のアジに自信があることはよく分った。  
 グツグツ煮たっていたのにスープは清んでいる、とても田舎料理と言えないような上品な味がする。適度な噛み応えのある鴨の肉は、豊潤で上品な味わいとなって口の中に広がる。ねぎがまた良く合うのだ。鴨ねぎとはよくいったもので、これ以上の取り合わせはない。私はこれが鴨鍋なんだ、と感嘆の声をもらし、一気に3杯もおかわりした。    
 余所の家にお呼ばれして、こんなに食べるのははしたない、と思いつつつい地が出た。だってそれほどおいしかったんだもん。鍋の中身がなくなりと、すかさず具が追加されマサハルさんは、ダシは醤油だけだと言いながら無造作に味を調える。本当に醤油だけなのに、こんな味が出せるなんて鴨はホントにミラクルだ。 注がれるままに飲んだビールも手伝って、死ぬほど腹がいっぱいになった。      

 マサハルさんが鉄砲の名人で、全日本の大会でも記録を十数年破られていないことを知っていた。毎年、正月には北海道の釧路の方で蝦夷鹿を撃ち、肉や毛皮や角を土産にするということも知っていた。僕たちはその証拠となる角の飾リモノが玄関や座敷にいくつも吊るされている状況に驚き、また、大会の賞状が何枚も座敷に飾られてもいたので、本当に驚いた。ホラじゃなかったんだぁ。ひまめは鴨鍋にがっついていたので、きっと気にも止めていなかったに違いないが。僕は別に遠慮していたわけではないが、矢継ぎ早にビールや日本酒、どぶろくまでも注がれ、鍋はもっぱらひまめの独壇場となっていた。ちなみに、友だちからもらったというどぶろくは、ドロドロ白く、味は酸っぱかった。    
 やがて、マサハルさんの狩猟における武勇伝のもう一つの証拠がさりげなく目の前に差し出された。それは、蝦夷鹿の生肉のスライス、つまり刺身であった。まだ少し凍っていたが、ニンニクをたっぷり効かせた醤油につけて恐る恐る口に入れた僕は、驚いた。口の中でその肉はトロリととけるように胃袋に吸い込まれていったのだ。臭みは全くないことが驚きであり、その軟らかさもかつて体験したことのない、マグロのトロのような食感で、ほんのり甘いのだ。馬肉、牛肉、鯨肉などの刺身は食ったことがあったが、これはその中でもNO.1だと思った。酒も進んだ。隣りを見ると、相も変わらず鴨鍋をつついているひまめがチラリとこちらを見たので、「うめえぞ、すごく。食ってミソ」と言った。ひまめは迷うことなく箸をのばし、口に放り込み、目を丸くした。マサハルさんはそんな僕たちを微笑ましげに見て満足そうだった。20枚ほどあった鹿肉の刺身はあっという間になくなった。    
 胃腸に効くというセンフリをいただきつつ、たらふくご馳走になった帰り道、「田舎っていいようね〜」腹を擦りながらひまめは本当に満足そうに言った。

「秋田の冬は寒いぞぉ。」

「冬を乗り越えられたら本物だな」。私が秋田に住むことに決まってから実家の義兄が何かにつけてそう言って脅かす。半端じゃない雪と寒さ。耐えられるかな? ってことらしいが、正直私はさほど心配していなかった。厚手のセーターも持ってきているし、布団も毛布も冬用に変えてある。トタン一枚だった壁も、発泡スチロールをはさんで石膏ボードを張って、一応冬支度はやったわけだし。ストーブだってあるんだもの。
 甘かった。11月の声を聞いたとたんに夕方から夜にかけてグッと気温が下がるようになり、朝の冷え込みも想像していた以上に早く体にこたえるようになってきた。それでなくとも、多分朝カーテンが開くのが村中で一番遅い家。村一番のネボスケなのだが、ますます起きるのが難しくなった。信じられないほど寝相が悪いことなは、布団に入ってから、寒い、寒いと毛布や掛け布団を引っ張っては動き回り、昆布巻き状態。しまいには「紐で縛ってしまいたい!」と叫ぶありさま。確かに寒いのだ。特に肩口がスースーして熟睡できない。寝ることを何よりの至福としている私たちだが、最近は寒くてなかなかその時間を満喫できなくなった。布団に入ってから自力であたたまるまでが長い。うとうとし始めても、肩のあたりがスースーして、せっかくの心地よい睡眠も途切れがちになるのだ。ストーブをつけたままで寝てみようか、いやそれは危険だし灯油がもったいない。毛布を1枚増やしてみようか、う〜ん、何枚重ねてもは肩先がいのは解消できないのではないか。そういえば、ジャスコやアマノで綿入りや毛布地の丹前風のものが当たり前に売っていたのを見て、なつかしぃ〜、田舎っぽ〜い、と指差して笑ったが、今とになって納得がいった。雪国の冬の必需品だったのだ。    
 お正月に実家に里帰りしたときに母にそんな話をしたら、「あら、寝巻きなら2組も新しいのがあるよ。お姉ちゃんたちがお嫁に行くときに作って持たせたんだけど、いらないって返品されたやつ」    
 そういえばそうだった。私が秋田に行くと決まったときも母は同じことを言っていたのだった。だけどそのときは「やだぁ、あんな田舎臭いもの。大丈夫だよ、毛布あるから」と耳も貸さなかった。母がゴソゴソと押入れから出してきた寝巻きを大切に風呂敷に包んだ。やった! これでまた心地よい深い眠りが戻ってくるぞ。    
 その夜は実家もかなり冷え込んだ。といっても、私たちが体験している寒さに比べたらパジャマ姿でも部屋にいられるのだから段違い。しかし母はしきりに寒いからと忠告し、ホッカイロとオレンジ色の袋に入ったものをもってきた。「何これ?」と聞くと、「湯たんぽだよ。あったかいから、だまされたと思って布団に入れて寝てごらん」としつこい。そんなに寒くないよねえ、とぶつぶつ言いながら、言われたとおりにして寝た。これがすごくいいのだ。ポカポカしてとっても気持ちがいい。完全熟睡。    
 秋田に戻って、私たちはさっそくジャスコで湯たんぽを探した。あった。昔ながらの楕円形をした銀色のものとか、キティーちゃんが描いてあるものとか。私たちが選んだのはドーナツ型をしたプラスチック製のやつ。ことなは水色で私のはピンク。袋はなぜか実家で見たのと同じオレンジ色のものしかなかった。その晩、さっそく試してみた。布団に入る少し前から湯たんぽを潜ませておくと、布団が全体的にほどよく温まっている。足を乗せたりはさんだり、抱きかかえてみたり。ポッカポカでなんとも言えない幸せな気分になる。熟睡した。この部屋で、この布団で久しぶりに味わった快眠だった。    
 乾燥を防ぐためにストーブの上にのっけているヤカンのお湯を、寝る時には暖房に使い、朝起きたら、まだほんのりと暖かいそのお湯を食器や布巾など洗いものに使う。とっても経済的だ。湯たんぽはかなりスゴイやつだと思う。    
 寝巻きと湯たんぽがそろい、万全となった私たちの睡眠環境。あまりの気持ちよさにますます布団離れが悪くなり、今度は、朝どちらが先に起きだしてコーヒーを入れてくるか、ひそかにけん制し合うようになっている。

「アオゲラを発見」

 朝、例によって起きるのがいやで、2人とも布団に丸まってグズグズしていたところに、外でバタバタバタッ、ギーギーッというけたたましい音がした。「なんだ、今の?」そう言って顔を見合わせたとたんに、またバタバタタギーギー。飛び起きて外を見ると、焼き芋くらいの大きさの灰色っぽい鳥がカラスに小突かれてのた打ち回っていた。「あ、何か鳥だよ! カラスにやられてる」と言って外に出て見ると、どこか怪我をしているらしく、大きく羽を広げたまま、じっと動かなくなっている。そしてその鳥を、屋根の上からじっとカラスがにらんでいるのがわかった。「畜生、カラスめ!」とことなが追い払い、(カラスは賢いので、下手に威嚇したりすると仕返しされるという恐怖心からか、かなりへっぴり腰ではあった)やっつけられた鳥を抱き上げようとしたけれど、野生の本能が最後の力を振り絞らせるのだろ、暴れまわってあっちこっちと低空飛行を続け、なかなか捕まえることが難しい。軍手の上から激しくつつかれながら、ことながやっとの思いで抱き上げ、まずは安全な玄関の中まで。そっと放してみると、逃げる意思はあって、羽を広げて飛ぼうとするのだけれど、バタバタと派手な空しい音を立てるだけで、鳥は飛べなかった。ひとまず新聞を敷いた発泡スチロールの箱に入れて、洗濯物を入れていたカゴをかぶせて、私たちはどうしたものかと思案に暮れた。    
 私は初めてみる鳥だった。「もしかしたらクマゲラの仲間かも」と、ことなが鳥類図鑑で調べて見ると、彼と同じ姿の鳥が載っていた。青ゲラ。オスであることもわかった。クマゲラは●●だけど、青ゲラは山里にも住むらしい。

「どっかり雪が降った」

ドッカリ雪が降った。前の晩、かなり本格的に降っていたから、夜のうちに相当積もるだろうな、と予想していたら、やっぱり思った通りだった。屋根も周りの竹林や木の枝もすっかり雪をかぶり、水墨画のような景色に変わっている。久しぶりに見た、あたり一面の雪景色に、と私はなんだかうれしくなった。小さい頃はこのくらいの雪、実家でも積もったことがあるけれど、それとはなんだか格が違うような気がした。    
 しかし、喜んでばかりもいられない。玄関の前も、勝手口のところも、車庫の前もすっかり雪。60センチは積もっている。いよいよ出番。雪かきだ。なにしろ朝が遅い私たち。近所の家はどこも玄関までのところはすでにキチンと雪がよけられていて、取り残されているのはこの家だけであることに気がついた。何十年ぶりといってもいい雪かき体験。ユキってこんなに重かったけか。あっという間に体が火照って汗が出てくる。午後からまた雪が降り出した。また明日の朝は雪かきだな。    
 例によって布団の中でグズグズしていて、9時頃に起きだした。やっぱり庭も畑も昨日さらに真っ白い雪布団の厚さを増していた。外に出てみると、家の前の道路がきれいに除雪されていて、どかした雪が両脇に雪の壁となっていた。そうか、これが雪の壁っていうやつか。それにしてもさすがに雪国。こんな家の前の細い道路までちゃんと除雪してくれるんだと感心したのだが、そこに思わぬ大仕事が待っていた。雪の壁は玄関の前だろうが、庭の入り口だろうが、車庫の前だろうが容赦なく出来上がっており、それを彫らなければ、家から道路に出ることも、外から家に入ることもできないのだ。ガッツリ積み上げられた雪の壁を自力でどかして通り道を確保しなければならないのだった。最初のうちはよかったけれど、雪の量は日増しに増え、どかした雪の捨て場がなくなってきて困る。    
 毎日のように雪が積もるようになって、除雪車も頻繁に出動するようになり、そのたびに通り道を作るのがここでの冬の仕事メニューのひとつであるのだ。

「雪下ろし」

 朝、布団の中から目だけ覗かせて時計を確認していたから、9時を回ったのは知っていたけれど、起きだす勇気がない。だって今日は日曜日だもん。少し暗い朝寝坊したっていいよね。月曜から金曜までも起床時間は早まらないくせに、そんな都合のいいことを口走り、隣で頭まで布団にもぐって寝ていることなの同意を得たことにして、うつらうつらしなが丸まっていると、ピンポ〜ンと勝手口の呼び鈴が鳴った。誰だあ? あわてて隣のことなの布団をたたいて起こすと、ことなは飛び起きて「はい、はい、は〜い」と言いながら勝手口に出て行った。今、玄関に繋がる庭の入り口は雪の壁で進入不能なため、道路に面した勝手口がメインの入り口になっている。呼び鈴が勝手口に設置してあるのだから、それなら年中ここを正規の玄関にすればいいのにと、私はもともと不思議に表思っていたのだが、あくまでも玄関は向こう側であるらしい。ことなはピンポ〜ンにものすごく機敏に反応する。それなのでうちの渉外窓口はことなの担当だ。    
 いつもなら、ケイコさんがダイコンくれたよ、とか、村の集会の案内状をワープロで打って欲しいって頼まれたとか、宅急便で荷物が届いたとか、そんなな類の用事ですぐに部屋に報告に戻ることなだが、ドタバタと出て行ったきり、なかなか戻ってこない。耳を澄ませると、外でなにやら会話らしき気配がしていた。何かあったのかな? 起きていってみようか、相変わらずグズグズと考えては行動に至らないでいるうちに、ことながドシドシと音を立てて廊下を歩いてきた。と思ったら、私が寝ている部屋を通りすぎて、バタバタしていたと思ったら、また通り過ぎて行った。なんじゃ? なにごとだ? さすがにどうも寝てはいられないような気がしてきた。「屋根の雪おろしすることになった」。しばらくして部屋に報告にきたことながちょっと上気した顔で言った。    
「え、雪おろし?」    
「うん、夕べ話したタダオさん、いるでしょ。俺が屋根の雪のことずいぶん気にしてたようだったからって来てくれたんだ。だから一緒にやることになった」
 確かに気になっていたのだ。12月の後半から毎日毎日雪が降るようになった。ドカドカ降る日もあれば、シンシン降る日もあれば、チラチラの日もあるけれど、当たり前のようにほぼ毎日雪が降る。年末にドッカンと振った雪はすっかり屋根を覆い、例のつらら怪獣となって壁面に忍び寄っていたが、お正月に里帰りをして戻ったら、天気がよかったのだろう、すっかり解けて消えていたのでまずは胸をなでおろしたのだった。よくよく観察していると、近所の家の屋根の雪は、日中ちょっと気温が緩むと、なだれのようにダダーッと音を立てて屋根から滑り落ちる仕組みになっている。トタンが縦にはられている家もあれば、横に細長く張られている家もあるが、どこもいつのまにか雪が落ちるようだし、それでもダメだとなると、各家の人が屋根に上がって雪下ろしをするのだ。ところが、我が家はなにせ古い家で、屋根もがたがた。錆付きまくっているし剥げまくっているので、大工さんに「コリャダメだな」と匙を投げられていたほどだから、雪が勝手に滑り落ちるなんてことは期待できない。降れば降っただけ積もっていくので、重みでいつ潰れるかと気が気じゃない。前回はラッキーだったけど、これから本格的な豪雪期に入る2月にかけて、屋根の雪下ろしは必須だ。既につい2〜3日前に降った雪が70センチくらいの厚みに育ってこんもりと屋根を覆っていた。襖や障子も重みで開けづらくなってきている。しかし、このところ新聞に連日「屋根の雪下ろし中に転落死」という記事が載っているのを見て、長年住んでいるベテランでも怪我したり死んじゃうこともあるんだから、やっぱり素人が安易に手をだすのは危険だよね、と話していたのだ。ちょっと前まで「俺、やれそうな気がする、やってみるさ」と言いっていたことなも、さすがに思い直したらしい。今度の村の臨時総会で、誰かに雪下ろしのコツとか注意点を聞いてこよう、ということにしていたのだ。    
 総会が終わって飲み会になったとき、ことながそんなわけで周りの人に話しをしたら、みんながいろいろなことを言っていたらしい。    
「やっぱり村の人でも怖いってよ。必ず命綱つけてやるって。それでも、軒先から1メートルは特にすべるから足をのせないって」。
 ことなの報告を聞くと、やはりあなどれない危険作業であることがわかった。しかも、その日の話の結論は、「おめんどごだばなんもしねてもいい。潰れネべ」ということだったらしい。ちなみに、今まで村で雪で潰れた家ってあるのか? とことなが聞くと、「聞いだごどねな。極限に挑戦してみろ」と言われたそうだ。    
 総合的に判断して、潰れた前例がないということを根拠に、放っておこう、そのうち解けるだろう、という結論に達したのだった。その翌朝現れたのがタダオさんだったというわけだ。    
 そっか、雪おろしかぁ、と思った矢先、天井の方でドシンドシンと音がした。あ、やばい、もう屋根に上がってる。さすがに私は飛び起きて、着替えをし、防寒着と帽子に長靴を履いて、遅ればせながら外へ飛び出した。    
 あとでことなに聞いたところによると、タダオさんは雪かき用のスコップと命綱用のロープを用意してきていて、やる気満々。あわててことながはしごを運んで、いざ屋根へとなったらしい。見るとタダオさんはスパイク付きの長靴に滑り止めの縄を巻きつけていて、さすがにプロは違うと思った。私もあの縄が欲しいなと、ちょっとうらやましかった。    
 ひさしのところの雪をサクッサクッとスコップで切ってザーっと押して落とす。次に上の方へと移動してサクッサクッ、ザー。足場を作り、確かめながらこれを手際よく繰り返す。端からきれいに雪が落ちて屋根が現れてくるのが気持ちいい。ことなもみようみまねでスコップを動かし始めた。2人の雄姿をカメラに収めながら、滑って転げ落ちてきたらどうしようと、内心かなり心配だった。大きな雪の塊がドサッ、ドサッと落ちてくる。家の周りはあっという間に雪だらけになった。途中コーヒーで一休みして、第2ラウンド。終わったときにはお昼を回っていた。降りてきたタダオさんはシャツ一枚になっていて、汗だくだった。本当に助かった。ことなと私だけでは到底こんな短時間で手際よく雪をおろせたはずもないし、怪我をしないでやれた自身もない。それこそ潰れる極限をドキドキしながら体験するハメになっていたかもしれない。またしても村の人に私たちは助けられた。    
 聞けばタダオさんは●●歳。この村では、雪よけも雪おろしに屋根に上がっているのもみな六十を過ぎた年齢の老人だ。70や75歳を過ぎた人だって颯爽と、身軽に、危険な肉体労働をやってのける。すごいと思う。田舎では若夫婦が共働きで日中は町に出ている家か、老人だけで暮らしている家がほとんど。田、畑の仕事や家や外回りのこまごました用事は老人たちがこなすしかないのだ。楽隠居なんて言っていられない。そして、また彼らはよく働く。当たり前のように体を動かし、重いものを運び、汗を流す。本当にすごいと思う。家族のため、近所のため、村のため、ひいては世のため人のために役に立ちつづけているこんな現役バリバリの元気老人たちに教えてもらいたいことがたくさんあるなあとつくづく思う。    
 雪をおろしたあとの屋根は、久しぶりに見るあの錆付いたボロいトタンだったけれど、なんだかとてもすっきり清々としていた。なんと、家の中の襖や障子も軽く開け閉めができるようになった! これほど雪の重みで違うものかと、これにはかなり感動した。

「マサハルさん式雪下ろし」

 今日は1月23日。大寒波が押し寄せているという予報の割に雪の量はこのところ少ない。とは言うものの、一時期どかっと降った雪は除雪車が来たこともあって、家の周りにも畑にもコンモリと積みあがっている。    
 最初のうちこそ珍しさも手伝って、うれしがって雪かきをしていたけれど、あっという間に追いつかなくなっていやになってやめてしまっていた。    
 ほかの家は朝早くからこまめにやっているんだろうなぁ、と思いつつ。      

 10時近く、朝とも昼ともつかない食事の用意をはじめたところに、マサハルさんが現れた。    
「こごの雪やってけっか?」    
「いやぁ、助かるすども悪いなっす」  
 そういうやりとりがことなとの間にあったらしい。ものの5分もしないうちに、TOYOTAの除雪車に乗ったマサハルさんが登場!    
 どーん、ぐお〜ん、ぐお〜ん、ドサッ。    
 あっという間に家の前の道と、山と詰れていた厳寒の前、車庫の前がサッパリと除雪され、黒い道路の土までも見えるほどになった。    
 驚いた!すごい。ふたりは目を丸くしながらそれを見ていた。    
 それから、マサハルさんを家に呼んでコーヒーをご馳走した。我が家自慢のカウンターに座ったマサハルさんは、    
「このカウンター、いいな」
 と、ボソッと誉めてくれた。キッチンもなかなかいい、とタバコを吹かしながら言った。なんといってもここは、マサハルさんが儲けなしで普請してくれたところだ。目を細めてうれしそうだったのは、そういう満足もてつだっていたかな?    
 そこへ、チョロチョロとチョロQさんが窓の外に姿を現した。除雪車の音を聞いて来てみたらしい。はじめ、彼は家の前を通り過ぎることろだったが、ことなが呼び止めて一緒にコーヒーどうぞ、と誘った。このチョロQさんは、畑を作る時にトラクターで耕してくれた恩人だ。いい機会だったので、マサハルさんといっしょにカウンターに座ってもらったのだ。    
「いいもんだな、いいもんだな」と、チョロQさんはしきりに部屋を見回して誉めてくれた。その傍らには、やはりチョロQさんにいただいたストーブがあって、ふたりは改めて感謝の言葉を述べ、彼はテレ笑いしながらうれしそうだった。
「田舎は家賃もいらねえし、金かがんねがらいいべ」
「まわりのみんなに助けられてありがたいです」と言うと、
「遠慮しねで、なんでもやってもらえ」  
 そう言ってくれた。水抜きは地下水を使ってるんなら、夜少しだけ出して寝れば凍らないとか、ツル細工だって金になるんだぞ、とか山に入ればヒルがいるから気をつけろ、ヒルは不思議と先頭の人にはつかない、とか田舎で生きる智恵を何気ない話の中で教えてくれた。また、朝は五時には起きてること、早起きは三文の得だってことなど、耳の痛い教訓を学んだ。でも、決してふたりの朝寝坊を責めることはしなかったけど・・・。そんな話をしているうちに、天気がすごくよくなり、私たちは自分の手で雪かきをやったわけでもないのに、なぜは心地いいすがすがしい気持ちになっていた。    
「どれ、そろそろ孫を迎えにいがねばな」  
 と、チョロQさんが立ち上がった。マサハルさんも「昼だな」と腰を上げた。    
 先週のサダオさんの雪下ろしといい、今日の除雪といい、またまた2人は村の人の好意に感激したのであった。

「雪かきダイエット」

 年が明けた2005年、日本列島を大寒波が襲っている。    
 中越地震の被災地新潟を始め、特に日本海側の雪は半端じゃない。    
 新聞やニュースでは連日。屋根の雪下ろしや除雪作業中に怪我をしたり亡くなった人のニュースも報じられている。太平洋側に生まれ育った私には、一応覚悟はしていたものの、この猛烈な雪の量というのは、「脅威」そのものである。キッチンの窓から眺めていると、粉雪、粒雪、綿雪、粗目雪。歌の文句じゃないけれど、刻々と姿を変える雪を目の当りにすることができる。    
 そして、確実に積もってゆく雪。    
 ここ馬場目町村の我が家は、家の前の小道にまでちゃんと除雪車が来てくれる。作業時間は午前2時から4時とかで、もちろん私もことなも夢の中である。ありがたいことだが、容赦なく除雪された雪は道路の両脇に積み上げられ、雪の壁を作る。玄関も車庫の前も容赦はない。そんなわけで、散々朝寝坊して起き出した私たちはまずこの雪の壁を掘らないと外に出られない、という状態になっているわけだ。    
 最初の頃こそ真っ白い雪景色に心踊り、はしゃいで雪かきに飛び出したが、その晩にはまた積もり翌朝には雪かきの成果は跡形もなく塗り替えられ雪の壁、ちょっとイヤになった。しかし、サボった分だけ次の雪かきが大変になる。    
 雪にうずもれるような生活となった田舎の冬。当然のことながら、行動範囲も狭まり。というより家から心理的にも物理的にも出ずらくなり、私たちは冬ごもりと称して、起きて食べて飲んで寝るせいかつを繰り返している。栄養も睡眠も十分すぎる程にとっている。結果・・・。    
 かなり肥えた。    
 ある朝、目が覚めて気がついた。瞼が重い。鏡を見ると顔がパンパンに腫れている。それが寝起きのせいだけじゃない時がついて愕然とした。ことなも同じだった。確実に肥えている。体重計に乗ってみてそれは確実なものとなった。このままでは「肉こごり」になってしまうよ」と、ことなが言ったせりふに私はぞっとした。実体重より見た目が大事、という持論はもはや口に出来ないところまできていた。考えてみればほとんど体を動かしていないのである。汗をかくことすらない。それなのにエネルギーだけ蓄えつづけてきているのだ。いかん、いかん。    
 私とことなはあれこれ考えた。この有り余るエネルギーを発散して消耗するか?    
 たどり着いた答えが「雪かきダイエット」。    
 雪かきってバカにならない。マイナス1℃とか2℃の外に飛び出して、スコップをひとふり、ふた振りすると、とたんに体がポカポカしてくるし、玄関の前車庫の前をひととおり終える頃には、頭からびっしょり汗をかいている。こんないい運動はないぞ、と気がついた私たちは、冬の間に蓄えた脂肪を燃やすために、毎朝セッセと雪かきに励むようになった。効果の程は別にして、痩せるかもしれないという暗示は、私たちを突き動かし、人の家の前まで進出する勢いだ。    
 さて、効果の程は?

「児玉自動車」

マサハルさんにもらったクルマの車検が迫っていた。そのクルマ(白い四駆のミラJ)は、5月から10月まで実によく走った。走行距離13万キロに迫るその老体に鞭打って買物、病院、極めつけはひまめの両親との秋田ツアーでの大活躍。昭さんは乗り心地がいいと言い、桂子さんはこのクルマをくれたマサハルさんが一番の恩人、そんなふうに唸らせるほどよく頑張った。彼は僕ら4人を乗せて秋田の内陸の山道を走破したのだから。そんな彼の功績は計り知れなかったけれど、車検、それはいやおうなくやってきたのだ。僕はこのクルマに限りない愛情と敬意を抱いていたので、見た目はボロでも走行距離がなんだってんだ、絶対車検を通して乗ってやりたいと思っていた。    
 電話帳で車検工場を探していた時、トミが入所している近くの山本町角渡に児玉自動車という格安の車検工場を見つけた。登録料込みで5〜6万と書いてあった。迷わず僕は連絡をとった。取りあえず見せて下さいという言葉にトミのグループホーム入所手続きの前に寄ってみた。兄ちゃんがニコニコして現れた。この人がヒロシさんだ。僕らは査定の間、トミのホームに行っていた。戻ってくるとヒロシさんが申し訳なさそうに車体の写真を見せながら言った。    
「これは最低でも22万以上かかります」  
 僕とひまめは顔を見合わせた。だけど、ヒロシさんの顔と写真の状態を見ると、納得せざるを得なかった。むしろ、あの4人の秋田ツアーでよくぞ故障しなかったものだと胸をなでおろしたのだった。ラジエーターとかが錆びてもう故障寸前だったらしい。ヒロシさんが申し訳なさそうに提示した査定金額はあくまでも今見える範囲でのものであり、実際にあけてみないと、いくらかかるかわからないという状態だったのだ。つまり、愛車のミラは瀕死の状態。仮にお金をかけて車検を通しても、その後の安全面にはかなり不安を残すというのが現実だった。    
 その説明をするヒロシさんの人間性に僕たちは妙に親近感をもってしまった。賭けね無しでいい人なんだよね。22万円はとてもじゃないけど出せないし、僕はひまめと顔を見合わせ、本気で困ってしまった。僕たちの生活にとってクルマは必需品だ。しかし、22万もの金はない。しかもヒロシさんの説明によるとこのミラは限界ギリギリだった。とはいえ、新車は勿論、中古でさえ、今は買える経済事情じゃない僕たち。僕はおそるおそる聞いてみた。    
「何か安くていいクルマ、ないですかねえ・・・・・・」  
 ヒロシさんはそんな僕らの逡巡する姿を気の毒そうに見ていた。そして言った。    
「ウチで使っている代車でよければ」    
 僕はいくらですかとすかさず聞いた。四駆じゃないけど、車検が1年半ついて8万円と彼はこれまた申し訳なさそうに言った。僕とひまめは顔を見合わせ、思わずヤリッ! ニヤッと顔が緩んだ。僕は即座に「それでいいです!」と答えていた。ヒロシさんは更に更に申し訳なさそうに、「とにかく見てもらってから決めてください」とあくまでもひかえめだった。    
 1週間後、整備が終わったという連絡をもらって僕たちはいさんでクルマを見に行った。そこには、ピカピカに磨かれたミラちゃんの兄弟、ミラPicoがとまっていた。足回りに若干錆びがあり、シートカバーはぶっ壊れていたものの、走行距離は6万キロで、ラジカセもちゃんと動いた。試乗させてもらった僕らはいっぺんで気に入った。戻ると缶コーヒーを手にヒロシさんがニコニコ顔で立っていた。僕たちが「気にいりました。決めます」というと、また申し訳なさそうに「タイヤはあるすか?」と聞いた。「いやあ、スタットレスは買わなくちゃならないんですけど」と言うと、彼はなんと新品のスタットレスタイヤを4本つけて8万円でどうでしょうか、と例によって申し訳なさそうに切り出した。耳を疑った。車検1年半付きで8万円というだけでも驚きなのに、新品スタットレスタイヤをつけてくれるとまでいうのだ。どこまでも人がいい。我々が相当貧乏だとわかったものやら、はたまたヒロシさんの人間性のなせる技なのか、とにかく彼はどこまでも素敵だった。神様に見えた。かくして僕たちは2代目のミラを手に入れたのだった。    
 こんないい人がこの世の中にいるものだろうか。僕とひまめはその晩、ヒロシさんの好意に乾杯し、そしてこれからずっと児玉自動車にお世話になることを誓った。ウマイ話には裏があるというが、僕らはこのクルマで高速を使っての石巻の往復と、雪道を今もスタスタ快走している。児玉自動車に限って裏なんてないのだ。

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